
昭和20年8月、太平洋戦争終結の時。私の父は商業学校3年生で16歳。佐世保へ学徒動員中だった。伯母は「おひさま」の主人公・陽子と1歳違いの24歳。仮屋小学校にて教員をしていた。祖母は27歳頃に結婚。父は祖母34歳頃に生まれる。祖母は教員以外にも逓信所に勤務し、その関係だろうか?東京にも働きに行っている。玄海の片田舎にしては異例のことだった。
【時代背景】
昭和12年7月7日:日中戦争開始
昭和16年12月8日:太平洋戦争開始
昭和17年4月18日:ドーリットル空襲
昭和17年6月5~7日: ミッドウェー海戦
昭和17年8月7日:米軍、ガダルカナル島上陸
昭和18年4月18日:山本五十六連合艦隊司令長官戦死
昭和18年5月12日:アッツ島玉砕
昭和18年10月21日:学徒出陣
昭和19年8月23日:学徒勤労動員令
昭和19年10月24日:戦艦武蔵沈没
昭和19年10月25日:神風特別攻撃隊初出撃
昭和20年2~3月:硫黄島の戦い
昭和20年3月10日:東京大空襲
昭和20年4~6月:沖縄戦
昭和20年4月7日:戦艦大和沈没
昭和20年5月2日:ベルリン陥落
昭和20年8月9日:ソ連対日参戦
昭和20年8月6日:広島原爆
昭和20年8月8日:ソ連対日参戦
昭和20年8月9日: 長崎原爆
昭和20年8月10日:ポツダム宣言受諾
昭和20年8月15日:玉音放送
【戦前~戦中】
小学校6年生(11歳)の時に太平洋戦争開戦。翌、昭和17年4月、唐津商業学校に入学する。唐津商業学校は、昭和19年4月に唐津工業学校に変わる。昭和21年4月には唐津商工学校となり、現在は新学校制度により唐津商業高等学校となっている。学校の位置は、唐津駅の東の丘の上、現在の唐津商業と同じ位置である。
当時、唐津には、唐津商業学校、唐津中学、唐津高等女学校の3校があった。共に5年制だった。
入学式当日、5年生がドラ声で校歌を歌った。5年生は4歳年上の16歳であり、現在の高2に当たるので、かなり威圧感を感じたという。 いざ入学すると、昼休みの時間に上級生がやって来て、必ず説教(しごき)をした。「弁当食うっと、止めろ!」竹刀を持って1組の方から順番に回って来る。毎日がこんな風なので、学費とバス定期代がもったいないと感じた。
学校の便所は、タバコの吸殻とカンニングペーパーだらけだった。有浦のタバコ屋の友人は、5年生からタバコをせがまれて、家から持って来ていた。
学校の授業には敵性語の英語や支那語などもあった。1年の時の英語の授業が青木校長だった。英語の知識として、単語と単語の間を空けなければならないのを知らず、それを青木校長から酷く怒られたため、以後、英語の授業が嫌いになった。
数学は白ブタ。参考書の回答をそのまま黒板に書き写すだけの単純な授業にうんざりしていた。結局、英語と数学は好きになれなかった。
昭和20年9月、終戦の後、2学期から数学に明治専門学校(九州工大)土木科を出た先生が着任し、丁寧な授業から数学が好きになった。英語は結局、苦手なまま現在に至っている。
年中行事のマラソン大会は、松浦橋を通過して虹の松原の中間ぐらいまで走った。
1年の時から既に朝礼では軍隊式に点呼を行っていた。4列縦隊に並び、「気を付け、頭右、直れ!」「○年○組、出席者○名、欠席者○名、(欠席者氏名)、現在員○名!」「他、異常ありません!」と申告。
点呼が終わり「頭中」の号令がかかると、朝礼台の中央の校長が全員に敬礼をした。
小学校の奉安殿(ほうあんでん)白手袋で取り行う。皆、頭を下げていたので御真影は見れなかった。(※映画「母べえ」では、奉安殿の御真影に向かって歌を唄うシーンがある。母は御真影を見ることは出来たと言っている。母の伯父の家には昭和天皇の写真が飾ってあったらしい。)
有浦~唐津まで昭和バスで通学。木炭自動車は七曲附近で頻繁に遅くなくなるので、その度に乗客が降りて押した。(乗客全員ではない。)
木炭バスは、後ろの金属製の筒(ドラム缶のような)に木炭を入れ、ハンドルを回すと風が起き空気が吹き込まれる。それが朝(出発前)の車掌の日課だった。仮屋の知人の担当する木炭バスは坂道に弱かった。
