
「少年H」は、言わずと知れた、妹尾河童の戦争体験を綴った自伝的小説である。
今回、映画公開初日の1本目を見て来たのでその感想を書いてみたい。
小説「少年H」の初版は16年前の平成9年。これまでに幾度か重版され、総販売数は上下巻合わせて340万部以上だという。
昨年、そのミリオンセラー小説が、15年の時を経て映画化されると知った。
戦前の風景が残る「ニッケ加古川社宅群」でロケが行われた・・・そんなニュースが地元・神戸新聞に掲載されていたからである。
その後、自身の就活等の問題から、久しく映画のことは忘れていたのだが、先日、仕事帰りに実家にふらりと立ち寄った際、何の気無しに神戸新聞に目を通すと、「映画・少年H、明日公開」の広告がデカデカと掲載されていた。
明日は偶然にも仕事は休み・・・。一番近い映画館は電車で一駅隣だということもわかった。
当日の朝、隣街の映画館へと自然に足が向いていた。この映画館に行くのも、実に34年ぶり・・・。懐かしさもあったのだと思う。結果として公開初日の1本目を見たのだが、お盆休み初日ということも手伝ってか?想像していたよりもお客さんは多かった。
5日後に68回目の終戦記念日を控えた8月のこの時期、毎年のことだが、太平洋戦争に関連するTV番組が特集される時期である。
映画「少年H」は戦時中の出来事を題材とした作品だけに、映画館に足を運ぶのはどのような客層なのか?少々興味があったのだが、予想していた通り、お客さんの殆どは私の両親と同じ戦時中の生活を知る高齢の方ばかりであった。他にはお母さんに連れられた小学生がちらほらと見られる程度である。私と同世代・・・元より、若者のカップルなどは皆無であった。
(・・・と言っても、子供を連れたお母さんの方が私よりも遥かに若いのであるが。)
それにしても、なぜ?今、「少年H」の映画化なのか?と思う。
ご存知の方も多いと思うが、「少年H」に関しては、その内容に疑惑が持たれている。
戦時下を生きた少年にしては、考え方が戦後的でリベラル過ぎるというものだ。
また、戦後に判明した歴史的事実を、当時少年だった筆者が既に知っていたのは不自然・・・という意見もある。
これら疑惑により、嘘っぱち小説のレッテルを貼られているのは事実である。
このような問題が映画化を遅らせたのかもしれない。
「少年H」の疑惑に関しては「少年H」その②で記述するとして、まずは映画の映像面での感想から記述したいと思う。
【素晴らしく再現された当時の神戸の街並み】
原作「少年H」の舞台は、昭和12年から21年にかけての神戸市須磨区鷹取町である。(※行政区は当時も須磨区鷹取町であったと思われる。)
Googleマップによると、私の自宅から、当時、H少年が住んでいた本庄町6丁目まで、電車で行けば30分、車だと25分だという。
私にとって鷹取は少々馴染みの場所である。毎年、秋になると登山トレーニングの一環としてJR鷹取駅にて下車。 徒歩で板宿八幡まで向い、須磨アルプス経由、JR塩屋駅方面に下山し、電車に乗り帰宅・・・これが休日の定番メニューとなっている。
また、何より忘れられないのは阪神淡路大震災後の2日目、同級生の自宅の状況を確かめるべく、自転車を押しながら歩いたことである。
黒焦げになった自動車が路肩に何台も並び、焼け落ちた電線、足元は消火の後の水溜り、倒れた電柱に進路を塞がれ、何度も周り道をしながら歩いた。
私はこの時、一面の焼け野原を俳諧しながら、神戸空襲の直後の神戸を連想していた。なお、最初は真っ黒だった街並みも、1ヶ月ほどすると降雨の影響などで真っ赤な街並みに変化して行った。当たり前と言えば当たり前の話である。
このような少し渋目?の観点で、再現された映像・・・昭和初期から戦後にかけての鷹取や須磨、そして三ノ宮市街、異人館界隈を見た訳だが、その仕上がりは大変満足の行くものであった。
まずオープニングで驚かされたのが、鷹取(須磨)の浜から見る淡路島の遠景・・・。
これは地元住民が見ても十分納得出来るものだと思う。恐らくこのシーンは、原作本の装丁に使われていた風景をオマージュしたものであろう。 難癖付けるなら、波が高過ぎる・・・(笑)
須磨の海は映画のシーンほど波は高くないのであしからず。
また、H少年が父の商売に同行して三ノ宮に行くシーン・・・。
鷹取附近から三ノ宮をつなぐ路面電車(市電)は、神戸の懐かしい風景である。3、4系統?須磨・大橋線だろうか?鷹取から旧居留地、栄町界隈の市電が通る風景が見事に映像化されている。
さらに、神戸と言えば忘れてはならないのが旧居留地と異人館街だろう・・・。
H少年が父に付いて訪れる異人館街。
神戸港がほんの少し垣間見える映像に、思わず北野町2丁目界隈からの風景を連想した。
