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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

⑧スンベル村からチョイバルサンへ陸路移動

平成22年8月28日(土) 日程8日目、モンゴル第7日目

  今日も良い天気で爽快な朝だ。本日は来た道をたどり、陸路でチョイバルサンまで向かう。
mong10_09a   出発の直前、スレンさんからとあるリクエストがあった。“成田山のお坊さんから数珠を当てて欲しい”というのだ。急遽、平野さんが正装し、数珠を手にお経を唱えながら、スレンさんは元より各人の頭に数珠を当てて行く。私は日本人にもかかわらず、そういった風習を知らなかったが、なるほどそういうことか・・・文字通りの行為に妙に納得をした。モンゴルはソ連の影響があった時代、基本的に宗教は禁止だったから、元々、庶民に仏教の風習などあるはずも無い。実際、私が初めて渡蒙した平成12年頃も、そういった風潮の名残りを少なからず感じた。こんなスレンさんのこんな行動からも、モンゴルの庶民の生活様式の変化を感じることができた。

08:15。チョイバルサンから乗ってきた車に乗り込むと、ゲートの番兵が敬礼をする中、ミャグマル閣下のジープを先頭に司令部を後にする。昨日の朝と同様にスンベル村を通過し、ガソリンスタンドの前を通って台地の上にあがった。

【展望台でガンバトル司令の見送りを受ける】
mong10_09b 08:25。台地の上の展望台まで来ると車が我々を待っていた。ガンバトル司令及び司令部の関係者が見送りに来てくれていたのだ。車を降りてしばらく立ち話の後、司令の提案でモンゴル式のお別れが始まった。既に金色の杯とウオッカが準備されている。まず永井団長が代表で金色の杯を受け、付き添いの兵士からウオッカを注いでもらう。順番に一口づつ飲めば良いのだが、最後の人は全部飲み干さなければならない。最後の役は暗黙の了解で邦弘さんに決まった。私はここに来るのは3回目だが、こういった別れの儀式は初めてだ。貴重な経験である。
  モンゴル式のお別れが終わると今度は日本式でやろうという意見が出た。よしやるぞ!日本側全員で万歳三唱だ!

  何とも言えない別れの儀式だった。4日前、この場所に立ってノモンハン戦場跡を見渡したことが遠い昔のように思えた。71年前、この地で命をかけて戦い、22年間通い続けた永井団長は、今、どんな心境でいるのだろう。団長の後姿に何かしら“覚悟”のようなものを感じたのは、私一人だけではないだろう。車に戻るとカーステから何ともいえない叙情的なモンゴル歌謡が流れていた。別れの情景を題材にした歌であることは間違いない。そんな偶然もあって、心に残る別れの1シーンとなった。

mong10_09b209:14。バインチャガンに塔婆を置いてくる。昨日、宿舎に忘れていた塔婆を邦弘さんと鈴木さんが走って持って行った。車で近くまで行ってやれば良いのに・・・。





【イフブルハン】
mong10_09c   09:30。『イフブルハン』は、ハルハ河から台地にあがる斜面上に、縦220m、横90mの巨大な曼荼羅が描かれているものだ。チベット仏教の遺跡として有名でかつ、歴史的にも貴重なものだ。ソ連の影響があった時代には破壊され、モンゴル民主化まで長らく放置されていたという話だが、民主化後に、現存する石材とコンクリートを使って復元されている。9年前はペンキで色が塗られていたが、建立当初は、黒目は黒い石で口は赤い石で・・・という具合に、色とりどりの石を使って飾り立てられていたというから驚きだ。現在は人工的な感じのするペンキは剥げ落ち、建立当時の華やかさを知らない私にとっては、むしろ自然に見えた。

大きな地図で見る   9年前は、周辺には国境警備隊の駐屯地以外に何も無かったのだが、現在では駐車場とベンチに加え、説明文が書かれた立派な石碑が建てられている。スンベル村もそうだったが、9年の間に少し人の手が入ったという感じがした。





