朝ドラ「おひさま」と両親の戦争体験

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満洲での生活・伯母編


 母の姉は母より6歳上の昭和2年生まれである。

【時代背景】
昭和12年7月7日:日中戦争開始
昭和16年12月8日:太平洋戦争開始
昭和17年4月18日:ドーリットル空襲
昭和17年6月5~7日: ミッドウェー海戦
昭和17年8月7日:米軍、ガダルカナル島上陸
昭和18年4月18日:山本五十六連合艦隊司令長官戦死
昭和18年5月12日:アッツ島玉砕
昭和18年10月21日:学徒出陣
昭和19年8月23日:学徒勤労動員令
昭和19年10月24日:戦艦武蔵沈没
昭和19年10月25日:神風特別攻撃隊初出撃
昭和20年2~3月:硫黄島の戦い
昭和20年3月10日:東京大空襲
昭和20年4~6月:沖縄戦
昭和20年4月7日:戦艦大和沈没
昭和20年5月2日:ベルリン陥落
昭和20年8月9日:ソ連対日参戦
昭和20年8月6日:広島原爆
昭和20年8月8日:ソ連対日参戦
昭和20年8月9日: 長崎原爆
昭和20年8月10日:ポツダム宣言受諾
昭和20年8月15日:玉音放送

【満洲にて】
 昭和10年、小学校2年の時に満洲に渡った。一家は丸8年を満洲で過ごす。
(※伯母は女学校卒業まで引揚げを遅らせたので丸9年の滞在。)

 おばさんが昭和製鋼所の事務をしていた関係で満洲に渡った。
(※祖父は神戸製鋼所も受けていたらしい。)

 満洲渡航に際して幼い妹(※私の母;当時2歳)を本家に預ける話もあったが、家族全員で満洲に・・・という父の意向もあり、全員で満洲に渡った。

 社宅は2階建て。風呂は無く、社宅から2、3分の所にある会社の共同浴場に、母子連れ立って行った。父は仕事を終えると入浴してから帰宅した。

住所は、満州国鞍山市南一番町26番地2-9

 近所の毛糸屋さんの2階で編み物を教えていた。母はそこの編み物教室に通っていた。

 父は地黒だった。(私が)顔は似ているが地黒でなくて良かった・・・と(父に)良く言われた。

 父は日記を細かく付けていた。知り合いの子供の誕生日が曖昧だった際、父の日記を見れば判る・・・と近所の人に言われる程だった。

 マメだが、結構いいかげんだった。
(※日常習慣化したものは、毎日きちんとこなす人であったという意味だろう。)

 父は酒が好きだった。

 満洲でお客さん用にエビフライを作る事があった。昭和製鋼所の友人を連れて来ては家で良く飲んだ。

 お客さんが来た時に(私が)配膳すると、父が冗談で友人に結婚話を持ちかけたので、(子供だった)私は真剣に悩んだ。

 卒業は鞍山市立旭ヶ丘高等女学校。

 鞍山高等女学校→しらゆり高等女学校→旭ヶ丘高等女学校と名前が変わる。

 鞍山高女の校舎は大変に立派な造りだった。(鉄筋コンクリート製)昭和製鋼所が半分資金を出して建てた。(※建物はまだ存在するらしい。)

 鞍山は町の人口の半分以上が昭和製鋼所の関係者だった。昭和製鋼の町である。

 冬の間の体育の授業はスケート。スケートが上手ければ体育の成績は良かった。

 校庭に水をまいてリンクにした。池でもスケートは可能だったが危険だったので。校庭にリンクを造った。

 フィギュァスケートをする人も居た。私はスピードスケート・・?

 父とふたりで写ったスケート姿の写真は、市内の睦ヶ池。小6ぐらいだった。

 満洲では冬に雪は降らなかったが、氷は凄かった。夏は意外と暑く、アスファルトが溶けるぐらいだった。(※現代との工事技術の差もあるだろうとのこと。)

 遠足の際には、匪賊対策として憲兵隊の護衛が遠足の隊列の前後に付いた。

 馬賊、匪賊などがあった。(※日本に対する反勢力組織)

 憲兵隊隊長の娘が同じクラスにいた。

 お世話になった満洲の伯母の家に同級の娘がいた。

 伯母の家では自分の家の様に振舞っていた。

 昭和18年の秋に日本に修学旅行に行く。昭和19年3月卒業。

 女学校卒業と同時に引き上げする。奈良に進学する友人と、内地から来た友人のおじさんと共に3人で引き上げをした。一人だったらとても帰れなかったのではないか?