総じて、神戸の特徴である市街地の背後に迫る六甲山系、これは塩屋から西宮まで続くものだが、それら背後の山並みと、市街地の影の方向など、映像中の東西南北の関係に違和感が全く感じらず、地元を知る人間なら「あそこのあの曲がり角からの風景では?!」と思わせるようなシーンが多々見られた。
綿密な現地調査が行われたのだろうと、想像に難くない。昭和初期の地元を知る映画通の方々に見せても、納得して頂ける仕上がりになっているように思われる。
私自身、当時を生きていた訳でもないし、路面電車も、三ノ宮そごう前附近の微かな思い出しか無いのだが、それでも古い神戸の街並みを知るための参考参考資料として、「神戸市今昔写真集」「神戸の市電と街並み」「神戸市電が走った街・今昔」などの書籍をお勧めする。一読すれば再現された映像の素晴らしさがわかるはずだ。
また、映像資料として(神戸ではないが・・・)、「戦前の日本 昭和初期のカラー映像」(YouTubeで視聴可能)や、戦前の小津安二郎の映画「東京の女」(YouTubeで視聴可能)など、また、カラー映像化された戦時中の白黒フィルム(NHKオンデマンドで視聴可能)、などが当時の雰囲気を知るには良い資料となるはずである。
さて、これらの映像は、「あなたへ」「居酒屋兆治」の降旗康男監督によるものだが、
私は、降旗康男監督によって昭和初期の神戸の街並みが、どのように再現(表現?)されるのか、特別な期待を寄せていた。
同監督の代表作に、やはり、昭和初期を描いた作品「あ・うん」(1989年)があるからだ。
【映画、あ・うん】
話は映画「少年H」から逸れるが、映像の中の昭和のリアリティという点で降旗康男監督の「あ・うん」について触れてみたい。
映画
「あ・うん」は、NHK「ドラマ人間模様 あ・うん」(1980年、向田邦子脚本)を、平成元年に降旗監督が映画化したものだ。物語の舞台は日中戦争前夜の昭和12年の東京である。
「少年H」とほぼ同時代を描いた作品ということになろう。
物語のテーマが夫婦の三角関係?や男女のプラトニックな愛??・・・である為か、ドラマ版「 あ・うん」は全般、暗いトーンで展開して行く。一方、降旗版「あ・うん」は、重荷になりがちな水田の父親の存在はスッパリ省かれ、テーマを逆手に取ったのでは?と思えるほど、明るい作品となっている。
この三角関係・・・まるで小学校の頃の幼友達が、そのまま大人になったような・・・そんな男女関係となっており、主演の高倉健 · 富司純子 · 板東英二は少年少女そのままである。(※
原作とは全く違う仕上がりに、映画の評判は良くないのだという。)
映画評はともかく、この作品の明るさ・・・私は疲れてのんびりしたい時など、冷酒を片手に映画「あ・うん」見ている。(この作品を見ると、つい日本酒が飲みたくなる。)
私の好きな映画の一つでもある。
そんな、映画「あ・うん」の中で描かれた昭和初期の東京の街並みは、見れば見るほどリアリティがあり、深みがある。
製作当時の映像技術の関係から、一部、合成が目立つシーンもあるのだが、いったい、この映像の深みはどこから滲み出るものなのか?何度も映像をチェックしながら考えてはみるのだが、今もってその謎は解けていない。
実は、「少年H」の原作者・妹尾河童氏も「降旗監督ならば・・・」ということで「少年H」の製作を承諾したという。
妹尾氏も、降旗監督といえば「あ・うん」の印象が強いようで、インテリアデザイナーとして、映画のセットにはこだわりがあるであろう(?)妹尾氏が、降旗監督の映像であれば映画化を任せても良い・・・と考えたのは無理からぬことだと思う。(※もちろん、「主義主張」が同じというのはあるだろう。)
映画「あ・うん」の中で、よく出来ているな・・と感心させられるシーンを挙げると以下の通りである。
・水田家(借家)の内部と周辺の街並み。
特に素晴らしいのは、表通りから水田家までに入る小路。
通常、室内セットなどでは奥行きをごまかす為に、極端なS字形の曲がり角を多用するものだが、映画「あ・うん」
ではそれがほとんど見られない。
・最新型のラジオ。
きれいな最新型ラジオが登場する。わざわざ小道具として外回りだけを一から作ったのだろう。スピーカーとダイヤル類が縦に並んだ放送協会認定型のラジオ(高級品)である。昭和初期のセットでは、ラジオは重要なアイテムであるが、そのラジオが余りにも古びてしまって、それがかえって不自然さを感じる時がある。当時の
新品のラジオを登場させた点からも降旗監督の時代考証に対する意気込みを感じる。
・神楽坂の街並み、銀座?橋の上で水田と“まり奴”が遭遇するシーン。
実際の神楽坂と風景が異なるが、昭和初期の雰囲気は出ているように思う。特に目立った点は無く、街灯や人力車、人々の服装だけで当時を上手く表現している。やはり、当時の街並みの再現はロケハンが決め手なのだろうか?
