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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

⑨チョイバルサン市内観光~空路でウランバートルに戻る

平成22年8月29日(日) 日程9日目、モンゴル第8日目

mong10_10a   今日の予定は、市内観光と昼食の後に空路でチョイバルサンからウランバートルに移動である。

  昨夜は雨が降ったのだろうか?灰色の雲が低く垂れ込めるどんよりとした朝だ。mong10_10a2本日は特に予定も無いので、朝食は遅めの9時からだった。目が覚めてからずいぶん時間を持て余すことになるので、暇つぶしにカメラを片手にホテルの周囲を散策してみることにする。先に散歩に出かけていたSTOさんが「今日は寒いですよ~」と言った。ポロシャツで一旦玄関まで出たのだが、やはり忠告通りフリースを着込んで出かける。

【朝の散歩】
mong10_10c   ホテルはチョイバルサンの町の中心部に位置するため、周囲には何やら役所か企業のオフィスらしき建物が並んでいた。いわゆるここは“オフィス街”なのであろう。mong10_10dオフィス街と言っても日本で想像するようなものとは程遠く、廃屋に見える建物も多い。それでもレンガ造りの古びたビルの前には10台程車が並んでおり、事務員の女性だろうか?玄関の前を掃除していた。その横をグレイハウンドのような痩せた灰色の犬が力無さげに歩いている。


mong10_10e   人の気配はほとんど無いのだが、散策を続けるに従いポツリポツリと人に出会う。人通りが少ない中、朝早くからうろついている私を見て、出会った人々は一様に、不思議そうな表情をする。(とはいえ、嫌悪感のある表情ではない。)

  私としてはこの小雨交じりの天気の中、古びたコンクリート壁の建物や、mong10_10g庶民の生活が感じられる場所を撮影対象として探していたのだが、中途半端な人通りの中ではかえって目立ってしまい、カメラを向けて良いのやら悪いのやら・・・。そう考えると盗撮のようになってしまい、まるでスパイのようだ。
  それでも5階建てのレンガ造りの集合住宅を見つけることができ、少しだけチョイバルサンの“生活の匂い”みたいなものを写真に収めることが出来たように思う。


09:00朝食
mong10_10h   荷物を玄関に置いて食事。その間、タイシルが荷物の番をしていた。朝食はおかゆとトースト、サラミと目玉焼き、ピクルスだった。おかゆは米の粉を煮詰めたような感じで、粉砕された米の粉が少しザラザラした食感がする。
  我々が食べ終わると、交代でタイシルが食堂に行った。



mong10_10i 10:05。時間通りに大型観光バスが迎えに来た。チョイバルサンにも観光バスがあるのかと関心していると、どうやら外国の視察団などが訪れた際に使用するモンゴル軍専用のバスらしい。ホテルには戻らないので全ての荷物を積み込む。出発の直前にチョイバルサンの司令官が見送りに来た。やはりミャグマル閣下が同行しているということでVIP待遇である。


【ソ連空軍パイロット記念碑】
mong10_10j10:15。まずはチョイバルサンの市街地の東の外れにある『ソ連空軍兵士の記念碑』に行った。道から少し離れたなだらかな丘の上に、高さ20m程の真っ白な細長い塔がポツンと見えている。ここにはノモンハン事件で亡くなった全てのソ連空軍パイロットが祭られているという。
  バスから降りると風がいっそう冷たく感じられた。街の方角を振り返ると火力発電所の煙が横にたなびいている。煙突が少しばかり小さく見え、この場所が街の郊外であることを改めて感じさせた。丘には数本のポプラの木が生えているだけだ。寝巻代わり着ていた登山用のフリースが初めて活躍した。

mong10_10k   なだらかな階段を登ると、丘の上の広い祭壇が見えてくる。祭壇には昨夜の雨が広い水溜りを作っていた。真上を見上げると、真っ白な四角い塔の前面に、金色のリレーフで“1939”という数字(ノモンハン事件の発生年)と共に、モンゴル文字で記念の言葉が刻まれていた。

