
主人公の須藤陽子(井上真央)は、安曇野女学校まで自転車通学をしている。この是非については、「おひさま」の放送開始直後、ネット上で育子不要論に次いで多かった意見であり、その殆どが否定的なものであった。一番の理由は、戦前に女性用自転車は存在しなかった・・・とするものだ。つまり、物語に登場する女性用自転車その物がNGだということである。陽子の自転車通学を根本から否定する話であり、当初、私もなるほどそうか・・・と思っていたが、両親への聞き取りを進めるうちに、とあるきっかけで疑問を抱くに至った。結局、私自身、戦前の女子の自転車通学に関してはよくわからなくなってしまったのが正直なところである。
そもそも、陽子が自転車通学をしている“安曇野高等女学校”は架空の女学校である。おそらくモデルになっているのは豊科高等女学校であろう。(現在の豊科高等学校)
しかし、ドラマに登場する“有明山”という実在の地名と、度々登場する安曇野の遠景(長峰山から穂高有明方向)を考慮すると、「おひさま」で描かれた架空の世界は、おおよそ、“大王わさび農園”西の「穂高駅」を中心とする一帯であり、陽子の通う“安曇野高等女学校”は「穂高駅」の少し南にある現在の穂高商業高等学校附近にあると考えるのが自然だといえる。そう考えると、山の麓の村から駅南部の女学校まで約6~7km。当時の感覚でも徒歩通学は大変だったはずだ。現在よりは遥かに健脚だったとはいえ、女生徒の足でこの距離は困難を極めたであろう。私の父の唐津商業時代の友人に、値賀から有浦のバス停までの約7kmを徒歩でやって来て、一緒に唐津までバス通学していた強者もいたようだが、父は今でも信じられないという。(遠距離の場合は通常、寮・下宿生活だったらしい。)
架空の女学校であれば歩いて通学可能な場所に設定しても良かったのではないか・・・。しかし、この陽子の自転車通学は、育子(満島ひかり)の存在と同様、当時の女性の自立意識向上の象徴として、このドラマに欠かすことのできない設定であるように思う。つまり、育子がお嬢様育ちでは意味がないのと同様、徒歩通学の陽子では、なんとも物語にしまりが得られないのだ。また、個人的に主人公の陽子は、颯爽と自転車で通学・通勤する必要がある・・・とも思う。これには多分に映画「二十四の瞳」がモチーフとして、私の脳裏に先入観として存在しているからであろう。
考えれば、有明山国民学校で教鞭を取る陽子は、岬の分教場で教鞭を取る大石先生だ。陽子先生の着任直後、生徒からのイタズラによる洗礼。結婚を知って家まで押しかける生徒達、産休後の生徒達との再会・・・。そして、教鞭を退いてから後の卒業生との交流は、何かしら「二十四の瞳」大石先生の、着任から生徒のイタズラによる怪我、療養中から復帰、そして戦後の卒業生との再会を連想させる。
この「二十四の瞳」大石先生が乗っているのが女性用自転車である。「二十四の瞳」の物語は昭和3年から始まる設定だ。そして、小説「二十四の瞳」発表されたのは昭和27年である。小説発表の時点で女性教師の自転車通勤が非現実的な設定であったならば、不朽の名作「二十四の瞳」は、発表当時、相当に世間の批判を浴びたのだろうか?!(が、発表当時の事は全くわからない。)
凡そ、戦前の時代を良く知る人ほど、女性用自転車は存在せず、陽子の自転車通学はありえない・・・と、考えているようだ。私の父も同じ意見で、絶対にあり得ない!と断言している。
父の生まれ育った肥前町仮屋では、平坦な場所が少なかったことも理由のひとつだろう。仮屋界隈で、戦前に自転車3台程度しかなかったそうだ。そんな環境もあってか?