【台地の上のオボー】
09:50。『イフブルハン』の脇から台地の上へと続く道を登る。この道を走るのは初めてだ。後ろを振り返ると、真っ平らな平原を削り取って流れるハルハ河の、渓谷とも言える風景が見えた。今回、初めて見る風景である。

mong10_09f   台地の上にあがるとすぐに“オボー”があった。オボーとは信仰の対象物でもあり、草原の道標も兼ねているものだ。石を積み上げているので“ケルン”と同じと言えなくもないが、ケルンのように尖ってはおらず、円くおわんを伏せたような形状をしている。大きいものでは直径が十数mにもなるという。お参りの方法としては、付近に落ちている石を拾ってオボーに置き、願い事を唱えながら周囲を3度回れば願い事が叶うという。

大きな地図で見る 看板には赤い星のマークと共に「Xэх эндрийн Oboo」と書いてある。説明書きに1939年とあるので、ノモンハン事件と何か関係があるのだろうか?全員で周囲を3度回って、道中の安全を祈願した。


  オボーから先はひたすら何も無い大平原だった。そんな中、中国の国境側に何か煙のようなものが見えた。何か古タイヤのような物でも燃やしているような煙である。水平線の向こうに上がる真っ黒な煙・・・。バインチャガンの戦いで、日本軍に破壊された戦車が一斉に燃え上がる様が想像できる光景だった。(大阪の工業地帯のようだったという記述があるぐらいだ。)

mong10_09j10:20。平原を走る道が少し下り坂になったような気がした。そう感じてふと風景を見ると、道の先に比較的大きな村が見えるではないか。水辺に近いのだろうか?農場のように区切られた箇所もあり、そこだけ緑が生い茂っている。水源はハルハ河らしい。どうやら我々は、ハルハ河から一旦離れ、大きく迂回したハルハ河に再度合流したようだ。

  村の北側は防風・防砂林が巡らされていた。村といっても整然と住居が建ち並んでいるわけではなく、広大な土地に小さな小屋が多数点在しているだけだ。集会場のような建物や倉庫らしきものも見えるが、基本的に村人の住居はゲルのようだ。小さな小屋はトイレかもしれない。もしかしたら、ここは夏か冬のどちらかに周囲の草原から人々が集り暮らす一種のゲル・キャンプなのかもしれない?

  実際、Wikipediaで「遊牧民」というキーワードで検索すると、その生活様式は「例年気候の変動や家畜の状況にあわせながら夏営地と冬営地をある程度定まったルートで巡回している。」とある。つまり、遊牧民というのは完全にフリーで勝手気ままに暮らすのではなく、家族・一族・部族単位で、夏の草原、冬の草原と、ある一定の決まった地域を移動しているようだ。

大きな地図で見る   GoogleEarthでモンゴルの草原を詳しく見ると、黒っぽい丸い模様が同じ場所にいくつも集中しているのが確認できる。それは夜の間に家畜を入れる囲いの跡だ。ある一定の期間、同じ場所で家畜を囲うと、その場所が丸い模様となり、衛星写真でも確認できるというわけだ。遊牧民がただ方々を放浪して回るのであれば、丸い模様の集中は決して起こらない。同じ家族が、翌年もその付近を繰り返し使うから模様の集中が起こるのだ。
mong10_09k   遊牧の民と言っても、飲料水の問題もあるから、人の住める場所もおのずと限られてくるのだろう。今後、こういった遊牧民の生活も調査してみたいと思った。

  そのモンゴルの草原だが、場所によって様々な表情がある。地形的な面はもちろん、平坦な草原でも生えている草の種類や枯れ具合など、一つとして同じ場所はない。

mong10_09l   時に、どう見てもゴルフ場のグリーンのような、極端に丈の短い草原に出くわすことがある。村を過ぎると完全にゴルフ場のグリーンの様な草原が延々と続いていた。面白いことに、そんな単調な草原の所々に葦のような草が密集して生えている。まるで稲や麦が一部だけ刈り忘れられたかのような・・・稲の苗床を草原に置き忘れたかのような感じだった。

mong10_09m   そんな不思議な風景の中に、一定の距離をおいて新品の電柱が横たえてあった。どうやら中国から電線を引く計画のようだ。この付近は中国の国境に近いため、モンゴルの都市部から電気を引くよりも安上がりなのだという。スンベルでも国境線に近づくほど携帯電話の入りが良くなるという。“田原山を望む位置”の慰霊で見た、中国側の開発された風景が思い出された。こういった風景を見るにつけ、 いかにこの一帯が、モンゴルの中央から置き去りにされている・・・かを感じずにはいられない。

