ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
現地(戦場跡エリア)を目指される方へ
2018年8月15日放送、NHK「ノモンハン 責任なき戦い」を見て現地に興味を抱かれる方もいらっしゃるかと思い、予め簡単な現地の紹介ページを作成してみた。
この戦いのことを日本ではノモンハン事件と呼んでいるが、諸外国ではノモンハン事件とは呼ばず、ハルハ河戦争と呼んでいる。ノモンハンは現在中国領になり(旧・満州国側)、付近は戦線の後方であったため陸上での戦闘は無かった。
従ってここでいう現地(戦場跡)とは、モンゴル領内に存在する激戦地。つまり日本軍部隊玉砕の地ということになる。
現地(戦場跡)へは、モンゴルの首都ウランバートルから東へ約880km、モンゴル領の東の端にあるスンベルという村が入口となる。880kmというと日本ならば東京~博多間と同じぐらいの距離だ。そう考えると現地入りするのはかなりの難事業と言える。しかし、HOMEにも紹介している通り、慰霊団の専属だった旅行社も存在するので、興味のある方は、是非とも現地を見に行って欲しい。そして、書籍からの知識だけでは感じ取れない、生の現地の雰囲気を肌で感じ取って頂きたい。
【近年の状況】
私が初めて現地を訪れた平成12年(2000年)頃は、スンベル村は完全にインフラの崩壊した街だった。ところが2008年頃からメネン高原の油田開発で資本流入があり、このモンゴル東部地域は活況を呈している。スンベル村付近は、首都ウランバートルよりも中国に近いということで、送電線なども中国から引かれている状態だ。また、噂ではスンベル村にコンビニもできたのだとか・・・
戦場跡エリアの開発は今後も無いだろうが、ハルハ河西岸一帯は、韓国系(・・と聞いた)資本による大規模な農地開発も行われている。特に、一時期は完全に放置されていたスンベル村のコルホーズ農場が再び耕作されるようになった。これら開発の痕跡は、GoogleMapなどの衛星画像で確認できる。
【交通手段】
入口になるスンベル村へ行くには、首都ウランバートルから飛行機でドルノド県の首都チョイバルサンまで移動し、そこから車で約330kmを走破して現地入りするのが一般的だろう。ウランバートル到着後、翌日チョイバルサンへ移動。3日目の朝からガタガタ道を走り続けて7~8時間ほどだろうか?夕方にスンベル村到着である。よって、現地での活動は4日目から・・・ということになる。
このガタガタ道を走る間に、国境警備隊の検問所が数か所存在する。外国人がこの一帯を移動する場合、許可が必要になるようだ。
かつてはウランバートルからスンベル村まで直行便が存在した。飛行機だと約2時間半である。ウランバートル到着後、翌日の午後にはスンベル村入りが可能なので、飛行機と車で行くのに比べると往復で2日間のゆとりができる。この直行便はしばらくは廃れていたのだが、最近、復活したという噂も聞く。正確なことは旅行社に確認して欲しい。
【現地入り難易度別ガイド】
※現地地図をクリックして広げて下さい。
ハルハ河を越えて現地を廻るには4WD車両を準備する必要がある。加えてモンゴル国境警備隊の許可が必要となる。しかし、ハルハ河の西岸側にあるスンベル村までなら許可は必要ないし、2WDの乗用車でも行くことは可能だ。ハルハ河を渡らなくても、激戦地のバインチャガン、ジューコフ指揮所跡、戦勝記念塔、そしてスンベル博物館(ハルハ河戦争博物館)の見学が可能である。このハルハ河西岸側はかつての敵国。つまりソ蒙軍側ということになり、ハルハ河を挟んで対岸が、かつての日満側ということになる。参戦経験者にとっては、当時は無縁の風景であるから、初めて見た時のその驚きは凄かった様だ。
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まず、許可は必要だが手短に行けるのがノロ高地、川又地区になると思う。
ハルハ河大橋を渡り、チョクトン兵舎で許可をもらい(※旅行社に要確認)、ノロ高地であれば、チョクトン兵舎からは南東に4kmほど移動した地点、川又地区であれば、チョクトン兵舎の裏手を流れるホルステン川を越え、北に道なりに3kmほど行った地点になる。
ネットで調べても、ここは比較的、行かれた方のレポートが多く見つかる。恐らく、国境警備隊の方でもこの場所だけは認識があるのではないか?