学年は当時も4月生まれから3月までが1学年。ただし、学制が現在と異なり、編入なども多かったので同級生といっても年齢が違うことが多々あった。
「おひさま」のように代用教員の方が偉そうにしていた。男性の師範卒は、高等科から学費無料なので、貧乏な家庭だが頭の良い人が行くものだった。
中学の方から師範本科に行くコースもあった。(少なかったらしい)
一方、女性は高等女学校から師範本科に行く場合が殆どで、高等女学校そのものが土地の有力者の娘が行く学校であり、男性の師範出とは違いステイタスはあった。
(※私が、「おひさま」の育子が、高等女学校から東京の大学に行くという
設定が間違っているという指摘をすると、確かにその通りとの事。高等女
学校から、直接、大学に行くルートは無い。大学予科に行ってから大学へ。)
郷里の仮屋では、戦前~戦中~戦後と食糧事情の変化は感じなかった。
サツマイモをふかして(蒸して)吊ったザルの中に入れていたものを良く食べた。3日目になると干し芋の様になり、それを焼いて食べた。
おかずの中心的なものはメザシだった。他には鯛の煮付けなどもあった。
たくあん(ポピュラー)キュウリ、ナスのぬか漬け、里芋、ゴボウ、和ニンジン等が食材。
母の従姉妹の家で新しい食べ物・・・健康に良いとのことで、初めてトマトを食べたが、少しもおいしいとは思わなかった。他にゴーヤなどもあった。
(※私の小学生の頃も、トマトは決しておいしい食べ物ではなかった。品種改良の影響で美味しいトマト、にんじんが食べれるようになったのは昭和50年代中頃ではないか?)
唐津商業学校2年生(昭和18年、13歳)の頃、配属将校シバタが来る。初めての挨拶は「本日、着任する。終わり!」のみだった。主に軍事教練を受け持つ。配属将校のシバタは少尉だったのではないか?中尉ぐらいになるとそんな任務はしないように思われる。
行軍訓練中に、有浦からのバス通学の仲間が熱射病で死亡する。行軍訓練は唐津商業学校からスタートし、日坂鼻附近の松原にて野営1泊した。
【学徒動員】
学徒動員に出たのは昭和19年、唐津商業学校3年の2学期以降と考えられる。
佐世保第21海軍工廠、自動車部に配属された。現場の作業員は、工員と工作兵に分かれていた。動員生徒は工員の手伝いが主な仕事だった。
早岐→大塔→日宇にて終戦。長崎に行っていたら原爆で人生は終わっていた。
早岐では、朝鮮人工員の指揮で道の造成を行った。ダイナマイトで爆破した瓦礫をトロッコで運んだ。(いわゆるブレーキ付きのトロッコ)朝鮮人工員は日本語が堪能だった。(この早岐の道は現在でも残っている。)
早岐では土木作業が中心。大塔でも土木作業だった(短期で記憶は少ない)日宇では鋳物工場での作業。
早岐の宿舎は山の斜面にあり、便所が斜面から突き出ていた(便壷部分が斜面の下の方にあった。)
大塔では、同級生が他の動員生徒と揉め事になり、決闘を起こして停学になった。その後、彼は予科練に進んで仮屋の予科練訓練所に行き、自分の姉の世話になったらしい。戦後、世話になった姉から、私が同級生で、同じ動員先に行っていたことを知ると、同窓会などで会いに来るようになった。
日宇の鋳物工場は、ふるい砂が舞い上がり、ススけた作業場所だった。(※鋳型の砂を再利用するので、砕いてふるいにかける。)胸をやられると思い、体力的には厳しいが、外でコークスを運ぶ仕事に回った。隣の工場では旋盤作業をしていた。
溶銑炉の作業は、工作兵・姫野兵曹。コークスと鉄鉱石を上から投げ込んで行く。鉄が溶け切った頃、鉄の長い棒(バール)を炉の下部にある口に突き立ててハンマーで叩く。ぐるぐる回して引き抜くと真っ赤な銑鉄が流れ出て来る。それを、内側を粘土で固めたバケツで受ける。
丸い鉄の円盤が付いた棒(持ち手の部分は曲げてある)の先に、おにぎり形(円錐形)に粘土をつけ、銑鉄が流れ出て来る、炉の穴に押し込むと流れが止まる。しかし、時にそれが止まらず、脇から線香花火の様にピッピッと漏れ出すと、もう、どうにもならない。一同が逃げ出すと、銑鉄は一気に流れ出し、あたり一面に銑鉄が広がる。
跡片付けが大変だった。