【ボイル湖】
mong10_09n11:05。「海だ!」突然、右手に砂浜と波打ち際が見えた。とはいえ、モンゴルに海があるはずも無い・・・。『ボイル湖』である。ボイル湖は縦38km幅20kmの大きさの淡水湖だ。湖の形は“みじんこ”に似ており、丁度、“琵琶湖”を上から2/3の部分で切り、幅を持たせたような感じでもある。
  この一帯に広がる高原を総称して“ホロンバイル高原”というのだが、この“ホロンバイル”という呼び名はこの高原にある2つの大きな湖、“フルン湖”と、この“ボイル湖”の呼び名を合わせたところに由来する。

  ノモンハン事件当時、この『ボイル湖』の上空で度々大規模な空中戦が行われた。当然、私の大叔父も『ボイル湖』上空での空中戦に参加している。この付近の平原は前述の通り、ゴルフ場のグリーンのような場所が多いので、不時着した際には僚機が救助に着陸することも容易だったという。中には上官の救助に降りたものの、ソ蒙軍の返り討ちに遭い、2重遭難の様相となったが、それらを更に僚友が助けるという不思議なハプニングも起きている。そのハプニングの立役者、岩瀬孝一氏(当時、曹長)は大叔父と同期である。
  岩瀬氏が2名助け、大叔父は1名。にもかかわらず、大叔父は2階級特進で少尉、岩瀬氏は1階級特進で准尉となった。岩瀬氏はよく大叔父に向かって「お前が1名助けて2階級特進なら、俺は4階級特進だな!」と冗談を言っていたそうだ。命がけで2名も助けてこの差は何だろう?それは大叔父が松村黄次郎中佐という戦隊長を助けたからに他ならない。

  実はこの松村氏、創成期の日本陸軍航空隊の歴史を記した書籍を読むと、時折、登場する大物である。どうやら海軍の源田、陸軍の松村として有名な時代があったようだ。私の知る主なエピソードは「ゼロ戦20番勝負」(PHP文庫)の“空の王者は零戦か隼か”の項による。
  昭和10年4月、陸軍と海軍の航空隊同士による初の腕比べ大会が行われた。その1ヶ月前、海軍の横須賀飛行場に、突如、飛来した陸軍の91式戦闘機・・・挑戦状を持って現れたのが松村氏(当時、大尉)だったという。まぁ挑戦状というのはオーバーな表現かもしれないが、かくて松村大尉の提案により陸軍明野飛行学校で初の陸海軍の模擬空中戦が催されたという。(翌、昭和11年にも行われる。)

  大叔父の家に泊まった際、私が「松村さんってどんな人だったんですか?」と聞くと、大叔父は「とても厳しい人だったよ。見た感じは当時流行った漫画の“フクちゃん”に似てたな・・・」と答えた。厳しくて顔がフクちゃん・・・全く想像がつかない。松村氏は、戦後、大叔父の家に何度か泊まりに来ている。氏は、不時着の際の大火傷の後遺症で足が不自由だったため1階で寝てもらったそうだ。
  一方、岩瀬氏が救助した人も凄い。陸軍の撃墜王;篠原弘道(当時、准尉)である。総撃墜数は58機。陸軍側の記録ではトップエースである。

  ボイル湖周辺から南渡し付近までは約90km程離れてはいるが、大叔父が松村中佐を救出した際も、ハルハ河西岸は着陸に適した地形だったという。「もっとハルハ河よりも手前(西岸)で着陸してくれていたら、平坦な所ばかりで救助はもっと簡単だったんだけどね。でも、多分そうしていたら、私も松村中佐も、後の太平洋戦争で死んでいただろうな・・・」と語っていた。
  平成12年、13年は飛行機でスンベルまで移動したので、途中で図らずも空から『ボイル湖』を見ることができた。大叔父が戦いの最中に見たであろう風景を、同じ空という位置から見ることができたのは、空中勤務者を親戚に持つ身としては実にラッキーだったと言える。