意外なことではあるが・・・いや、ある意味、当然のことかも知れないが、モンゴル国境警備隊は日本軍の玉砕した陣地跡がどこなのか?ほとんど知らない。加えて、隊員の移動も頻繁なので、過去に日本人をどこに連れて行ったのか?など、そんな情報の蓄積も無い。
むしろ、ソ蒙側の慰霊碑のある場所は簡単に案内してもらえる様だ。
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続いては、やや難易度が高い場所となる。ここまで入るには許可以外に、ある程度の伝手が必要かもしれない。ニゲソリモト地区、大砂丘帯の北、そしてかつては戦車の墓場と呼ばれた場所だ。
ここには、作家の村上春樹氏が1994年に、元商社マンH氏が2003年10月に訪れている。内容については、村上春樹氏はその著書「辺境・近況」を確認してもらえれば良いし、元商社マンH氏のレポートはHOMEで紹介している。
私は2001年に、この戦車の墓場から大砂丘帯を時計回りに周回し、南渡し方面に抜けた。8月の大攻勢で日本軍を包囲した部隊の最右翼のルートを逆に辿った形になる。
ある程度の伝手と書いたが、私の場合は、長年現地で慰霊活動を続けていた慰霊団への参加者だったし、村上春樹氏、元商社マンH氏、共に、ガイド役はモンゴルでそれなりの要職に付いている方だった様だ。
なお、断っておくが、戦車の墓場と呼ばれた場所に、擱座した戦車の残骸が3台あった。しかし、2005年頃までに全て鉄屑として回収されてしまい、現在はもう無い。北京五輪を前に鉄屑が高値で取引されたことが原因だという。残念なことではあるが仕方が無い。
もうひとつが、2010年8月に現中国領の田原山を見ることのできる位置まで、北海道の蓑口氏が行かれている。これはインタビューした方がその場所で戦った参戦者だったという理由があるようだが、こちらも慰霊団と簔口氏以外には行ったという話は聞かない。ぶっつけ本番で行かれたとの事で、頭が下がる思いだ。蓑口氏のサイトもHOMEで紹介している。
なお、1999年8月17日放送、NHK「ノモンハン事件60年目の真実」の中ほどで、鉄条網の向こうに戦車の残骸が映るシーンが登場するが、どうやらこの田原山を見ることのできる位置付近での撮影だったらしい。・・・らしいというのは、番組ディレクターの鎌倉氏に確認した所、番組の冒頭で登場するスンベル博物館の館長だったサンダグゥオチル氏に連れて行ってもらったので、正確にはわからないのだという。、鉄条網があるのはホルステン川より北のエリアになるから、話としては整合性が取れている。(※この鉄条網の向こうの戦車の残骸に付いては、その後、どうなったのか?情報は得られていない。私が初渡航した平成12年には既に情報は無かった。)
もうひとつ、フイ高地、バルシャガル高地などを、岡崎久弥氏の率いる調査団が2009年、2014年と調査をされている。(正確には氏のサイトを確認)
バルシャガル高地は、川又地区から東へ3km程の所にある。レミゾフ高地とも呼ばれ、レミゾフ碑やチョクトン碑なども付近にあるため、国境警備隊にはポピュラーな場所の様だ。但し、前述の通り、日本軍の陣地跡などは国境守備隊に聞いてもわからない。
フイ高地の陣地跡は、チョクトン兵舎から北に20kmの所、道から西へ300mほど外れた一帯にあり、塹壕などの遺構が明確に残されている。これはGoogleEarthなどでも明確に確認できる。→GoogleMap【フイ高地】
フイ高地に付いては1994年頃、慰霊団に参加していた井置部隊の石川氏の執念により位置確定した。氏が事件当時の自分の居場所を現地で突き止めたことにより確定できたという。
岡崎氏は2015年には朝日新聞社と合同で、航空機を使った空からの大規模な遺構調査を実施されている。岡崎久弥氏のサイトに付いては下記になる。私も以前、空路で見た時から何か存在すると感じていたが、岡崎氏の調査により、それがソ連軍の大規模な遺構であることを知った時は驚きだった。
↓虎頭要塞日本側研究センター
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/kotou-top.htm
※現地地図をクリックして広げて下さい。
最後は私が2000年、2001年に行った南部戦跡方面になる。南渡し、大砂丘帯東部、ハルツェンウーラ、等の南部戦跡である。こちらは近年、国境警備隊の管轄が変わり、通行許可をウランバートルで申請しなければならなくなった。行けたのは正直、運が良かったとしか言い様が無い。
現在、管轄の区分がどの辺りなのかは定かでは無いが、東渡しからハンダガヤ方面へは、とにかく現地の守備隊では許可証がもらえないということだ。
ウランバートルで申請手続きを行い、それを受け取ってのスンベル村行きになるので、時間的な制約も発生するだろう。手続きには何が必要なのか?時間はどれぐらい掛かるのか?どれぐらいで許可証が発行されるのか?全ては不明である。
いずれにしても、現在では東渡しの付近から先、ハンダガヤ方面へは、慰霊団でもこれまでのように行けなくなったということの様だ。
【その他、現地入りの情報】
その他の現地入り情報として、厚生労働省の遺骨収集団が2004年頃から現地で遺骨収集作業を実施している。こちらは一般での参加は難しいかもしれない。私の知る限り、慰霊団に参加された方の中から御三名が、この厚生労働省の遺骨収集団にガイド役として参加している。その中の一人、Kさんに現地での話を聞くと、主な目的は主戦場跡にある玉砕した陣地跡での遺骨収集であり、戦闘域以外での活動や調査はほとんど行われていない様だ。
これまで、モンゴル側からの現地入りを紹介したが、中国側からノモンハン村に入る方法もある。検索すると比較的行かれている方も多い。かつて慰霊団に参加された方の中に中国領ノモンハン村に行った経験をお持ちのSさんがいた。
話を聞いたが、概ねネット上で見るレポートと同じ内容だったと言える。現地では中国当局の監視が常にあり、行動や写真撮影にかなりの制約を受けるのだという。また、モンゴル側とは違い、かなり強い対日意識を持って接して来るとのことだ。行かれる場合は覚悟して臨まれた方が良いだろう。