  記念塔を取り囲むように建てられた石壁には、金色の文字で亡くなったソ連軍パイロットの名前が掘り込まれている。キリル文字で書かれているため全く読めないのが心苦しい。その石壁の前に塔婆を立てかけ花束を置くと慰霊回向が始まった。成田山のお二人の読経の声が北風に乗って流れる。

mong10_10o   ここは、現地慰霊の中でも、唯一、パイロットの戦没記念碑となっている。ノモンハンの空で戦った大叔父に直接関係がある場所だ。大叔父が撃墜した12機の中に、ここに眠るソ連軍パイロットが含まれていたと考えられなくもない。今さら私が手を合わせたからといって何かが変わる訳でも無いだろうが、慰霊団の慰霊回向とは別に、分けてもらった造花で小さな花束を作りって慰霊碑に添え、両膝を付いて手を合わせた。

【無名空軍戦士の墓】
10:35。慰霊回向も終わりバスに戻ろうかという時、スレンさんが慰霊碑の丘の南斜面を指差して何かを言った。この場所からはチョイバルサンの南部に広がる草原が一望でき、一本の川が流れているのが見える。スレンさんは「ハルヒンゴル」(ハルハ河の意味)と言った。私はてっきり目の前の川がハルハ河の上流だと思ったが、それは勘違いで、すぐにスレンさんが伝えたかったのは全く別の意味であるということがわかった。

mong10_10p   良く見ると敷地内の南斜面には無数の墓標が並んでいる・・・。ここは無名空軍兵士の墓だという。実際に現地で収集された遺骨が埋葬されているのだという。バスに戻りかけた一部の人達でスレンさんの後に続いて行った。



大きな地図で見る   スレンさんの話によると、墜落した機体から回収されたパイロットの遺骨のうち、身元の判明しない遺骨がここに埋葬されているのだという。白い墓標には黒い石のプレートがはめ込まれ、☆印と共に“1939”と刻まれている。他に目立つものは一切無く、実に物悲しい。
  モンゴルの風習だろうか?オボーで石を積むのと同じく、石のプレートの上には数多くの“石”が置かれていた。その石の数がここを訪れた人々の、無名兵士を悼む心を表しているようだ。

mong10_10q   墓標の一番端には真新しい盛り土があり、花輪が添えてあった。先の8月上旬に行われたソ蒙側のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の慰霊祭で、新たに見つかったパイロットの遺骨を埋葬したのだという。倒れている花輪を我々の手できちんと立直し、造花を添えた。

mong10_10r   振り返ると、緑色のの斜面に無名戦士の白い墓標が規則正しく並んでいる。その視線の先には白い慰霊塔が凛として立っていた。空を見上げると白い雲が北風に流されている。
  丘を吹き抜ける風に乗って、パイロットの魂が今でも空を駆け巡っているような・・・そんな光景が思い浮かんだ。

  身体も冷えてきたのでバスに戻った。先にバスに乗って我々を待っていた永井団長や浜さん達は少し待ちくたびれたという感じだった。

mong10_10s   バスは来た道を逆に戻り、ホテル前を経由してチョイバルサンの街の反対側(西の端)へと移動した。途中、マーケットが集る人通りが多い場所を通過する。とはいえモンゴルの地方都市である。日本の繁華街のような人通りではないので念のため・・・。




【日本軍爆撃の跡】
mong10_10t 11:00。ノモンハン事件の際、日本軍が爆撃をおこなった跡地を訪ねた。今では市街地の一部となっているが、当時は草原の中にある飛行場だったようだ。町の呼び名も現在のチョイバルサンではなく「サンベーズ」と言い、当時は数戸のゲルが集る集落だったという。
  道に脇に大きな爆弾を模したオブジェが見えた。他には何も無く、運転していると見過ごしてしまいそうな雰囲気だ。

