ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

まえがき

私はこれまでに3回、ノモンハン事件の戦場跡 を訪れました。当サイトでは、現地の奥深い場所で見聞したことのみならず、現地に行くまでのきっかけや、準備段階での出来事を年度ごとに分けて旅行記にしています。
記録は私の個人的趣味である山登り(山岳スキー)でのスキルから見た記述が中心となりますが、なるべく幅広い層の方々に、戦場跡の現状を知ってもらえるよう配慮して製作しています。(難しい軍事用語も極力排除しました。)
このサイトの原型は、平成12年の渡航の直後に作成したものから始まっています。私自身の忘備録という面もありましたが、特に親しい友人達に読んでもらうために作成し、当初5年ほどは公開はせず友人だけにアドレスを教えていました。
初渡航の準備をしていた平成11年当時はノモンハン事件の情報や書籍も少なく、また、インターネットそのものの普及率が低かったため、ネット上で検索しても100件程しかヒットしなかった記憶があります。もちろんノモンハン事件を専門に扱ったサイトもありませんでした。しかし、時が経つにつれノモンハン事件に関連する書籍も多数販売され、ネット上でも数万件がヒットするようになり、ノモンハン事件に関わりのある私としては、少々うれしさを感じたりもします。
このように、近年、ノモンハン事件は世間から認知されるようになりましたが、それでも現地の奥深いエリアでのレポートは極めて少なく、むしろネット上では書籍の情報だけを元に、現地の見えない議論だけが目立っているように感じます。
現地では今なお塹壕などの戦跡が明確に残されており、戦跡附近を調査すれば当時の遺品なども多数発見されます。乾燥した気候と国境線に近いという特別な環境が人の手を遠ざけているのです。これは世界的にも類のないことでしょう。しかし、戦車や装甲車の残骸は鉄屑として回収され、今ではほとんど見ることも出来なくなりました。時と共に当時の記憶は風化の一途をたどっているのも事実です。
この旅行記が現地の状況を知って頂くきっかけとなり、事件後60年、70年時点での資料となれば幸いです。
 
さて、戦後生まれの私、世間がつけた世代の呼び名は新人類。そんな新人類の私は参戦経験者でも、遺族ならびにその関係者でもありません。私とノモンハン事件を結びつけるのは小学生の時に母から聞いた一枚の絵の話。
母の叔父がモデルとなった『西原曹長、部隊長救出の図』という大きな戦意高揚画にまつわる話でした。
大叔父はノモンハン事件の際、陸軍戦闘機隊の操縦者として従軍し、草原に不時着した戦隊長を敵に囲まれながらも救出したのです。私は母からこの救出時の情景を描いた大きな油絵が日本のどこかにあると聞かされていました。縁あって平成11年、航空自衛隊奈良基地の資料室に展示してある『西原曹長、部隊長救出の図』副題:空の武士道(従軍画家 深澤清 画)と対面出来ました。それは母にとっても55年ぶりの再会でした。
絵の中央にはひっくり返って燃え上がる97式戦闘機。その尾翼部分の下敷きになっている戦隊長の、肩を掴んで鬼の形相で引きずり出している大叔父。背後には大叔父の愛機とソ連軍の戦車2台が迫らんとする迫真の構図です。
絵を探し出すことは私の一家にとって悲願でしたが、絵を冷静に観察するとあまりにも劇画的な内容に疑問を感じたのも、また事実でした。
そこで私は当時の状況を、当時まだ元気だった大叔父に尋ねてみると、驚いたことに絵は細部を除き、極めて正確に画れているということでした。私は改めて緊迫した当時の状況を理解すると共に、自分自身の阪神淡路大震災での経験を重ねて考えました。揺れが収まった直後、20m程離れた実家に向かおうとしたのですが腰が抜けて素早く走れなかったのです。
極限の心理状況で人を助けるために行動を起こす・・とはどういうことなのか?いったい何がそうさせるのか?大叔父の強烈な体験談に引き込まれるように、私は大叔父が着陸した現場を探し出すためノモンハンの戦場跡へ向ったのでした。→第1回目の旅行記へ進む2000年(H12)第1回、モンゴル・ノモンハン紀行