  さて、来た道を通らず、わざわざ別のルートを使ったのは、この『ボイル湖』を観光をするためだ。海のような湖面を右手に見ながら、景色を眺めるのに適当な場所を探して走り続けた。ミャグマル閣下のジープは何も気にもせず、砂浜のような場所を突き進んで行く。まるで海水浴シーズンの鳥取砂丘か九十九里浜のような風景だ。閣下のジープを追うように我々の乗ったバンが続く。

【車が立ち往生・・・】
mong10_09p   前方の砂浜にブルガンが運転する1号車が止まっているのが見えた。適当な場所が見つかったのか?いや、それは間違いだった。砂にタイヤを取られてスタックしていたのだ。それに気がついた直後、我々2号車もスタックしてしまう。実は、ここで初めてわかったのだが、我々の乗っているバンは4WDではなくFFだった。この砂地であればスタックするのは当然である。エンジンはメルセデスだが車体は韓国製だという。永井団長が慰霊の移動用に購入し、普段は「YAMATOカンパニー」が管理をしている。

mong10_09q   私が車から降りると1号車には既にワイヤーが架けられジープで牽引する準備が出来ていた。ジープはアクセルを目一杯踏み込むがバンはびくともしない。牽引ワイヤーは今にもちぎれそうに見える。こういう時に近くにいるのは危険だ。切れてはじけたワイヤーが足元めがけて飛んでくることが良くあるからだ。牽引しながら全員で車体を押したが、それでもびくともしない。
  そのうち「バックしたらどうだ」という声が聞こえた。私も雪道で良くやるのだが、FFの車はバックで走ることによりRRのレイアウトとなり、駆動輪に大きなトラクションが掛かる。「皆で押すからバックしろ!」と言うが、1号車のブルガンは頑として同意しない。何が何でも前に進んで抜け出そうとして更に状況を悪くしている。そんなやり取りが延々と続いているうちに、2号車のジャガーはさっさとバックで運転して安全地帯まで戻ってしまった。それでもブルガンはバックで運転しようとしない。バックで運転するのが苦手だと言っている。どうせ周囲には何も無いのだから、気にすることは無いのに・・・頑固なやつだ。私はうんざりして「邦さんが交代して運転したら」と言った。そのうち根負けしたブルガンがギヤをバックに入れる。すると、いとも簡単に砂地から抜け出すことができた。私は靴が脱げそうであまり押すことが出来なかったが、邦弘さん以下、全員がありったけの力で車を押した・・・。「ブルガンよ!全員の汗を返せ!」と言いたい(笑)

【湖畔で昼食】
mong10_09r 11:35。意外な場所で時間を食ってしまった。ついでなのでそのまま昼食ということになった。こんな調子で予定通り夕方にはチョイバルサンに戻れるのだろうか?

  それはさておき、ここは白い砂浜が広がる最高の場所だ。天気も良い!こんな海水浴場のような場所でのランチは最高である。まぁ怪我の功名とでも言うべきだろうか。車をコの字に並べて停めると、昼食が配られた。メニューはいつものスレン・スペシャル(今回はピロシキ)と韓国カップラーメンだ。

mong10_09s   湖の岸辺に馬の大群が見えた。そして対岸に目を移すとなんと!蜃気楼が見えているではないか!本格的な蜃気楼を見るのは人生初の経験である。少し前までは対岸に何も見えていなかったのに、陸地と赤い屋根の建物、そして並木だろうか・・・それらが縦に伸びて変形した形で見えている。富山湾では蜃気楼が良く見えるというが、ちょうどボイル湖の大きさは富山湾と同じぐらいの規模である。まさかまさかの経験である。蜃気楼は10分程で消えた。粘ってくれたブルガンに感謝しなければならない・・・。

mong10_09u   全員のカップラーメンにお湯が注がれた頃、ブルガン達モンゴル人がトランクの中から何やらダンボールの箱を出してきた。ゴミ箱にするのにちょうど良い箱である。ところがそれはゴミ箱ではなくお弁当箱、つまり中身は彼らの昼食・・・牛肉の塩煮であった。まぁ国が変われば何とやら・・・牛肉の塊がそのままダンボール箱に入れてある。その牛肉の塊を手づかみし、ナイフを使いながら見事に食べて行くのだ。見るからに汚らしいというか、グロテスクである。珍しそうに見ているとジャガーが肉の塊を勧めてきた。断る手は無い。この手の料理の旨さを私は知っているからである。やはり思っていた通りだ。肉の繊維がほぐれるようにやわらかく、旨い。また日本で食する牛肉よりも味が濃いように感じた。恐らく日本でモンゴル料理を食べたとしても、素材がモンゴル産でなければ本当のモンゴル料理の味にならないだろう。「アムツ・タイ」(美味い!)というと、もう一塊勧めて来たが、さすがにお腹一杯なので丁重に断った。