mong10_10t2   爆撃の記念碑には隣接して公園があった。バスケットボールのコートや滑り台、ブランコなどが設置してある。記念碑と公園の間には高さ7m程の鉄塔があり、日本、モンゴル、EUなどで資金を出し合ってこの公園が出来たとする旨の説明が添えられていた。日付を見ると我々が訪れる9日前の日付だった。いずれにしても何らかの形で4カ国程から何らかの資金が出ているということだろう。(帰国後、改めて写真を見ると小学校のようにも見える。)

mong10_10u   バスケットのコートでは女の子3名が楽しそうにシュートをして遊んでいた。その輪の中にスレンさんが笑顔で入っていった。スレンさんがボールを手に取りシュートをする。しかし、ボールは全く見当違いの方向に飛んで行き、それを見て一同、大爆笑。スレンさんは何度もチャレンジするが全く入らない。次はタイシルがチャレンジしたがやはり入らない。ボールが軽すぎて調子が狂うのだという。邦弘さんが意地になってやってみるが、やはりだめである。そろそろ時間だ。我々が長時間ボールを独占してしまったので、女の子達に「ありがとう」と言ってボールを返した。

mong10_10v   そんなことをしているうちに、周囲には子供がたくさん集っていた。すると、邦弘さんが何かを思い付いたように「ちょっと待ってて・・・」と言ってバスに走って行く。しばらくすると紙袋を抱えて戻って来た。中にはアメやお菓子がいっぱい入っている。子供達を集めて分配だ。中には人見知りをして寄って来ない子供もいたが、そんな子供にも笑顔で手招きをしてお菓子を渡した。
  短時間ではあったが、モンゴルの地方都市でのささやかな交流であった。


【モンゴル兵士の記念塔 最後の慰霊】
mong10_10w 11:20。バスに乗り込み、ほんの数百mほど離れた『モンゴル兵士の記念塔』へ向かった。この場所では毎年のように「ハルハ河戦勝記念日」の式典が行われているのだという。

  バスを降りると、高さ20m程の巨大なアーチと共に馬に乗って飛翔するモンゴル人兵士の像が目に入る。両脇にはBT5型戦車BA装甲車が陳列されているが、共に足回りのスプリングがへたっているのか?妙に車高が低くなっており、71年という年季を感じさせた。

mong10_10w2   少し型の古いBT5型戦車の全容を見るのは初めてだった。後部が垂直に切れ落ち、そこに飛び出すように駆動輪のデファレンシャルが付いている。呆れ返る程簡素な造りだ。当時の日本軍の戦車と比較すると、いかに日本の戦車が凝った造りになっていたのか、がわかる。BA装甲車の方は右底部に砲弾で撃ち抜かれた痕跡が見られた。


mong10_10y   ここでこの今回の旅行の最後の慰霊回向を行った。アーチの間から差し込んだ太陽の光が、剣をかざして馬に乗るモンゴル人兵士の像に降り注ぎ、後光が差しているように見える。最後の読経の声が流れる。


mong10_10z06  アーチの背後には、周囲を取り囲むように高さ2mほどの壁が巡らされモザイク画が施されている。このモザイク画を良く見ると実に興味深い。ノモンハン事件を題材にはしているのだが、ウランバートルのザイザンの丘にあるモザイク画とは違い、日本国旗を踏みつけたり・・・という過激な表現ではない。むしろ、どことなく平和を意識した内容となっている。どうやら左手から右へ物語形式になっているようだ。


  物語は・・・。
mong10_10z01a①妻と娘に見送られて出征?出征する兵士を青い布と馬の乳を撒く儀式で祝福





mong10_10z02a②騎兵突撃の図。





③I-16戦闘機と共に砲兵、機関銃兵(マキシム機関銃)、砲兵、狙撃兵、BT7型戦車、BA装甲車、少校などの総攻撃の図。
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mong10_10z05a④戦いが終わり残骸に別れを告げる。(この図に唯一、太陽とも日本の国旗とも取れる丸い模様が描かれている。)





mong10_10z05b⑤亡くなった兵士を慰霊?記念碑に手を合わせる。(記念碑には赤い星のマークが)