ノモンハン紀行(現地旅行記)

  平成12年、13年の記録に関しては、作成時のオリジナルを極力生かす形で掲載しています。当時のネット環境に合わせて通信速度が遅い環境でも読みやすい様、極力、写真は省いて構成しています。時代遅れの観もありますがご了承願います。   なお、新しい情報・判明した事実に関しては、《追記》という形で記述して行くよう留意しています。

最近の出来事など

2019/10/22
本日、Google Earthにて、川又地区とハマルダバの丘の背後一帯の、細密衛星画像が閲覧可能となっている事を確認する。
川又地区東岸に設けられたソ蒙軍の援体壕群については、昨年のNHK「ノモンハン 責任なき戦い」にてドローン撮影されていたものです。この遺構の全体像は長らく見ることができませんでした。それにしても凄まじい遺構の数で驚きました(個人的にこの遺構群はソ蒙軍大攻勢の後に造られたものと考えます)。これだけ大規模なものだと、現行の軍事施設と勘違いされ、それで長年、荒い画像だったのかもしれませんね。
また、川又地区の西岸には砲撃によるクレーターが多数確認できました。これは日本軍重砲部隊による砲撃の痕と考えられます。川方地区は日本側から丸見えだったので、川又・西岸に進出してきたソ蒙軍を日本軍重砲部隊が砲撃を試みたものでしょう。(結果、発射位置がソ蒙軍にわかってしまい、射程距離に勝るソ連軍重砲部隊の返り討ちにあってしまう。)
ハマルダバの丘の背後からスンベル空港滑走路までの援体壕群については、私のYou Tube動画で垣間見ることが可能ですが、今回の細密衛星画像公開により、動画に何処が映っているのか、が確認可能となりました。

2018/08/01
2018年の終戦記念特番(NHKスペシャル)にてノモンハン事件が取り上げられます。
ノモンハン事件が終戦記念特番で取り上げられるのは、私が現地に行くきっかけとなった「ノモンハン事件60年目の真実」(1999年8月17日放送)以来、19年振りだと思われます。
放送では新たに見つかったソ連側の映像に、昨今、急速に進化した「AI(人工知能)による色付け」による処理が施されたものが紹介されるようです。

2015/08/20
今年5月、日・蒙・朝日新聞社の合同調査団が、タムスクとマタットのソ連軍巨大遺構の空撮に成功。また、ドローンを使用してフイ高地の空撮にも成功したという。ノモンハン事件の調査も新時代に入ったのではないでしょうか。
調査団長の岡崎久弥氏は、ノモンハン事件70年国際学術シンポジウムにて日本側代表を務められ、ソ連対日参戦の最期の激戦となった虎頭要塞跡の保全に尽力されている方です。 願わくば、ジューコフ指揮所の裏手にある塹壕群と南渡しの空からの映像が見たいものだ・・・。

2014/07/09
14年間、待ちに待った!ようやくGoogleEarthで南渡し付近の細密衛星画像が閲覧可能となった!
画像の取得は昨年9月との事。塹壕跡も確認可能で、周囲の遺構調査が衛星画像で行なうことが出来るようになりました。

2014/07/08
Webニュースで知った「タムスク等、ソ蒙軍巨大遺構の調査」に関連して、「 よもやま話Part2」をUPしました。

2013/06/07
本日、ノモンハン渡航でお世話になった永井団長が亡くなられた。氏との出会いが無ければ、このサイトも存在しませんでした。本当にありがとうございました。

2011/12/05
ノモンハン桜は「リモニウム・シヌアツム 」和名「ハナハマサジ」の一種でしょう。俗称は「スターチス」造花や花束に多用される1年草だそうだ。詳しくは「 後日談・ノモンハン桜の種(しゅ)は?!」にて・・・