・下町の“まり奴”の家に水田と門倉の妻が押しかけるシーン。
どこでロケをしたのか?板塀の下町が見事に再現されている。私の実家周辺では小学生の頃まで、至る所で見られた風景だ。懐かしさを感じる映像である。
細かく見れば、路面がアスファルトであり、そういった点では不自然ではある。
・門倉が見知らぬ男と屋台で酒を酌み交わすシーン。
川沿いの場面だが、これも良くぞ、このような場所をロケハンして来たものだ!と感心せずにはいられない。コンクリートの壁面が“いびつ”なのが良い。
・ラストの水田家でのシーンの降雪。
映画のクライマックスを飾る大切なシーンである。昭和の再現という点から少し外れるが、この雪のシーンをどうやって撮影したのか?謎である。オープンセットだとすれば実際の降雪を待ったのか?いや、そんなことをすれば、神業的なタイミングでなければあのような美しい映像は撮れない。実に不思議なシーンである。
これらの映像の特徴として、詳しく見れば見るほど、何の変哲も無い・・・
しかし、昭和初期が見事に画面内に再現されている。
この何の変哲も無さ・・・例を挙げるなら修善寺の新井旅館でのシーンが著明だ。
旅館の内部は、現在でも旅の紹介番組で良く見られる老舗の旅館・・・ただそれだけなのである。(※事実、修善寺の新井旅館は映画、ドラマ、CM撮影などに良く利用されているらしい。)・・・にもかかわらず、昭和初期の雰囲気が見事に表現されているのはなぜか?
洋服のデザイン、着物の柄、照明や小物などのデザインが当時のものだから・・・という、この一点に尽きる。
【他の映画の失敗例として】
逆に、他の映画や映像で感じる“昭和の表現の失敗例”を挙げてみたい。これら失敗例からわかるのは、当時のいろんなものを映像の中に詰め込むだけでは違和感が発生してしまうということだ。
・「ALWAYS三丁目の夕日」
CG技術の発達により、昭和39年当時の東京を見事に再現している作品。
しかし、画面の中に昭和を詰め込み過ぎて、不自然さが感じられる。
CGであるが故に、素材の不均一さ、粉っぽさ、油っぽさ、臭さ(臭気)が感じられない。
実際の下町などでは殆ど見られない、室内セット特有の“極端なS字の曲がり角”が見受けられる。
・「時をかける少女(2010年版)」
昭和40年代?のアパートなどを利用してロケで使用しているが、建物の劣化が著しく廃屋に近い感じ。当時は最新の建物だったはずだ。
裏路地までアスファルト舗装化されてしまっている。
昭和40年代を代表する乗用車が多数出ているが、年式がバラバラでかえって不自然。結局、昭和を詰め込み過ぎた結果ではないか?
結局の所、戦前にしろ、昭和30~40年代にしろ、当時を映像で再現するには、当時のいろんなものを画面に詰め込むのではなく、現在の風景から当時存在しなかったものを取り除き、当時の服装と小物を揃えれば、それだけで目的が達成されるのでは?と思う。実際、風景から現代的なものを取り除くことはできないので、極力、現代的なものが存在し無い場所をロケハンしてくることが、映像再現の決め手なのかもしれない。
このように“昭和”を詰め込むのではなく、現代的な部分を排除して小物で統一する。これがチームとしての降旗組のこだわりではないかと思う。監督から直接聞けるものなら聞いてみたい話である。
【永遠のテーマ・方言】
さて、神戸の住人から見た水谷豊と伊藤蘭の神戸弁であるが、これは致し方無しであろう。
私自身は映画を見る上で、それほど役者の方言が気にならない方なので問題なかったが、せっかくなら神戸出身の役者を使えば良かったのに・・・と感じる方も多いと思う。
しかし、妹尾盛夫、敏子夫婦は共に地方出身者なので、実際は私の両親と同様、完全な神戸弁で無かった可能性はあるように思う。そう考えれば少しは楽に見れるのではないか。
実際、神戸弁と言っても、大阪に近い東灘方面と三ノ宮から須磨までの地域、また須磨から以西の明石までの地域で微妙にイントネーションが異なり、完全な再現は不可能だろう。あの「火垂るの墓」の声優でさえ東灘附近の神戸弁ではない。
映画の背景の街並みが実写ではないのと同様、方言もこだわり過ぎると映画の面白味を半減させてしまうように思う。
最後に一つ、空襲の際、H少年が空を見上げて「花火の様できれいやなぁ・・・」というようなことを思うシーンがあった。
実際、私は焼夷弾による空襲を受けた経験が無いので全くの想像にはなるのだが、このシーンは実に良く再現出来ていたように思う。
以前、淡路島にサイクリングに行った際、偶然にも地元の年配の方から、明石空襲の話を聞いたことがあった。明石の川崎重工の工場が狙われたのだという。その模様をその方は、対岸の淡路島の山の上から見ていたという。その方も、空襲の模様は花火の様できれいだった・・・と語っていたのが印象に残っている。