⑥勝利を祝い、馬から鞍を下ろす。鞍を降ろされた馬が嬉しそうに戯れる。
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mong10_10z07a⑦帰郷、家族との再会の図。






mong10_10z07b⑧ラクダの前で馬頭琴を奏で馬乳酒を飲む図。








  このモザイク画を見る限り、対日戦争の勝利と戦意高揚を目的としているというよりは、戦いに参加した全てのモンゴル兵士に対する感謝と平和を大切にする気持ちが現れているように見える。これまで見てきたハルハ河戦争のオブジェのどれとも違う。

  私がこのモザイク画で特に気に入っているのは、⑥~⑧の馬から鞍を降ろし、家族との再会を果たし、遊牧民族本来の生活に戻るシーンである。騎馬民族としての勇猛果敢さよりも、遊牧生活ののんびりしたところがモンゴル民族の本当の姿であると、作者は表現したかったように思えるのだ。

【自然博物館】
mong10_10z08 11:45。モンゴル兵士の記念碑での慰霊が終わると、道路を隔てて斜め向かいの『自然博物館』に入った。ここにはモンゴルに生息する野生動物の剥製や植物標本などをジオラマにしてある。内部は薄暗く全てが古びていた。日本の博物館を知る身としては、展示の貧弱さを感じずにはいられなかったが、日本でも40年前の博物館はこんなものだったように思う。
  それよりも、民主化による予算カットなどで新しい展示品が追加されないことが、この寂れた雰囲気を作り出しているように思えた。チョイバルサンはウランバートルのような観光都市でもなく、1日に訪れる客も数組だろう。我々の他には2組ほどの家族づれがいるだけだ。数十年という時間の中で取り残された博物館のように思えた。外に出ると太陽が眩しい。20分ほどが経過したようだ。

【歴史博物館】
mong10_10z09 12:10。次はバスに便乗し『歴史博物館』に向かった。入り口の門では生まれて間もない子猫の出迎えを受けた。門柱に登ったものの、怖くて降りられないようだ。モンゴルでは猫はあまり珍重されないのだという。恐らく遊牧するにあたっては“犬”の方が人間には利用価値があったのだろう。そういえばモンゴルに来て猫というものをあまり見かけていない。OHRさんが抱きかかえて下に降ろすと、人懐っこくいつまでも我々に着いて来た。

  博物館の敷地には実物大の塹壕(木造りのトーチカ)と戦場のジオラマが造られていた。中に入って射撃口から眺めると、破壊された車の残骸などが戦場さながらに見えるようになっている。しかし、このジオラマも放置され、造られた当時の状態を維持できていない。
  見た感じがリアルな塹壕であったので陣地構築のプロ・NYMさんに「この塹壕はリアルにできていますけど、本物ですか?それとも偽物??」と尋ねると「これは全く偽物です。」と、本来の塹壕の構造を教えてくれた。それによると塹壕(木造りのトーチカ)は構造を維持する木枠とは別に、着弾した砲弾をわざと破裂させるための木組みを別に設けるので、盛り土の厚みが全く違うのだという。話を聞いて周囲を見ると、薄っぺらいただの造り物ということがよくわかった。

mong10_10z10   博物館の概観はお色直しの最中で、木組みがされており作業員がペンキを塗っていた。コンクリートでできたゴシック様式の柱にペンキを塗るのだから、どこか不自然な感じがする。しかし遠巻きに見るとスンベルの『戦勝記念博物館』と同様、パステル調で愛らしい。思うに9年前に訪れた時と比較すると、どうやらモンゴルではパステル調ブームが起きているような感じだ。屋根や家の板塀をペイントする文化が芽生えたのだろうか?無機質で寂れた街並みがカラフルな色彩に変化している。

  館内は薄暗く、展示も古びてはいたが、歴史的に価値のある内容の展示も多く、じっくり見て行けば時間がいくらあっても足りない内容だった。まず、興味を抱かせたのがハルハ河で見た『イフ・ブルハン』の写真である。30年ほど前の状況を表す写真もあり、実に興味深かった。