2011/10/15
2年ぶりに永井団長と邦裕さんに会いに新横浜まで行って来ました。全国的に大荒れの天気でしたが、不思議と傘を使うことは一度もなく、無事にご両名に会うことが出来ました。
現地の状況ですが、韓国、中国企業の進出もあり、廃止されていた定期航空便の復活の可能性があるということでした。また、驚くべき話ですが、スンベル村にレストランや売店が出来ているようです。(もちろん日本のイメージとは程遠いものではあるようですが・・・)今年は雨が多く、ホルステン川の周囲にも葦が生え、蚊も多かったそうです。

2011/05/31
Google地図に関して、ほぼ戦場跡全域が細密画像で見ることが可能となりました。ただし、写真の鮮明さに開きがあるため、塹壕など確認出来ないエリアもまだまだ多いです。それでも全域細密画像で検索出来るようになったのは評価すべきことでしょう!

2010/08/31
実に9年ぶりにノモンハンを再訪する事ができ、無事に帰国いたしました。チョイバルサンからの陸路は大変でしたが、天候にも恵まれたお陰で非常に良い雰囲気の中で慰霊行事と現地調査を完了することができました。
少し残念だったのは、守備隊の管轄が一部変わった関係で「南渡し」方面には行けなかったのですが、反面、ノロ高地と並ぶ扇陣形の中央と左翼である754高地(松山陣地)と744高地を特定することができました。

2010/07/09
ちょいと驚きの出来事。本日、Google地図を見ていたら、ノモンハン戦場跡の南渡し付近の衛星画像が更新されていた。以前は非常に目の荒い画像で全く何も判別できなかったのだが、今回、比較的質の良い画像になっていた。とは言え、Google地図で見る最細密画像より目が荒いため、塹壕などの戦跡の判定は全く不可・・・残念ながら、私が南渡し付近で発見した援体壕や歩兵壕は判別できません。それでも実際のカラー航空写真に近い形での見れるようになった事に非常に満足を感じています。この驚きは・・・そう!初めての渡蒙直前、H12年5月のGPS受信データの強制劣化解除のニュースに近いものがあります。
少し良くなり見れるようになったエリアに「南渡し付近と警備隊兵舎」「チョクトン兵舎付近とホルステン河」「ノロ高地付近」などがありました。

2009/11/17
こちらも8年ぶり。初回の訪問から丸10年!奈良の航空自衛他幹部候補生学校に行って油絵の撮影をしてきました。絵が寄贈された際の正確な話を伺う事ができた。展示も「松林館」という非常に素晴らしい資料館に常設で展示されており、今なお教育教材として使われているとの事。五郎おじが聞いたら喜ぶだろうなぁ~
※  「航空自衛隊 奈良基地」 奈良県奈良市法華寺町1578

2009/10/20
8年ぶり!永井団長と邦裕さんに会いに新横浜まで行ってきました。お元気そうで、何より!
現地の状況は、以前に比べると定期航空便が無くなり、チョイバルサンからの陸走になるなど、大変な面もあるが、装備・設備が充実して来ており、総じて気楽に行く事ができるようになっているとの事だった。蚊も居ない、下痢もしない、煮沸消毒したお湯を入れるアルミの水筒もいらないスンベル村なんて・・・と言いたい所だが、ぜひ来年こそは参加したいものだ。

2009/02/11
今年はノモンハン事件満70周年に当たります。現地に興味のある方は現地慰霊法要に同行されてはいかがでしょうか?!私のように直接の関係者、御遺族でなくても参加は可能です。(もちろん慰霊が主目的である事だけは念頭に入れておいて下さい。)ハルハ河を越えて戦場跡に入る事は貴重な経験となるでしょう。今年も恐らく8月19日~27日ぐらいの予定で催行されると思われます。詳細は4月頃に発表の予定だそうです。詳しくは永井団長まで御問い合わせ下さい。