屋外で資材が積んである上に、雨避けのシートがかけてあった。それを夜間、盗みに行った。破る時に大きな音がしたが、特に緊張感はなかった。門を出る時、監守に見付からないよう、腹に巻いて出た。帰郷の際、その布で母にズボンを作ってもらった。布が無い時代、非常に良い生地だったのだが、固すぎて又ずれが起きた。
溶銑炉用のレンガが不足し、隣の部門まで夜間に盗みに行った。(隣の部門にも溶銑炉があったのか?真相は定かではない。)守衛がライトを灯して歩いて行くのが見え、壁の際に腹ばいになって隠れながら進んだが、非常に緊張し、怖かった記憶がある。
鋳物工場からの帰りだろうか?一人で道を歩いていると、突然、後ろから(覆いかぶさるように)ネイビー色の艦載機が低空で飛来した。あまりに突然の事で驚いた。道の脇の土手に転がり込むように飛び込んで隠れた。低空で飛行し、抜けて行く際にパイロットの頭が見えた。こちらを向いてはいない、気がついていなかった。こちらに気が付いていたら、戻って来ると思い、気が気では無かった。
日宇(自動車部)にいた時、偵察のB29単機が高高度で飛来した。警報が鳴ったため、慌てふためいている工員さんが一人いた。斜め手前で何かパラパラ落ちてきたら危険だが、真上を通過するまで何も無かったので大丈夫だと思った。
佐世保大空襲(S20/6/28、23:50頃より)の時は、日宇の宿舎の裏山に逃げ込んだ。裏山から見える空が真っ赤に染まっていた。花火が上がるような感じだった。
動員時の食料事情は悪く、玄米に大豆カスや油カスを混ぜてあった。コッヘル1杯のご飯と味噌汁。食事の影響で全員下痢をしていた。昼食は現場から戻って宿舎で食事をしていたかもしれない。現場にお弁当は無理だった。(※昼食班が運んで来たのではないだろうか?)
食事当番は1班5、6人。自分の分は押し付けて多くご飯を盛ったが、しばらくすると全員が同じことをしているので、全員が席に着いた際に誰かが必ず「右に○人ずらそう」と言い出した。結局、誰もが自分が盛った器を食べれなかった。
日宇では、作業を早退して、裏山にあった山桃の実をたらふく食べた思い出がある。
(※山桃の実が熟すのは6月中~下旬)
郷里の食糧事情は悪くなく、帰郷するとおはぎ等が食べれた。たらふく食べてやはりお腹をこわした。
動員の時、面会に来てほしいサインを予め母と決めていた。手紙の文章最後の○を●にしていたら、来てほしいサイン。面会に来ると必ず何か食べ物を持って来てくれるものだった。しかし、母を呼んだことは一度もなかった。
佐世保駅の東側に海軍病院があった。労働が辛くなった頃に、咳が出ると言って受診すると、気管支炎との診断が出て帰郷できた。どうやら軍医さんの配慮だったようだ。
日宇に移動した初日、生徒全員の持ち物検査があり、後に仮屋小で父に正教員試験の情報を教えた友人が、トイレに走って行きタバコを隠そうとしたが、先生に見つかり、相当、しぼられた。
工廠将校は髪を伸ばしている人もいた。海軍は短剣、陸軍は軍刀を持っていた。
戦後、昭和20年9月になると予科練から学生が戻って来た。甲種飛行予科練習生(通称;コウヒ) 数ヶ月行ったのみで、土木作業ばかりだったが、甲飛に行っていたというプライドだけは高かった。周囲はドカ練と呼んでいた。
仮屋には予科練の水雷艇の特攻基地があった。戦後、予科練の碑を建てる際に、母の従姉妹の娘と結婚した人が尽力した。除幕式では鶴田浩二を呼んだという。甲飛に行っていた友人2名も参加した。
そのまま戦争が続いていたら、自分は予科海軍兵学校に行きたいと考えていた。予科海軍兵学校は、当時、針尾島に新設されていた。動員などで勉強が一切できなかったので新設された学校である。(昭和18年頃か?)陸軍には陸軍幼年学校というものがあった。
8月15日は、予科海軍兵学校受験準備の為、郷里の仮屋に戻っていた。
小学校から進学の際、世間では航空兵が人気だったのだが、母親は反対して、航空兵ではなく太刀洗にあった民間パイロット養成の学校への進学を勧めた。
親戚の電気工事関係の仕事をしていたおんじさんからは中学校への進学を勧められたが、そこで働いてるお兄さんからは商業学校への進学を勧められる。
