
【大叔父から聞いた昔の話】
12年前、ノモンハン事件での松村戦隊長救出の状況を大叔父から聞き取りした際、ついでながら戦前~戦後にかけての興味深い話も聞くことが出来た。日本陸軍戦闘機隊の創設時のエピソードや大叔父の基本操縦教育での話題(67期;熊谷飛行学校)、一式戦闘機開発時の逸話、戦友との思い出・・・更には戦前の祖父母の様子や幼き日の母の話題など、話の内容はさまざまであった。今日、私が両親や伯父母の戦前~終戦直後の生活に興味を抱くようになったのは、大叔父から話を聞いたことがスタートになっている。
その話の中で、特に印象に残っているのが特攻で亡くなった大叔父の友人の話だ。私はその方の名前を聞こうと思いつつ、あまりに寂しい話であったので、つい聞きそびれてしまった。結局、名前を聞くこと最後まで出来ず、平成21年に大叔父は亡くなってしまった。唯一の手掛りは知覧特攻平和館に友人の御遺影が飾ってあるということだった・・・。
終戦も間近となった頃、大叔父は連絡業務で、とある飛行場を訪れる。すると、同様に連絡業務で訪れた友人と数年ぶりの再会を果たした。そこで短時間ではあったが、お互いの近況を話し、大叔父は友人が飛び立つのを見送った。
別れ際に友人は「妻子を頼む・・・」と言い残した。大叔父は会話の内容から、うすうすと友人に特攻が決まっていた事を感じていたが、その件について互いに話をすることは任務と時間の関係上、できなかった。その後、大叔父は友人が特攻で亡くなったことを知ったという。
戦後、大叔父は知覧を訪れた。いつ頃だったのか?定かではない。展示されている御遺影を見ているうち、偶然にも特攻で亡くなったその友人を発見したのだという。そこで初めて大叔父は友人が知覧から飛び立った事を知り、当時を思い出して遺影の前で男泣きに泣いたという。
以上が私が認識している大叔父の特攻で亡くなった友人の逸話である。名前を聞きそびれたことが、印象に残り続けている原因にもなっているのだが、知覧を訪れることがあれば、大叔父と同期の方の名前を調べれば、おのずとその友人も判明するのではないか?という安易な考えも心の底にはあったように思う。
【九州新幹線の全線開通を機に・・・】
知覧特攻平和館を訪れることは、私と大叔父との長年の約束であり宿題のような、そんな感じがしていたが、それにしても神戸から鹿児島は遠い。よほどの用事が無ければ、まず行くことは無い場所である。一生に1回行くかどうか?といった気持ちでいた。
そして平成23年3月、九州新幹線が全線開通し、鹿児島も近く感じられるようになった。知覧を訪ねる良い機会だ。そして12月、母方の一番上の伯母に、満洲での話を聞き取りするため、佐賀を訪れることが本決まりとなった。この機会に知覧特攻平和館を訪れてみるのも良いと考えた。なお、九州新幹線の神戸~鹿児島間の料金は高く、神戸空港から飛行機を利用すればWeb割引で9800円だった。これなら九州新幹線の開業を待つことも無かったのだが・・・。
訪れるに当たり、知覧特攻平和館には大叔父と同期の方の御遺影が存在するのか?事前にメールで確認してみた。大叔父は基本操縦教育67期、少尉候補25期である。
すると知覧基地に所縁のある、基本操縦教育67期の小宅(おやけ)光男さん、南 隆明さんの2名が判明した。そして、小宅さんに関しては写真が展示してあるのだという。
しかし、小宅少尉は終戦まで生き延び、戦後に亡くなられたという。その点が大叔父の話と食い違う点だ。早速、「日本陸軍戦闘機隊」の巻末、陸軍戦闘操縦者一覧を確認すると、基本操縦教育67期の中に小宅、南両氏の名前があり、記録も戦死とはなっていない。
手元にある「日本陸軍戦闘機隊」は、12年前に私が大叔父から借り、自らコピーしたものだ。大叔父は自分の知り得る範囲の情報を、戦闘操縦者一覧に書き加えていた。もし、この両氏のいずれかが特攻で亡くなっていたとすれば、必ずやメモをしているはずだ。やはり、 特攻で亡くなった友人とは、飛行学校の同期以外か?(第24戦隊時代の戦友など)、少尉候補25期の同期だったのだろうか?