※  「ノモンハン事件現地慰霊之会」会長 永井 正 〒221-0802 横浜市神奈川区六角橋1-8-24

2009/01/06
本日、大叔父の訃報を知る。昨夜、ネット上のある方のブログで、西原五郎の昭和40年当時の写真とその方の思い出話を偶然にも発見し、今朝、会社の同僚にその話を伝えた・・・まさにその時刻に亡くなったらしい。一昨年の8月から寝たきりの生活になっていたのは知っていて覚悟はしていたのだが、やはり寂しい。
いつの間にか、眠るように逝かれたそうだ。五郎おじさん、ありがとう・・・合掌。
唯一、悔やまれる事がある。知覧特攻平和会館に西原五郎の友人の写真が飾ってあるそうだ。西原は知覧特攻平和会館に行った際、友人の写真を前に思わず涙したそうだ・・・。あまりにも寂しい話だったので、思い出させるのは悪いと思って名前を聞けないまま今日に至った。もし、自分が知覧特攻平和会館に行く事があれば、その方の写真の前で手を合わせようと思っていた。ただ、それだけの話である。

2007/10/26
大叔母の訃報を知る。私の母の義理の伯母になるが、両親がそう呼ぶように私も「おばさん」と呼んでいた。渡蒙の前後で2回しか会ったことがないのだが、私の幼少の頃から知ってたみたいな感覚があった。五郎おじさんと3人で食べた夕食の情景が目に浮かぶ。ご冥福をお祈りします。合掌。

2007/10/15
村上春樹著「辺境・近境」及びその写真集「辺境・近境 写真編」を購入する。
私が見た戦車の残骸を、作家の村上春樹氏が私の初渡蒙より6年も前に訪れていた。紹介されていたのは私の撮影した戦車の残骸1台目だった。氏が他の戦車の残骸を調査したのかは不明。モンゴル自由化の直後に中国側とモンゴル側からの同時取材と言う点には本当に脱帽である。
「辺境・近境」が出版されたのは1998年なので、私は渡蒙の際に資料集めに躍起になっていた頃、既に出版されていたはずなのだが、全く知らなかった。村上春樹氏とノモンハン事件の関係は、当時、ネットで調べた時にも「ねじまき鳥クロニクル」という作品でノモンハン事件との関係があることはわかっていたのだが・・・。何度も書くが、1999年当時、インターネットで「ノモンハン事件」と検索をかけても30件~50件程度しかヒットしなかった。現在ではきりが無いぐらいヒットするのだが、どれも書いてある内容は同じである。そういった点で94年当時の村上氏の現地取材には価値があると思う。

※  「辺境・近境」 村上春樹(新潮社)
※  「辺境・近境 写真編」 村上春樹・松村映三(新潮社)

2007/08/??
永井団長より電話があった。もう今年限りで現地慰霊は終わりにしようと思う。最後のチャンスなのでどうか?とのお誘いであったが、仕事の関係で行くことはできない。
再訪しなければ・・・そう、思いながら既に6年が経過してしまった。
永井団長が現地の話をしてくれた。ニゲソリモト一本松から南東方面だろうか?三角山という場所があり、そこはソ連軍の砲撃で地形が変化してしまったそうだ。そこに慰霊に行きたかったが不発弾が多くて近寄れないという・・・。 三角山・・どこにあるのだろう。気になる。

2006/07/26
昭和16年発行の「撃墜」をネットの古本市場で入手することができました。同時に入江徳郎著「ノモンハ ンの荒鷲」も古本ネットで販売されていました。昭和16年当時の「撃墜」を入手することなど、私の第1回目の渡蒙の頃には夢のまた夢・・・考えられない事でした。今日それだけ「ノモンハン事件」という言葉が世間に認知された証だと思います。

2006/12/28
最後の渡航から既に5年が経過し、次に行く機会を得ないまま過ごしています。
これまで遺族の方々による地道な活動はあったものの世間一般には知られることのなかったノモンハン事件ですが、事件後60周年の 1999年にNHKより放送された「ノモンハン事件60年目の真実」以降、比較的言葉としては知られるようになり、「瑠璃の翼(山ノ口洋:著)」が発刊された頃には広く世間に認知されたように思います。