  その後の展示は独立運動当時の著名人の写真や、この街の名前にもなっている“チョイバルサン”の生い立ちなど、キリル文字が読めればさぞかし面白いであろう展示が続いた。時代は少し違うが、日本で言えば明治維新に関係した人物の展示といった感じだろうか?
  いずれにしても内容は推測するしかないので早々と外に出た。バスでは永井団長と浜さんが全員が戻ってくるのを待っている。

mong10_10z11   車内でじっとしているのも何なので、私は周辺を散策してみることにした。外に出ると、木々の葉のざわめきとバスのアイドリングのエンジン音以外は何も聞こえない。ここはチョイバルサンの街の西の外れだ。集落はまばらになり、その先は草原へと続いている。比較的緑も多く、日本の長閑な農村という雰囲気もあった。
  集落から少し離れた所に一軒に民家が見えた。簡素な板囲いの小屋にゲルが隣接している。遠くから家事をしている女性の姿が垣間見える。住まいは至って簡素だが、どういうわけか車はランドクルーザーである。それも比較的新しい。遊牧民らしく車にはお金をかける。モンゴル人の価値観が感じられる光景だった。


【中華レストラン】
mong10_10z12 13:20。ほどなく全員がバスに戻り、昼食を予約している中華レストランに向かった。レストランはホテルと同じ並びにあり、比較的造りの新しいビルの3階だ。お洒落な外観にたがわず、中の造りも近代的で、まだ工事が終わっていない感じでもする。3階まで歩いて上がると店の奥の個室に案内された。永井団長もホッと一安心なのか、表情に笑みが見られる。

  「なんだ、こりゃ?!」部屋の中央には中華料理店らしく丸テーブルが置かれているが、驚いたことに回らない・・・。料理が置かれても回すことができないのだ。これには全員大爆笑だ。

mong10_10z13   料理は多少モンゴル風にアレンジしてあったが、どれもおいしかった。モンゴルの地方都市にあって、十分過ぎる内容だった。注文したビールは『タイガービール』というシンガポールのビールだ。ラベルを見るといくつもの賞を取っていることがわかる。どおりで切れが良いはずだ。

  食事は一通り終わったが、飛行機の時間までまだ随分ゆとりがある。ここで誰かが冗談で「デザートは無いの?」と言った。

mong10_10z14   「それはいい、アイスクリームを注文しようよ。」ウェイターを呼んで人数分アイスクリームを注文するが、あいにくアイスクリームは無いという。無いものは仕方がないのでデザートは諦めた。しばらくするとタイシルがビニール袋を下げて戻って来る。中を見るとアイスバーが入っているではないか!我々のアイスクリームというリクエストに、近くのスーパーまで買いに行ってくれたのだ。それもさることながら中華料理店で持込みのアイスバーを食べるのも不思議な感じだ。このアイスバーだが、バニラとストロベリーの2色に分かれており、濃厚でしっとりとした味だった。こんな物、どこから仕入れるのだろう・・・。

  モンゴルを訪れて不思議に思うのは、一見すると都市の生活から全くかけ離れている草原のど真ん中や、廃墟にしか見えない街にありながらも、しっかりとした人の生活があり、流通がなされている点だ。時にそれがアンバランスな雰囲気をかもし出す。掘っ立て小屋に隣接するゲルとランドクルーザーしかり、草原のど真ん中のゲルに設置された風力発電機、太陽光発電機、パラボラアンテナしかりである。

mong10_10z15   そろそろレストランを出発する時間となった。レストランを出た3階のホールでトイレの順番待ちをする間、一部の方はタバコを吸っている。広いガラス張りの窓から溢れんばかりの光が室内に降り注いでいる。午前中に回った博物館の暗さとは対照的な明るさだ。何が見えるというわけでもないのだが、一同、窓の方向をじっと見つめて動かない。旅の最後の余韻に浸っている風にも見える。私は先ほどのアイスクリームの味を思い出しながら、皆と同様に窓から見える風景を見つめていた。