【28年ぶりの鹿児島、そして知覧へ】
12月2日、スカイマークで鹿児島空港に降り立った。学生時代部活の試合で訪れて以来、実に28年ぶりの鹿児島県である。予約していた格安レンタカーで2時間ほど走ればいとも簡単に知覧町に到着。知覧町は特攻平和館以外にも、武家屋敷群やお茶の栽培で有名な所だ。路肩に並んだ石灯篭が、独特の雰囲気を醸し出している。
知覧特攻平和館に入り、受付で約束していた旨を伝えると職員のKさんが対応してくれた。メールで連絡をくれた職員のYさんは、証言の聞き取りで出張中だという。
知覧特攻平和館では、知覧から飛び立った特攻戦没者の展示以外にも、全国的な特攻に関係する証言・資料の収集をプロジェクトにされているそうだ。
早速、小宅少尉の経歴を聞き、私も大叔父の逸話を話す。やはり少し食い違う点があり、真相はわからなくなってきた・・・が、ひとまず話を終え、Kさんに小宅少尉の展示まで案内してもらう。小宅少尉の展示にはこのような解説が記されていた。
*****************************
小宅 光雄(基本操縦教育67期、少尉候補生22期)
第6震天制空隊にてB29を4機撃墜、3機撃破。陸軍武功章を授与される。
S19年2月、飛行第18戦隊がフィリピンに移動となり、残置部隊長となる。
S19年12月、B29への体当たり攻撃を意見・具申し、翌S20年1月4日、第6震天制空隊と命名される。
S20年4月7日、多摩川上空9000mにてB29を攻撃。後方400~500mにP51がいたが、直上攻撃にて命中弾を与える。ついで反転上昇し、後方攻撃。続いて前側方より攻撃を加えるが、効果無く、田無上空にてB29尾翼部に愛機を激突させる。B29は久我山へ墜落。
小宅機は背面きりもみ状態となったが脱出。落下傘降下するも失神状態で三軒茶屋映画館近くの大木に引っかかり、救助される。
*****************************
壮絶な戦いっぷりである。あの巨大なB29を体当たりも含め4機撃墜、3機撃破とは・・・。B29の搭乗員からすれば悪魔の様な存在だったであろう。(ネットで検索してもかなりの頻度でヒットする。小宅少尉機のプラモデルもあるようだ。)
案内してくれたKさんとはその場で別れ、時間の許す限り展示を見て回った。
同会館には、知覧から飛び立ち特攻で亡くなった1036柱の御遺影が展示されている。私は遺品の展示と御遺影をひとつづつ見ながら、基本操縦教育67期、少尉候補生25期の方がいないか確認して回った。
周囲を見ると、老若男女を問わず、皆、展示の遺書に見入っている。すすり泣きもあちこちから聞こえてくる。
一部では、同会館の展示を“特攻作戦の美化だ”とする意見もあるようだ。同会館の表現方法はともかく、体当たり自爆という攻撃方法が過去に行われたのは事実であり、遺書・遺品を展示することにより、特攻隊員達が当時何を考え、何を感じていたかを後世に伝えるのは大切な事業だと思う。
何より亡くなった特攻隊員の遺書を読み涙する人々の姿を見れば、美化だとか何だとか言う以前の、特攻の真の姿が訪問者に伝わっていることがとても良くわかる。
私は特攻を問題とする際に、特攻により亡くなった米兵にまで話を広げ、戦争という行為自体の是非を問い質すべきだと考えている。
私の父の従兄には、桜花隊の機長をしていた上田照行上飛曹がいる。(第10回、攻撃の際、エンジン不調で喜界島に着陸し生き延びる。)