  あぁ・・・もしも機会があれば、ローバー110のような車で現地のゲルを巡りながら、日中は馬で周囲を散策、昼食はホルホッグ、夕食は馬乳酒に自家製アルヒ。ホーミーと馬頭琴の音色を聞きながらアカペラで合唱する・・・多少、下痢をしても構わない、時間をかけてじっくりとモンゴルを旅して回りたいものだ。
  ちなみに、そのダンボール箱はちょうど良いゴミ箱となったことは言うまでもない。

mong10_09v 12:25。昼食を終え出発。しばらく走ると道沿いに多数の援体壕が見られるようになった。草原に整然と並ぶ援体壕はざっと見ても数百はある。帰国後にGoogleEarthで確認したところ、映像の関係で一部しか確認できなかったものの、確認できる範囲だけでもその数約500。これほどまでに数が多いと、これらは本当に援体壕なのか?と疑いたくなってくる。もしかすると、これは住民の墓ではないか?とさえ思える。しかし、墓なら他の地域でも同じものが見られるはずだ。
  実際、このボイル湖付近からタムスクまでの70kmの間に、防衛ラインとも言える塹壕跡が延々と続いている。援体壕であろう穴の数も半端ではない。タムスクの巨大要塞はノモンハン事件の後には破棄されたと聞く。やはりノモンハン事件の際の遺構なのだろうか?それとも中ソ国境紛争に関連する何かだろうか?謎は尽きない。

【今日もお決まりの・・・】
mong10_09w 12:30。突然、車が止まった。なんと、先頭を行く閣下のジープがパンクしている。さすがに今日は古びたプルゴンは1台もないので、車両に関するトラブルは無いと思っていたが、意外や以外・・・・である。しかしドライバーの兵士があっさりとタイヤ交換をしてしまう。モンゴルの運転免許の取得条件がパンク時のタイヤ交換だというぐらいだから、日常的に慣れているのだろう。周囲を散策する間もなく出発である。
ちなみに閣下の乗るジープはUAZ-469・・・つまりプルゴンである。

mong10_09x   タイヤ交換の最中に、ボイル湖に水を汲みに行くラクダの馬車(駱駝車と言うべきなのか?)が近くを通った。ここまでの途中で、池の跡の湿地にラクダの大群が見えたこともあり、比較的、この一帯ではラクダを生活に活用していることが伺えた。

【メネン油田付近】
mong10_09y 13:50。休憩。水平線にメネン油田の油井やぐらが見える。行きに居眠りで見損なった場所だ。邦弘さんの話では、やぐらの数は、それはもう凄い数だということだったが、見た感じそうでもない。NYMさんによると、やはり油井の数はぐっと減っているとのことだ。油井のやぐらは少ないが、掘り起こした跡のような巨大な台形の盛り土はいたる所で確認できた。

  この付近の草原は緑色が少ない。茶色っぽく枯れた色をしており、既に秋の装いだ。つい先ほどまで草原は、ゴルフ場のグリーンの芝生のような、丈の短い草が密集していたが、この付近の草の丈は40~50cm程で、適当な間隔を維持して生えている。どうやら草と草の間にはお互い個体としての主張する間隔があるようだ。その間隔のためか、草原には水平線に平行な線が連続して見られ、まるで草の“さざなみ”が押し寄せて来るかのように見えた。