mong10_10z15b   3階から階段を降りて玄関に向かう。バスに乗り込む直前、いま一度、周囲の風景を見渡してみる。レストランの周囲にはいくつか建設途中のビルが見えた。よく見ると鉄骨などを使用しない完全なレンガ積みのビルで、現在5階部分を建造中だ。明るいベージュ色のレンガをベースに赤レンガを組み合わせ、壁面に独特の模様を描いている。この方式はチョイバルサンの街の2階建て以上のビルでは共通した模様だ。
  最後に永井団長と邦弘さんが降りて来るのを待ってバスに乗り込んだ。膝の悪い永井団長にとって階段の上り下りは大変な労働である。

mong10_10z15c   バスはこれまでに何度か通過したチョイバルサンの街中をたどって、街の外れた空港に向かった。おおよそ、23日にこの街に初めて着いた時と同じルートである。車窓から見えるチョイバルサンの街並みを眺めながら、今日まで5日間の出来事を振り返った。

  そういえば着いた日に通過した、モンゴル陸軍の駐屯地の前は、あれから一度も通っていない。正門から相当な数の装甲車が見えていたが、我々があまりに写真を撮りまくるので敬遠されたのだろうか・・・。


【チョイバルサン空港】
15:30。空港着。フライトの2時間前だがまだ係員も到着していない。空港ロビーに人の気配は無くガランとしていた。ベンチに座ってぼんやりしていると旅の疲れと先ほど飲んだビールのせいもあって、いつしかうとうとしてしまった。

16:20。ウランバートルから飛行機が到着したようだ。しばらくすると乗客が蟻の隊列のように列をなしてゲートから出てきた。それが掃けた頃、ようやくチェックインが始まった。

  小さな事務所程度の広さしかない手荷物検査場は、我々のような団体が一気に押しかけると手狭となってしまい、なかなか順番が巡って来ない。その時間を利用してトイレへ行くと、これまた便器が2つしかない男子トイレも着陸便の乗客で順番待ちが発生していた。トイレを済ませて急いで列に戻ったが、それでも十分過ぎるほど余裕があった。

mong10_10z15d   ようやく私の順番となり、アタッシュケースをX線検査装置に載せた。モンゴル国内線も2回目なので楽勝だと思っていると、思いがけなく再検査となってしまった。何一つ行きと変わらない荷物なのになぜ?怪訝に感じながらも係員の指示に従いアタッシュケースを開ける。タイシルの通訳によると、係員が「弾装のようなものが見える」と言っているらしい。“弾装”?そんな危険な物を持っているはずが無いではないか。しばらくの間、荷物を探りながら考えていると、少々思い当たるふしがあった・・・。乾電池の10本入りパック2本である。確かに!これなら弾装に見えても不思議は無い。係員に見せるとまさにそれだという。これには一同爆笑であった。サイズ、材質、個数など実弾に似ているのは確かだ。しかしそれにしても、行きのウランバートルでは問題にならなかった物が、帰りのチョイバルサンでは問題になるのだから不思議な話である。

【国内線にてウランバートルへ】
17:30。フライト。番号を確かめて座ると、残念ながら脇に窓が無い席だった。結局、フライト中は風景を一度も見ることなく、仮眠して過ごした。

  夕方の低くなった光の中を飛行する機内の雰囲気は、行きの便と全く同じだ。1時間半後、チンギスハーン国際空港に着陸態勢に入った機は、山の方角から滑走路に進入して行った。チンギスハーン国際空港は盆地の中にあるため、山岳部である南東から進入する際は、谷間を縫うようにして飛来し、滑走路へと進入する。このため、飛行機と同じ高さに見える山の斜面に、時折、馬を追う牧童の姿が見えることがある。飛行機と併走する馬の姿・・・実に面白い光景である。

【ウランバートル空港着】
mong10_10z1619:20。太陽がレーダー施設のある西側の山の陰に消えるかという頃、我々はタラップを降りてシャトルバスに乗り込んだ。出迎えの係りの女性は、行きの便でチェックインを担当してくれた日本人っぽい外見の女性だった。当然、向こうは私のことなど覚えてはいないが、出発の際に接点のあった人に出迎えしてもらえるのは、何ともうれしい話である。

