
現在では当たり前に見られている反戦・平和・人命尊重の精神だが、当時は大人ならいざ知らず、世代によっては発想すらあり得なかった考え方である。第7週「教室の太陽」第38話には、授業で子供達が将来の夢を発表するシーンがある。その中の圭介くん(平岡拓真)の台詞は、まさにこの時代・この世代の考えを象徴していると言えるだろう。
陽子 「みんなの夢ってなんですか?」
(中略)
圭介 「僕の父さんは今、戦地に行っています。僕は飛行兵になって、父さんと一緒に空から敵と戦いたいと思います。」
(中略)
生徒 「先生の夢はなんですか?」
陽子 「えっ先生?んー先生はそうねぇ、先生がお婆ちゃんになったら、あっ、みんなもその頃はお爺ちゃんとお婆ちゃんよ。それでもみんなと仲良くしていられたらいいなぁって思う。それが先生の夢。」
(中略)
カンタ 「せんせ・・・」自分がお爺さんになったマネをする。
女生徒 「おや、そこにいるのはカンタ君・・・」自分がお婆さんになったマネ。
陽子 「そう、それが先生の夢。そうやってみんなといつか会えるのがいいなぁ。」
圭介 「先生、それは無理だと思います。」
陽子 「どうして?」
圭介 「僕たちはお国に命を捧げる覚悟だから、そんなに長くは生きていないと思います。」
現代の洋子のナレーション・・・
「私はその時のキラキラとした目が忘れられない。とってもきれいな目だったわ。」
これはドラマの台詞である。しかし、現実にはこんなこともあった。
私の父は、戦争がそのまま継続していたら、長崎県針尾島に新設された予科海軍兵学校に行きたいと考えていた。それは多分に祖父の影響があったという。祖父は戦艦敷島の機関兵を経て佐世保海軍兵団の教官をしていた。
祖父は父が3歳の時に亡くなっている。父は祖父のことを覚えておらず、軍人であった祖父の影響を直接的に受けてはいないようだ。しかし、当時の少年達よろしく、父は「日本は神の国だから、いざとなれば神風が吹き、絶対に日本は勝つ!」と信じており、何の躊躇も無く、「海ゆかば」の歌詞の通りに、一身を国のために捧げる覚悟だったという。
信じ難い話だが、終戦に際して祖母が「あー良かった・・・」と漏らしたところ、父は「何て事を言っているの、お母さん!」と、激を飛ばしたという。
当時の父の考え方は、父と同世代の証言を聞けば必ず出てくる、ごくごく一般的な話だ。しかし、私にとって書籍や映像の中で語られる世界であり、自分の父が少年時代に、このようなストイックな考えをしていたとは、想像すらできない。しかし、父はそれまで欧米人など一切見たことも無く、外国の文化も全く知らず、ただひたすら学校で教わったこと、大人の言うことだけを信じて成長したのだ。そう考えれば、多少は合点がいく。
ここで素朴な疑問が発生する。国家のために命を捧げる決心だった父は、いつの時点で戦後頭に切り替わったのだろうか?
「おひさま」の第76、81話。終戦直後の授業のシーンでは国民学校の生徒達が陽子に対して疑問を投げつけるシーンがある。実際、教室は大混乱だったのだろうか?両親の話によると、当時、一切、その様なことは無かったそうだ。教師はあくまで威厳のある存在であり、反論はあり得なかったという。父の話では、生徒の教師への反抗があからさまになって来たのは昭和50年頃からだという。
国民学校の生徒達が陽子に対してグズグズ言うシーンは、現代劇特有の演出であり、ある意味、「声高に反戦を叫ぶ」で書いた内容と重複するNGシーンでもある。しかし、当時、威厳のある先生に反抗できなかったとしても、心の中で戦前と戦後の落差に疑問を感じなかったのだろうか?
父の中では、終戦後、比較的早い時期に頭の切替があったらしい。GHQの戦後処理に関連して、生活のあらゆる面で“開放”があったのだという。昭和天皇の人間宣言や国内巡幸、農地改革・教育改革など・・・その“開放”のお陰で、素直に戦後思想に順応できたらしい。そして成長と共に平和の大切さを実感するようになったということだ。
仮にソ連に占領されていたらどうだったか?と質問してみたところ、終戦直後は一時的に開放されたかもしれないが、長期的に見ると戦前の日本への回帰願望が発生したかもしれない・・・という意見だった。
一方、大人達はどうだったのだろう?かつて、映画監督の黒澤明が、かつてインタビューでこのような逸話を披露していた。黒澤監督は終戦の日の午後(玉音放送を聞いた後)、用事で映画会社を訪れたという。映画会社まで歩いて行く途中で商店街を通ったところ、玉音放送を聴いた各商店主は日本刀を持ち出したりして、今にも全員が自害しかねない雰囲気だったという。しかし、帰りに同じ商店街を通った時には、商店主達はケラケラ笑いながら雑談をしていたらしい。この落差に黒澤監督は寒気を覚えたという。
いずれにしても、戦後生まれの私から見ると、戦前、そこまでストイックになりながらも、8月15日を過ぎた途端に手の平を返したように態度が変わるのは実に理解し難いことだ。大人はともかく、子供達に関して言えば、大人達の態度に引きずられたというのが正解なのかもしれない。
一方で、母の話からは、終戦直後に大人達が不安に駆られ、子供達が影響を受けた一面も垣間見ることができる。
終戦直後の9月。母達は2学期の最初の授業で、戦争が終わった事に関する感想文を書かされたという。全員の感想文を読み終えた担任の女性教師(20歳前後)は、「先生はなさけない。」と言って怒り、生徒全員に説教をしたらしい。どうやら、大人達が口々に漏らしていた将来に対する不安を、子供達が聞いたままに感想文にしていたらしい。母は何を書いたのか、全く覚えていないそうだが、全員の感想文には建設的な言葉は一切無く、相当な悲壮感が漂っていたらしい。
さて、終戦時に「あー良かった・・・」と漏らしてしまった祖母だが、当時としてはなかなかユニークな経歴を持っている。地元、肥前町で教員を経験した後、逓信所に勤めたり、逓信所の関係だろうか?東京に赴いたりしている。大正10年頃、祖母の結婚前の話である。玄海の片田舎から女性が単身、東京に行くのは当時としては異例のことだ。東京での生活では大正デモクラシーを肌で感じたことだろう。そんな祖母だったからこそ、戦争は良くない、終わってほっとした・・という本音が言えたのではないだろうか。