【メネン基地に到着】
14:55。軽食を頂く。来た時と同じくゲートの外にある食堂で、羊の肉入りうどんをご馳走になる。自分でも少し食べ過ぎではないかと思う。

  テーブルの上に出された食べ物の中に少し不思議なものがあった。見た感じは“薄焼き玉子”だ。薄っぺらで黄色く、気泡の跡がある。口に入れると食感は溶ける油のような感じで、ほのかにヒノキのような香りがする。聞くと“ウルム”といって、乳を鍋入れて火にかけ、上にできるたんぱく質の膜を集めたものだという。こんな食べ物もあるのだと感心していると、ミャグマル閣下がモンゴル陸軍式食べ方を教えてくれた。
  パンにウルムとバターを乗せ、砂糖をドバッ振りかけてサンドイッチにする。かなり豪快な食べ方だ。私が遠慮がちにバターを少し塗って砂糖を振りかけていると、閣下は「違う!」と言わんばかりにナイフでバターを削って私のパンにドンと乗せた。このバターの量は日本人の食生活ではありえない量だ。参った・・・と心の中で思いながらも、砂糖を思いっきり振りかけて口の中に押し込んだ。(味は良好。ちなみにヒノキの様な香りは何か入れてあったのかもしれない。)

15:30。メネン基地を出発。

mong10_09z01   草原は我々が進む度に、その表情を変化させて行く。しばらく進むと、緑色が強くなり、その中に茶色をした小さなススキの穂のようなのが混じるようになってきた。場所によっては緑の草と茶色の草が半々で混在していたり、草と草の間が離れて地面が露出していたり、時には稲穂や麦の穂にそっくりな草が一面を覆っていたり・・・。草原の種類はこんなにも多いのかと改めて思う。日本の感覚では想像ができないほど、多種多様な草原の風景が続く。それだけこの草原が広いということだろう。

mong10_09z04 17:00。休憩。草原の写真に自分の影が入るようになってきた。チョイバルサンまであと120km程だ。これまで草原のいたるところで見えていた“わた雲”は消えてなくなり、mong10_09z05空の高い所一面に、“すじ雲”が見える。ここまで来ると草原に少し起伏が出始め、なだらかな丘に囲まれたような地形となってくる。水平線を双眼鏡で一生懸命のぞいていると、成田山の鈴木さんが「狼でも見えますか?」と冗談を言ってきた。いや・・・いても不思議ではない風景だ。本当に何か動物がいないか探して見た。

  次第に草原の緑の色が濃くなって行く。植生が変わりチョイバルサンに近づいていることが肌で感じられる。

mong10_09z06   超大型トレーラーがとすれ違う。日本では滅多に見ることがないような巨大なトレーラーが材木を満載して驀進してくる。すれ違いの際は砂埃もあって凄い迫力だ。





mong10_09z08 19:10丘の上の岩が点在する珍しい風景の場所を通過する。道の脇に廃屋の跡のようなものが見える。こんな孤立無縁の場所に何があったのだろう?
  だんだんと風が強くなってきた。嵐が来る予報になっているという。強風で車があおられているのがわかる。
  1号車が巻き上げる砂埃だけでなく、強風で砂塵が舞い上がっているのがわかる。時折、草の塊が強風に流されていく。西部劇でも時々見かけるようなやつだ。太陽が傾いてきたことに加え、急に雲が増えたので薄暗くなってきた。

【竜巻?】
mong10_09z0919:20。草原の向こうに低い雨雲が見えた。しかし、我々の方に雨が来る気配は無い。その時、私は宙に浮かぶ不思議なものを発見した・・・。“竜”である。雨雲と地上の間に紛れもなく“竜”の形をした“ちぎれ雲”が見えたのだ。その竜の形をした雲は、雨雲と地上の間を30分以上に渡って形を変えながら漂い続け、消えることはなかった。付近に激しい気流の動きがあったと考えて良い。その“ちぎれ雲”が上空の雨雲と合体し、更に地上に降り立った時、それは“竜巻”となるのだろう。恐らく私が見たのは"竜巻"の語源とも言うべき気象現象だったのではないかと思う。

  あと少しで日没という時、水平線の先にチョイバルサンの火力発電所の煙突が見えた。ある意味、本物の灯台と同じだ。煙突の方向に向かって走れば、あと少しで到着である。横殴りの風で砂塵が舞う中、ヘッドライトの灯りを頼りに2台の車は草原を進んだ。