  機内に預けた荷物を受け取り、ロビーのベンチで全員が集合するのを待った。その間に私はNYMさんやWTNさんらと共にトイレに行った。雑談をしながら荷物の場所まで戻ってくると、ベンチに座った永井団長とOHRさんが黒いスーツ姿の女性と話し込んでいる。どこかの知り合いの旅行会社の添乗員か何かだろうか?何やら事態は深刻そうである。

【謎の女性、抑留のミステリー】
19:30。その女性の年齢は30代後半から40代前半といった所だろうか?長い黒髪に端正な顔立ち、小柄でスラリとしたスタイルは日本人にも見える。しかし、OHRさんが通訳をしているところを見ると、どうやらモンゴル人のようだ。
  永井団長は毎年のようにモンゴルを訪れているので、通訳や添乗員などモンゴル人に顔なじみがいても不思議ではない。私の参加しなかった年の添乗員だろうか?

mong10_10z16b  しかし、その表情にはただならぬ“影”が感じられた。相当深刻な問題を話し合っているように見える。何か旅行の日程上で問題でも起こったのだろうか?
  「どうしたんですか?」と小声でOHRさんに尋ねると「いやぁ~!これはミステリー小説ですよ!」と少々興奮気味に事の経緯を聞かせてくれた。

  この女性はモンゴル人で日本語は全くできない。代わりに流暢なロシア語を話すという。「私がモンゴルに来て聞く一番流暢なロシア語です。恐らくそれなりの勉強をした人ではないでしょうか」とOHRさん。職業はわからないが、永井団長がこの時期にモンゴルに来る事を以前から知っており、数日間待っていたのだという・・・。

  「この女性は、祖父を毒殺した日本人抑留者を追いかけているんです。」

  「えぇっ毒殺?!」私は思わず口走った。全く話の流れが理解できない。それもそうだ。8年ぶりにモンゴルを旅し、スンベル村で社会から隔絶した数日間を経てウランバートルに戻った途端、いきなり「毒殺」である。

mong10_10z17   話によると、その女性が追いかけている日本人抑留者は抑留中にモンゴル人の祖母と知り合いイイ仲になった。ところが、当時、祖母は既に結婚しており(恐らく子供がいたということだろう。)男にとって祖父は大変都合の悪い存在だった。そこで、男は毒薬を使い祖父を計画的に殺害する。首尾よく夫の座に納まった男だったが、しばらくして故郷が恋しくなったのか?突然、日本に逃げ帰ってしまった。その後、男の行方は全く掴めないという。

  ところが7年前、ダンバダルジャの日本人墓地に訪れた慰霊団の中に、その男がいた・・・という情報が知人から寄せられた。そこで、この女性は方々を当たってみたが、どこからも相手にされない。
  そんな時、毎年この時期にモンゴルを訪れている永井団長が思い浮かんだ。永井団長を伝に、その日本人の行方を探すことが出来ないか?藁をもつかむ思いで、この数日間、我々を待っていたのだという。

  ところが・・・である。聞けばその日本人の名前はわからないという。「それじゃぁ探しようがないなぁ・・・」永井団長がぽつりとつぶやく。話は次第に水掛け論のようになっていくが、それでもこの女性は、我々の連絡先を教えてくれと言い、引き下がらない。

  実にミステリアスな話である。そもそもそんな話であれば警察沙汰だ。もっともモンゴルの警察もそんな話を真に受けるはずも無い・・・。もしかしたら手の込んだ嘘を使い、何か日本で仕事を見つけるために我々に近づこうとしている可能性もある。
  正直な所、60年前のモンゴルであっても、毒薬を使った殺人など、いくらなんでも目立ち過ぎる。殺人後に夫の座に収まるというのはいくらなんでも不自然な話だ。

  とはいえ、このような話を絶対に否定もできない。実際に抑留の後、現地に留まった日本人も少なからずいたと聞いている。殺人はともかく、抑留中に何らかの原因でモンゴル女性と夫婦になった日本人がいたとしても不思議ではない。また、私はモンゴル抑留というと「暁に祈る事件」の吉村隊の凄惨な話を思い出してしてしまう。毒殺という逸脱した行為が、行われたという話に対して(真偽はともかく)違和感を感じないのは、映画の見過ぎだろうか?