200?/??/??
※  「瑠璃の翼」山ノ口洋(文芸春秋)
陸軍航空隊「稲妻戦隊」を指揮した著者の祖父、野口雄二郎がモデル。小説だがベースは実話である。資料を駆使し取材を通して戦争の真実を立体的に描く事に成功している秀作。(2004.2.29神戸新聞の紹介記事より)
読んでの感想は、とにかくよくぞここまで調べ上げられた・・・と驚嘆に値する作品です。松村戦隊長救出のシーンも「撃墜」を参考に描かれており、個人的に親しみを感じる1冊。とはいえ、救出地点は「撃墜」の通り“東渡し”となっていたのが少し残念・・・。

2004/??/??
現在、「ノモンハン事件」でネット検索すると出るわ出るわ・・・2000年当時とは検索件数は比較になりません。中にはバイン チャガンで戦死したヤコブレフ連隊長の名前まで出てくるHPもあり、驚きです。しかし、書いてあることはどれも同じ・・・殆どが書籍などの情報をHPに変換しているに過ぎません。
昨年より厚生労働省による遺骨収集団が現地を訪れるようになりました。反面、15年以上続いた「ノモンハン事件現地慰霊の会」は 遺族の高齢化のため解散寸前です。私は丁度良い時期に慰霊団に同行できたのだと思います。
以前から永井団長は戦場跡には未回収の遺体が5千体以上はあると発言していましたが、全て回収し遺体などあるはずがないとする反対意見もあり、氏の発言は広く世間に認められていなかった感がありました。しかし、それが今では国が3千体の遺体が未回収と公言するようになり、本当にこ の数年で時代は変わったと実感しています。
(なお、3千名の遺体が未回収という表現と、現地に3千名の遺体が存在する・・・という表現は同じようで異なるものです。それは 本文を最後まで読んで頂くと理解して頂けると思います。) 以上

リンク

mino world

( http://minoworld2.web.fc2.com/ )
2010年8月にハルハ河を越えて現地入りされた蓑口氏のサイト。 ネット上を検索してもせいぜいノロ高地までの現地レポートが多い中、何の伝も無くぶっつけ本番で現地入りし、生田大隊731高地や田原山を望む位置まで行かれたのは唖然。 参戦経験者に直接インタビューをし、実際にその現場に行ってみるという蓑口氏の姿勢には感銘を受けます。他の戦地跡レポートも必見。


元商社マンH氏の旅(ノモンハン事件編)

( http://tameike.net/journey/mongol4.htm )
2003年10月にハルハ河を越え、大砂丘帯北まで入られた元商社マンH氏の旅行記。 10年勤めた商社を退職の後、世界各地を放浪される中で、モンゴル滞在中にチョイバルサン経由スンベル村で現地入りされた。まさに「地球の歩き方」を地で行く旅の数々には脱帽です。 思うに、大砂丘帯北の戦車の墓場に行ったのは、村上春樹氏と私、そしてこのH氏の3人だけなのか?!


祖父の硫黄島戦闘体験記

( http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/ )
硫黄島の戦いに参加された方の戦闘体験手記。 ご祖父さんの、硫黄島での戦闘から復員するまでの手記をネット上で公開されています。淡々とした戦場描写・・・“戦闘とはこのようなものである”というリアリティを感じる手記。勝っても負けても戦争とは単なる破壊行為だという現実を再認識させてくれる貴重な資料です。


たびびとのたまご・エリアトラベル

( http://www.tabitamago.jp/ )
平成13年から慰霊団に参加されている石井氏が代表を務める旅行社。モンゴル旅行を最も得意としています。
ノモンハン戦場跡への渡航歴は十数回。なにより石井氏がモンゴル語が堪能である点が強みの会社です。

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