中学進学の願書が間に合わず、唐津商業学校への進学となる。
なぜ海軍なのか?・・・父が戦艦敷島の機関兵だったことにある。
動員先で、鳥取一中で、生徒を予科海軍兵学校に進学させた経歴がある先生に自分の意思を伝えると、面接で「そんなに甘いもんじゃないゾ!」と言われた。
バス通学仲間の友人から「予科から何か言って来たか?」と聞かれた。友人は予科海軍兵学校行くことになり、ハリオ島に行った。終戦後、友人は(現)九州大学医学部に進学し、玄海町で開業医をしている。
この予科海軍兵学校に行った友人(唐津中学)は、値賀村から有浦まで歩いて来てから、一緒に唐津までバス通学した。当時、バス停のあった有浦から離れていた金ノ手、入野、大鶴附近の人は唐津に下宿していたものだ。
【戦後】
昭和21年3月、戦時特令にて4年で唐津商業学校を卒業(16歳)する。他の同級生は5年に進級した者もいた。
戦争で死ぬことに対して躊躇は全く無かった。天皇陛下に一身を捧げ、国のため・・・という心境だった。8月15日、戦争が終わって「ほっとした・・・」とつぶやいた母に対し、「何て事を言っているの、お母さん!」と激を飛ばした。
初めて見た外国人。唐津商業からの帰り道。唐津大手口東(橋がある)の川で、上陸用舟艇に乗った5、6名の米兵とすれ違った。サングラスをかけて異様な感じがした。
戦後、授業内容が大きく変わったことに関しては、先生の威厳が強く、反論する生徒などいなかった。(※父の話では、「おひさま」で陽子に反論する生徒が居たが、それはありえないという話だ。)
戦後、昭和天皇が全国を巡ったり、GHQの民主化政策などで抑圧から解放された感もあったので、戦争中の考え方を素直に変える事が出来た。
戦前、戦中を通して、女学生が自転車に乗っているのは見た事が無い。仮屋・石田・大薗の3集落で、自転車があったのは3台ほど。姉は水泳は得意だったが、結局、自転車には乗れずじまいだった。(※私の母の場合と違い、坂道が多く、自転車に不向きだったことも影響していると考えられる。)
「にあんちゃん」(安本末子:著)には、知人が何名か出てくる。
母の従兄弟が神戸商船大学を受験したが落ちた。海の本をたくさん持っており、良く借りていたので、その影響があった。戦後、商船学校に行きたいと言うと、周囲から大反対された。
昭和21年4月、値賀小学校にて代用教員(17歳)を始める。
昭和23年、旧学校制度の「尋常小学校・本科正教員の免状」を取得する。
昭和22年末~23年前期頃だろうか?たまたま休日に仮屋小学校へ卓球をしに行ったところ、仮屋小に勤める同級生(日宇動員でタバコを見つかった友人)から正教員免状試験の話を聞き、正教員免状試験を受験、合格してしまった。(話を伝えた同級生は残念ながら不合格。)唐津商業で受験したと思われる。
昭和24年4月、仮屋小学校にて尋常小学校本科正教員(20歳)。
昭和27年3月まで仮屋小学校にて正教諭を勤める。
値賀で代用教員3年(歩いて通勤)、仮屋で正教諭3年ということになる。
(※私の祖母、伯母、父・・・と、仮屋小学校で教鞭を取っていた事になる。私が高校の頃だろうか?父と帰省した際に、古い仮屋小学校の校舎が残っており、職員室の壁には昭和30年代後~以降の歴代の校長と教員の集合写真が飾ってあった。その中にあわや父が写っているのでは?という状況だった。)
代用教員の時は、読み書きそろばんを中心に教えた。他は野球ばかりさせていた。指導案は毎日提出した。(※指導案というのは、どうやら日次計画書の様なものらしい。)
いわゆる高校卒業資格(旧制では中学に当たる)の試験を受け2科目合格。その後、既に「代用教員から試験を受けて正教員」になっている実績から、試験の免除の連絡が文部省初等中等教育局、中等教育課大学入試資格検定係より連絡が来る。これにより大学の受験資格を得る。
進学適正検査(全国一斉)を九州工業大学(明治専門学校)で受験。その後、佐賀大学教育学部の入学試験を受け、合格。(※共通1次、2次方式と似ている。)