伯母(父の姉)は、大層、水泳が得意な運動神経の良い女性だったが、生涯、自転車には乗れなかったという。
伯母は女学校を卒業後、代用教員を経て国民学校本科の免状を取得した。「おひさま」の陽子とは1歳違い。まさに「おひさま」の時代を生きた女性教師だ。
そんな伯母が生涯自転車に乗らなかったのは、やはり、女性用自転車が一般化したのは戦後だったため、練習する機会を得られないまま大人になってしまったからである。想像するに、伯母より上の世代の女性の自転車使用率は、その後の世代の女性と比較すると極端に低かったと思う。
一方、何気なく聞いた母の話は衝撃的であった。なんと母の従姉が、三養基郡から久留米の女学校まで、颯爽と自転車通学していたというのだ。これには驚いた。そういえば、小学生の頃、この話を母から何度か聞いた記憶が蘇った。
母の従姉は母より5歳年上、つまり、その方が女学校に通っていたのは昭和15年~20年の間ということである。陽子が自転車通学をしていた設定は昭和9年~13年であり、少し世代が異なる。その間に、急速に女性用自転車が普及したと言ってしまえばそれまでだが、実際、戦前に女学校まで自転車通学をしていた女性が身近に居た・・・という証言は非常に大きな意味を持つ。
しかし、残念なことに、その自転車が女性用だった否か?母には明確な記憶が無いのだという。戦時中、労働力不足を補う為、女性が自転車に乗って郵便配達を行ったのは、「おひさま」の中で、真知子(マイコ)が郵便配達を行っていたシーンで描かれていた通りだ。(女性が郵便配達を行う場合はもんぺ姿だった。)母の従姉は、郵便配達の女性同様、男性の乗る自転車で通学していたのだろうか?今となっては全く分からない。
果たして、戦前に女性用自転車は無かったのだろうか?
実は調べると戦前に、既に女性用自転車は存在したのだ。つまり、一般化していなかっただけの話なのである。
→「女性が自転車に乗ることが出来なかった戦前の日本について」(リンク切れ)
おまけのこのサイトでは、大正時代に一部の女学校で自転車通学が行われていた事例も掲載されている。
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大正13年(1924年)、広島県立上下高等女学校の土居校長は体育の向上を計るため自転車を奨励したので、女生徒の大半が自転車で学校に通学するようになり、盛んに自転車乗りの練習が校庭や道路で行われていた。
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これには私も驚いた。「おひさま」の設定である昭和13年から逆登ること14年も前の大正時代に、自転車通学をしていた女学生が存在したというのだ。残念ながらこの資料に関連して、どのような自転車で通学をしていたのか?を裏付けを取る資料が他に見つからなかったのだが、「戦前の女学生の自転車通学は無かった。」という説は間違いであることがわかった。
一方、女性が自転車に乗ることに対する偏見は激しく、乗っているだけで罵声すら浴びたと言うことも初めて知った。
「女性が自転車に乗ることが出来なかった戦前の日本について」(リンク切れ)より
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明治42年(1909年)7月の二六新報に裕福な家庭の女子学生が自転車で通学する3里の間に男たちからさんざん冷やかされた体験記として掲載されている。
「家から学校へ通学するのに3里。女の足では3時間かかり、夜中に起きて暗いうちに家を出ます。2年ほどは歩いてかよいましたが、なかなか苦しい。それで嫌でしたが、自転車を買ってもらってこれで通学しました。40分で行くことができましたので、すこしぐらいきまりがわるくてもと思ってはじめましたが、往復のときにいろいろな人から冷評や悪罵をうけるのは残念でした。女が自転車に乗って通るというので、その町々で特有の冷評を真っ向から浴びなければなりません。朝はどこでも起きていないので、わりに楽でしたが、千住の青物市場を通るときは、皆から頭をハリとばされそうになるので、自転車から降りて巡査に保護してもらいながら通るのは苦しかった。帰りは家に7時に着きますが、生意気な奴、どやしつけてやれ、ツラ覚えているぞ、帰りにみやがれなどの冷評をもらったり、家の中から石を投げられたり、水をかけられたりしたこともあります。」
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当時の状況を想像するに、現在でも女子高校生が遠方から単車通学をしていたら、同じようなことが起こるかもしれない・・・。
さて、“時代考証”という観点に戻ろう。陽子の自転車通学を時代考証という点で考えると、どうなるのだろうか?まず、昭和13年当時に、安曇野界隈で女性用自転車があったとは考え難い。「着衣の名札は義務?」と同様、当時の日本の世相・常識で見る限り、また、安曇野という限定した地区で見る限り、陽子の自転車通学(通勤も含む)はNGとなるのではないか?逆に「育子不要論?」で書いた様に、絶対にあり得ない設定ではないということも判明した。
東京から越して来たハイカラな元航空機技師の父親が東京から取り寄せたとすれば合点が行くというものだ。 小説
「二十四の瞳」では、洋服姿で自転車通勤をする大石先生は、村人から偏見の目で見られるという描写が存在する。「おひさま」でも、陽子が周囲から奇異の目で見られながら通学するシーンがあれば、リアリティもアップしたのかもしれない。あまり「おひさま」というドラマには似つかわしくないことではなるが・・・。
※なお、鹿屋にある鹿屋航空基地資料館には、戦前、自転車通学をしていた女性の写真が展示してあった。特攻隊員をお世話した一家の娘さんでだった記憶がある。撮影は不可であるし、こっそり撮影したところで掲載は出来ないのだが・・・