桜花による特攻攻撃は成功率が低く、母機である一式陸攻の損耗も含めると非効率な作戦だったとする意見が大多数だ。それは統計上、事実であったとしても、私は効率・非効率で特攻作戦を評価することに不快感を感じている。特攻攻撃の中には、米軍の使用する桟橋に突撃せよという信じられない命令もあったという。NHKのインタビューに答えていた元・戦果確認機のパイロットの方は、その命令を受けた特攻隊員が気の毒に思えて仕方がなかった語っていた。 自分の命と引換えに奪った敵兵の命の数で特攻の優劣(自分の死の意義)を考えてしまうのは誰しも自然なことではあるが、特攻で散って行った隊員達は、自分の命を引き換えに多数の米兵の命を奪えば、それで満足できたのであろうか??大切な命を犠牲として肉親を守ろうとする尊さの先に、敵方の兵士の死があったことも忘れてはならないと思う。
【後悔先に立たず・・・】
さて、展示を見ていて気が付いたことがあった。知覧から出撃し、特攻で亡くなられた方のほとんどが士官候補55、56期、少飛13、14期だということだ。年齢も17~22歳ぐらいの方ばかりだ。大叔父は少尉候補25期、終戦当時29歳だったから、世代もずいぶん異なる。実際、御遺影の中で28~30歳の方はごく数名しかいらっしゃらなかった。その中の一人が大叔父の戦友だったのかもしれないが、御遺影を前にそれ以上のことは何ひとつ分からない。少なくとも、基本操縦教育67期、少尉候補25期に該当する人物は、小宅少尉以外には見当たらなかった。
いずれにしてもあの時、名前を聞かなかったことが全ての根源である。しかし、こうやって大叔父に由縁のある人々を調べて行くことにより、何か大叔父との約束が一つづつ果たされて行く様な、そんな気持ちになるのだ。(何も約束はしてないのだが・・・)
もうひとつ、大叔父に聞きそびれた話の中で印象に残っているのは背中の古傷だ。聞きそびれたというよりは、聞かせてもらえなかった・・・というのが正しい。
大叔父の背中にはかなり深い古傷があり、この傷に関しては、ネット上で大叔父の名を検索すると、大叔父とのエピソードがあった方の話の中にも度々登場するものだ。中にはノモンハン事件の際、松村戦隊長を救出する際に追った傷だと聞いた・・・という話も出てくる。
私は幼い頃、 母から大叔父の肩にある傷と体内に残っている破片の話を聞いた。しかし、傷を受けた経緯に関しては南方だったのでは?という程度で真相はわからなかった。また、大叔父と仲の良かった私の伯父(大叔父の甥っ子)ですら、その傷を受けた経緯を訊ねたものの、教えてくれなかったという。私も大叔父に対して、少し含みを持たせて傷の事を聞いてみたが、軽くはぐらかされてしまった。世間(特に戦前)から英雄視され、今なお歴戦の勇士?だとされている大叔父ではあるが、どうやら思い出すのも嫌なエピソードだったようだ。
このように、特攻で亡くなった友人の話も含め、大叔父に関しては、謎のままとなったエピソードも多い。しかし、本人が話したがらなかったエピソードを根掘り葉掘り聞き出すのもどうか?と思う。本人が言いたくなかった事は、知る必要は無いのかもしれない。
ETV特集「おじいちゃんと鉄砲玉」と同様、大叔父の遺灰には破片が含まれていたであろう。本人も思い出したくない嫌な話は、やはりそのままいっしょにお墓の中に持って行くのがいいのかもしれない・・・。
むしろ我々は、そういった謎をきっかけに、いろんな接点を広げて行き、当時を理解する事の方が大切なのではないか?そういう点で、大叔父の特攻で亡くなった友人の話は、大叔父との宿題のような気がするのであった。