【満洲から引き上げた後】
 内地の方が戦争をしている緊迫感があった。

 終戦後、内地に持って帰れるお金は上限が決まっていた。昭和製鋼所の社内積み立てに、家を建てる為のお金を積み立てしていたが、結局、戦後のドサクサで全てパーになった。

 引き上げ後は貧乏。松葉を燃料にしていた。松葉は油っ気があるので良く燃える。

 近くに新しく道が出来ることになった。その工事の人足を母はやっていた。工事で鍛えられた・・・?
(※祖母が後年、元気で過ごせたのは、人足で鍛えられたからという意味だが、食料事情の悪い時代に、人足をこなせたのは、それだけの素地があったのだろう。)

 引き上げ直後の昭和19年4月、村の戸籍係になるが、昭和20年に男性職員の引き上げに伴い、私を含め女性4名が首になる。→昭和22年頃、農協に勤め始める。

 「他事」という漢字を「たごと」と読んだりして、全く役に立っていなかったように思う。助役さんに読みを「たじ」と教えられた。

 おババさんは柱の穴にへそくりを隠していた。柱の穴からお金を出して、くれた。

伯父の奥さんの兄弟に、宮地時夫(宮路?時雄?)という海軍の戦闘機パイロットが居た。(※現在、調査中だが、陸軍の様に「パイロット名鑑」なるものが存在しないので調べようがない。)

 戦闘機が上空を飛行しているのを見ると、父方の親戚の子供達は「ときおにいしゃーん!」と叫び、母方の親戚の子供達は「五郎伯父しゃーん!」と、従兄妹同士で叫びあっていた。

 嫁ぎ先の前の道をはさんで、西は清らかな水だが東は金気水で、タオルが黄色くなる。(※かねき水、金属っ気のある水)

白壁の集落は4集落。東尾、西尾、江口、(?)
(※現在の白壁は市原、千栗、石貝、白壁、白石、皿山の子字から統合されたらしい。)

 本家から歩いて東尾まで嫁入りした。 結婚式は嫁ぎ先の2階。仲人さんの挨拶程度で、今の結婚式とは大違い。
(※私の母の場合は料亭の宴会場。叔母の場合は公民館だった。)

 嫁入りは人力車に乗るのが一般的だった。 歩いて嫁入りする途中、村の青年に冷やかされた。お嫁さんなので、前を向いて歩く訳にも行かず、うつむいて歩くと頭の角隠しがずれた。

 嫁入り道具はリヤカーで運んだ。買ったタンスはすぐに壊れた。引揚げ直後でお金も無く、嫁入り道具は少なかった?

【伯母の旦那さん(※私の義理の伯父)】
 両親に子供が無く、そういう時は養子をもらうと、また子が出来るという言い伝えがあるので、養子をもらう。すると直ぐに出来た子だった。1歳違い?

 (その養子の兄と自分達の・・)結婚は4ヶ月違い。子供達もほぼ同時に生まれた。

 夫は、農協に通う自分を見初めたが、自分は一家の稼ぎ頭に成らねば・・・という思いがあったため、結婚に乗り気では無かった。

 夫は簿記の学校を出た後、兵隊に行って引揚げ後に家業を継いだ。養子のお兄さんは、自分が養子だと知っていたので、家業を継ぐのは遠慮したらしい。

 おじいさんは、菓子造りの名人。柿などを本物そっくりに造った。

【その他、エピソード】
 母(※私の祖母)は、物が見つからない時、冗談で、引き上げの時に行方不明になった荷物の中に入れていたのでは?と良く言っていた。

 引き上げの際に行方不明になった荷物は途中で(バラバラに?)壊れたのではないか?(※タンスか何かに色々な家財道具を詰め込んだと言う。私の母の靴なども入れてあり、引き上げ後は靴が1足しかなく不自由したという。)

 妹(※私の母)が生まれた時、子守をした記憶は無い。自分もまだ小さかったので危なっかしかったのではないか?

 満洲ではお手伝いさんがいた。嫁ぎ先にも使用人が大勢居た。


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