  空港のロビーで話しに結論が出るはずも無く、一旦、タイシルがその女性の連絡先を聞き、後日、連絡をすることで話は落ち着いた。しかし、それでも女性はしつこく食い下がり、我々の車が空港から出発するまで離れようとしない。あまりのしつこさに、我々の宿泊先に向かうバスを尾行されていないか?気が気ではなかった。「親父、本当はモンゴルに抑留されていたんじゃねぇの?!」と邦弘さんが言う。一同爆笑だったが永井団長は返事をしなかった・・・。(なお、永井団長はウクライナ方面に抑留され東京の木島氏と出会った。)

【ヌフトホテル着】
mong10_10z2020:00。空港道路を走り右に曲がって、ヌフトホテルへの1本道に入った。この道を通るのはヌフトホテルの関係者だけであるから、尾行されていないか?何度も振り返って確認したが、そのような気配は感じられなかった。門番のいるゲートを通過すればまず一安心である。mong10_10z19

  部屋は6日前と同じ116号室。トイレは不調のままだ。懐かしさに浸る間もなく、急いで預けた荷物を取りに行き、帰り支度を済ませると、既に夕食の時間である。


【夕食】
20:30。この夕食で行われる解団式で慰霊団の行事が全て終了する。同じテーブルには初めて見る女性が座った。なんとタイシルの奥さんだという。清楚な身なりは、どう見ても日本人にしか見えない・・・いや日本人よりも日本人らしいかもしれない。私はしばらくの間あっけに取られていた。奥さんの職業は検察官だという。それを聞いてNYMさんが「私はあなたのように美しい方に裁かれるなら、私はうれしいです。」とオヤジギャグを飛ばす。タイシルが律儀に通訳するが、奥さんは少し微笑んだだけで、今一つ受けなかったようだ(笑)

  奥さんがあまりにあか抜けした雰囲気だったので、私は欧米に留学の経験があるのか?聞いてみた。海外留学の経験は一切無いとの話。生粋のウランバートルっ子のようである。学生時代からの付き合いで結ばれた“さわやか夫婦”だった。

  解団にあたり永井団長から挨拶があった。その中で印象に残っているのは「お金も名誉もいりません。皆さんが現地で感じたことを後世に伝えて行ってくれたらそれで十分です。」という旨の話だ。以降、順番に一人づづ旅の感想を述べて行った。

  その中で印象に残った言葉を要約すると、

  邦弘さん;「初めて現地を訪れた時に、こんな荒れ果てた土地で70年前にオヤジが生きるか死ぬかの死闘を演じたと思うとそれだけで涙がこぼれた。」

  浜さん;「私も高齢なので今回を最後に現地慰霊の参加を最後にしたいと思います。」

  最後にスレンさんからと言うべきか、YAMATOカンパニーから皆にプレゼントが配られた。ダンバダルジャで撮影した記念写真をフォトスタンドに入れた物だ。ムルンちゃんも写っている。写真を見て誰かが言った「後ろの雲がモンゴルの形をしている!」見ると確かに背景の雲の形がモンゴル国の形になっているではないか。これは驚きを通り越して少々不気味さを感じるほどであった。

【お開き】
mong10_10z1822:15。旅の疲れもあり、翌朝は3時の起床なので早めにお開きとなった。解団式の重々しい雰囲気の中、記念撮影するでもなく全員そのまま部屋へと戻った。部屋に入り、STOさんが風呂に入っている間に荷造りを済ませる。モンゴルに持って来たが、スンベルに持ち込む荷物の重量制限で、全く着ずにウランバートルに置いて行った衣類が多かったことに気づく。次回、現地に行くことがあればその辺りも考慮しよう。シャワーを浴びて時計を見るともう12時前だ。早く寝なければ・・・。