ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
3. よもやま話-Part2
最近になって改めて気が付いたことや、裏話的な内容を記述しています。
⑤ソ連軍の巨大陣地跡
本日、Webニュースで(朝日新聞デジタル2014-7-8)、日蒙の合同調査隊が、今年6月にチョイバルサンの東部にある旧ソ蒙軍の巨大軍事施設跡を調査した・・・と報じていた。この調査隊は5年前にも同様の調査を行なっており、その際は、ノモンハン事件当時、日本軍が飛行場の爆撃を行なったタムスク基地の遺構調査だった。今回はタムスクよりも更に西、チョイバルサン寄りにあるマタットという場所だという。私はこのニュースで思い当たることがあった。
平成22年の渡蒙直後、私は自分の足取りを確認するためGPSトラックデータを元にしてGoogleEarthに展開・記録していた。平成22年はGoogleEarthの衛星写真の細密度が向上し、不毛の?モンゴル東部であっても都市部並みに細密画像が見れるようになって来た時期だった。
GoogleEarthのサービス開始が2005年。当初、ノモンハン事件に関連した地域で細密映像が見れたのはバインチャガンと対岸のフイ高地、レミゾフ高地~ホンジンガンガ付近、そして戦車の墓場付近だけだった。一方、スンベル村、ハマルダバの丘、スンベル空港、ハルハ河の東渡し~南渡し等は、何か軍事的な理由もあったのか?長年、画像は荒いままだった。現在でもスンベル村とハマルダバの丘の周辺だけは、若干、細密さに欠ける画像となっている。(それぞれ、国境警備隊の兵舎が存在する地域である。)
タムスク付近も一部は精密画像だったが、範囲が広すぎて2/3程度しか見れなかったと記憶している。
ノモンハン事件当時、ソ蒙軍はチョイバルサン(当時の呼び名はサンベース)からタムスクまで鉄路を引いて軍事物資を運んでいたと言われている。この鉄路の痕跡はGoogleEarthで確認することが可能だ。
一部では、当時の鉄路跡を自動車がそのまま利用して幹線道路となっており、判別が難しい場合もあるが、総じて、鉄路跡は独特の特徴があるので判別するのは簡単である。
草原を走る自動車の幹線道路は直線といえども微妙にうねっており、所々に水溜まりを避けて不自然な曲がりくねりが存在する。しかし、鉄路跡の場合、常に真直ぐで曲がりも無く、方向を変える為のカーブの半径が非常に大きい。また、所々に給水場や列車交換場らしきものの痕跡を見ることができる。
ある日、私はGoogleEarth上で、タムスク基地から伸びる鉄路の痕跡を西に向って根気強くたどっていた。そしてその終着点が、定説通りチョイバルサンまで続いていることを確認した。また、チョイバルサンから約110kmの所に、タムスク同様、対戦車壕に囲まれた巨大な軍事施設があることもわかった。それが、今回、日蒙合同調査隊が調査を行なったマタットだったのである。
同時に私は、タムスクからボイル湖東岸にかけての南北の線上に、ノモンハン戦場跡と同様の、戦車援体壕や歩兵塹壕を中心とする陣地跡が連続して多数存在することに気が付いた。その総延長はざっと70km。
これはちょうど、ボイル湖と南部の山岳地帯との間に広がる平原地帯を、東西に分断する形となっている。恐らくソ蒙軍が、東から押寄せて来るであろう日本軍を意識した結果だと思われる。それにしても遺構の存在は途方もない数である。
今回の調査のニュースで、マタットの遺構がノモンハン事件より前に造られていたという事実を知った。マタットもタムスクも巨大な対戦車壕で囲まれており、共にその総延長は30kmにも及ぶ。いくら機械化の著しかったソ連軍とはいえ、これらの施設を、5月の第一次ノモンハン事件から、8月末のソ蒙軍大攻勢までのたった3ヶ月で構築するのは無理だろう。私はむしろ、ノモンハン事件後に、ソ蒙軍が今後に備えて造ったものではないか?と考えていたのだが、それが、ある程度、事前に造られていたというのであれば合点も行く。
お世話になった永井団長の話では、昭和13年の張鼓峰事件の頃、ソ蒙軍の満洲側への越境事件は年間700件にも及んだというから、これら巨大軍事施設の存在が、ソ連の南下政策はともかく、ソ蒙古軍が日本との戦いに備えて軍備を増強させていた裏付になるように思う。
【GooglEarthより、マタット基地跡周辺】
外堀である対戦車壕の外側(南部)に飛行場の跡を見ることができる。
【GooglEarthより、タムスク基地跡周辺と、H12年、H13年の飛行経路】
タムスクでも、外堀の外側(南部)に飛行場の跡を見ることができる。
日本軍が爆撃を行なった飛行場なのだろうか?
【平成13年、ウランバートル~スンベル定期便から空撮】
平成12年、13年当時は、この草原に見える広大な模様が何かわからず、農業用の大規模潅漑施設(用水路)ではないかと思っていた。
YouTube映像→「タムスク上空より」
【GooglEarthより、タムスク基地跡】
こんな痕跡が、草原にあるのだから不気味である。ノモンハン戦跡であるハマルダバの丘の裏手も同様なのだが、そちらはGoogleEarthの画像が不鮮明で確認することができない。
【GooglEarthより、ボイル湖東岸】
ボイル湖の東岸にも、このような遺構が延々と続いている個所がある。
正直、何か遊牧民の墓地の様のものでは・・・と思ったりもするが、遊牧民は墓地を造らないのだという。黒く丸い痕跡は、遊牧民のゲルを建てた跡である。
平成22年、上の写真の№35付近で撮影したもの。BT型戦車や装甲車がすっぽりと収まるサイズの援体壕が、草原に延々と続いていた。ノモンハン戦跡で嫌というほど見て来たので間違いはない。
とはいえ、これらの遺構の全てがノモンハン事件当時の物なのだろうか?
チョイバルサンからノモンハン戦場跡までの数百キロ中、GoogleEarthを確認するだけでも、馬蹄形の援体壕は数千という数になる。それだけの数の戦車や装甲車が同時期に存在したとは考え難い。遺構はそれぞれ少しづつ時代(時期)が違うのではないだろうか?
これら遺構が、ノモンハン事件前からあったのか?事件後に造られたものなのか?それともずいぶん後の中ソ国境紛争の影響で造られたものなのか?謎は深まるばかりである。
※2018/0810追記
岡崎氏の調査によると、これらは兵士が寝泊まりした壕の跡だという話だ。穴を掘ってその上からシートを被せたらしい。確かに戦車などを入れる援体壕と比較すると、若干小さいものも多数存在するのがわかる。そうしてみると、これまで私が見て来た援体壕というのも、一部は兵士の寝ぐらだった可能性も出て来たのだが。