【山賊?!】
  ヘルレン川に架かる橋を渡ればチョイバルサンの街だ。その時、橋の手前に人だかりが見えた。いったい何だろうと見ていると、橋にゲートが降りている。検問だろうか?吹きすさぶ砂塵の中、ヘッドライトに照らし出されたその人々は、皆にタオルなどを顔に巻いており、まるでアラブのゲリラのように見えて異様だった。それに酒臭い・・・。どう冷静に考えても公的な検問には見えない。そうしているとタイシルが素早く財布を出してお金を払った。まるで浮浪者か“たかり”にお金を布施しているようにも見える。浮浪者が生活費を工面するために橋を封鎖して通行料を巻き上げているのだと思った。しかし、帰国後に調べていると、モンゴルでは街に入る手前でこのような検問所があり、お金を払うのだという。そういえば平成12、13年、テレルジに行った時も途中に検問所があった。その時は気が付かなかったのだが、料金を払っていたのかもしれない。
  しかし、それにしてもあの“身なり、いでたち”では山賊に見えるのも無理からぬことだ。悪いが、通行料の半分は着服、彼らの懐に入っているとしか思えない。単独で旅行していたら、きっと逃げていただろう。

【ホテル到着】
19:30。やっとホテルに到着。さすがに今日は疲れた。部屋は今回もSTOさんと同じで、別棟の106号室だ。別棟に向かう廊下は真っ暗で、まるで戦前の工場のように見える。アタッシュケースを転がしながら、今日は特に荷物が重く感じられた。階段を上がり部屋に入ろうと鍵を回す・・・しかし、どういうわけか上手く開かない。困り果てている我々見かねて、通りがかりの女性従業員が開けてくれた。それも、いとも簡単に・・・。

【鍵の構造】
mong10_09z13  その説明によると・・・日本の感覚では全く理解し難いことなのだが・・・モンゴル式?の鍵は、1回まわすと1段飛び出し、もう一回まわすと更にもう1段飛び出し、合計で2段飛び出すのだ。つまり鍵は2回まわす、2段モーションになっているのだ。2段モーション??当然、今読まれているほとんどの日本人の方には理解できない話だろう。つまり何のために?何のためだろう??答えは私が知りたい。

mong10_09z14  この2段モーション式鍵で思い当たるのが、スンベルの国境警備隊のトイレの鍵である。到着の日、初めて使って閉じ込められたのは、この鍵の特徴のせいだったのだ。そんな鍵の特性も知らず、よく開けることが出来た思う。

【ホテルの部屋】
  部屋の中に入ると、レイアウトは行きに泊まった部屋とは異なっていた。各部の造りは相変わらず粗雑だ。・・・しかし、行きと同様、こじんまりとして妙に落ち着く部屋だ。レイアウトがベッドルームと居間の2部屋に分かれている点も面白い。

  TVをつけると映し出された風景が何やら懐かしい。モンゴルにも日本に似た風景があるのか?と関心していると、どうやら日本を取材した映像のようだ。言葉はわからないが、モンゴル人力士の白鵬の名を冠したお米を生産している農家への取材だった。
  帰国後に調べたところによると、白鵬関が観光大使を務める、北海道滝川市の、モンゴルで稲作の普及を目指した「白鵬米プロジェクト」の取材だったようだ。

mong10_09z11   さて、モンゴルのホテルでは、部屋の備品として電気ポットと共に魔法瓶が置いてあることが多い。その魔法瓶が実に面白い。内側がガラスで出来ている、いわゆる昔ながらのタイプで、蓋はコルク栓を押し込むだけになっている。さしずめ日本なら、熱湯を入れた際の安全面の問題で販売禁止であろう。蓋が紛失しやすいのか?ほとんどのポットは同じ直径のガラスのコップ(ぐい飲みに使うようなもの)が差し込まれている。(写真のように元々のコルクの栓の物の方が珍しい。)
  大抵の魔法瓶は外周りがガタガタにへこんでいて、年季を感じるものばかりだった。何でも簡単に買い換えたりせず、工夫して使うのだろう。そういったところが実にモンゴルらしいと思った。

mong10_09z12   シャワーを浴びてこの数日間の汚れを落とす。ほっと一息の瞬間だ。現地では、一度ハルハ河で頭を洗えたことや、電動シェーバーを持って行ったお陰で、ヒゲも伸びっぱなしにならず、思った以上に快適に過ごせたように思う。

  夕食の時間となったので食堂に向かう。メニューは5日前と全く同じ。ビールは相変わらず旨かったが、疲れもあり宴会もそこそこに就寝した。