佐賀大学の寮の時が一汁一菜で、どういうわけか常にハラペコだったので、ちゃんぽんを良く食べに行った。大学卒業後、神戸に就職。櫨谷の下宿では、おばあさんの作る料理は、毎日、高野豆腐だった。大蔵谷の下宿経由西舞子3丁目の下宿。西舞子では毎日、目玉焼き。
櫨谷の下宿では泥棒に遭う。運動会の時、上着に入れていた全財産を盗まれた。村では、下宿先の、定職に就いていない長男が犯人だという噂が流れていたという。知人がこっそりと教えてくれたので、用心の為に引越しをした。
(※大学時代の夏休みは苦痛そのものだったという。昭和27年には祖母が亡くなり、帰る場所が無くなった父は大学の寮に一人残っていたという。この時の孤独感は極めて壮絶だったという。そのためだろう、この頃の父の写真はどれも極めて表情が暗い。歳の離れた姉夫婦(私の伯父伯母)が、極めて親切に親代わりとなったが、夏休みの間、ずっと世話になる訳もいかず、やはり行く所が無かったという。この時、私の従兄弟は遊び相手の兄が出来たようなもので、良い思い出になっているらしい。)
(※父が佐賀大教育学部で学んでいる頃、あの「佐賀のがばいばあちゃん」は佐賀大と付属小中校のトイレ掃除を仕事にしていた。つまり、父は「がばいばあちゃん」の掃除した学校のトイレを使っていたことになる。)
叔母の娘(従妹)が、目達原駐屯地で事務職をしていた。従妹の同僚に、とても良い人がいるとの事。写真を見ると感じの良い女性だったので結婚することにした。(※母はこの父の従妹の先輩に当たったが、母は面倒見が良く、非常に仲がよかったのだという。)
目達原駐屯地を訪ねて行き、酒補で初めて会った。(※正門をくぐる時に屈強そうな監守がおり、凄い職場だと感じていたという。)
【祖父母】(※私の祖父の話)
祖父は二十歳で機関水兵となり、一等機関兵曹で退役する。佐世保海軍兵団の教官をしていた。
尋常小学校高等科を卒業の後、山口酒造の番頭を3年間勤め、兵役に就く。二十歳の徴兵検査で海軍に振り分けられた。その後、海軍の機関学校に行き、職業軍人となる。
明治6年の徴兵令。明治8年には全男子が徴兵検査を受け兵役に就く。師範学校、大学生は免除だったのではないか?という。
佐世保沖で沈没した第43潜水艦沈没の救助に行った。乗艦は補給艦「知床」。
善行章を付けている写真があるらしい。
昭和6年、父が3歳の時に祖父は亡くなった。父の想像かもしれないが、立石のお墓の旧道を旗を持って野辺送りしているイメージが微かにあるという。
祖父の出身は立石。妹さんは多久に嫁に行く
。20歳で徴兵検査を受けて機関兵になり、その後、東京から戻った祖母と結婚する。
山口酒造は仕込みを腐らせ、翌年には火事を起し廃業したという。「巌の松」という銘柄を造っていた。
酒屋の縁で祖父母は結婚(※祖母27歳の時)。祖母は教員以外にも逓信所勤めをしたり、東京に行ったりもしていた。
祖母は実家の事を「酒屋と呼ぶな。」と良く父に言ったらしい。一杯飲み屋ではない、れっきとした造り酒屋だった。
海軍時代は佐世保の海軍宿舎に住んでいた。伯母(父の姉)は佐世保育ち。丘を下っていると(宿舎から職場に向かっていた?)すれ違った人に声をかけられたので「お街に行きよる」と答えたという。伯母は旧制唐津高等女学校卒業。水泳が得意だった。
(※祖父が、父3歳の時に亡くなっていることを考えると、父も佐世保生まれの可能性がある。)
大正3年 佐世保海兵団、入団。
大正4年 戦艦敷島、乗艦。
大正5年 日独戦役、戦艦敷島にて、2月北支那へ。5月3日、仁川。
大正5年 横須賀海軍機関学校普通科入校。
大正6年、横須賀海軍機関学校卒業。佐世保防備隊。
大正7年 8月、戦艦日向、高速航続力持続試験、臨時乗艦。
大正9年 佐世保海兵団、教官。
大正13年 3月20日、第43号潜水艦救助の為、知床乗艦。
大正13年 4月、第2種症にて佐世保海軍病院。同7月退官(海軍一等機関兵曹)
祖父;明治27年3月31日生、昭和6年9月3日没(37歳)
祖母;明治29年3月25日生、昭和27年6月30日没(57歳)
(大正10年4月12日結婚)
→「おひさま」と両親の戦争体験メニューに戻る。