ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
2. モンゴル・ノモンハン旅行記
⑦安達大隊、バインチャガン~744高地、754松山陣地
平成22年8月27日(金) 日程7日目、モンゴル6日目、現地第3日目
本日も快晴だ。風邪の調子は相変わらずだったが、これからひどくなる気配もなかった。喉の痛みや体のだるささえ辛抱すれば何とか残りの日程も消化できそうだ。何といっても今日が現地最終日である。
07:15。司令部のゲートを出る。本日は午前中はバインチャガン方面に行くので、スンベル村を通過して戦勝記念塔の横を通り、台地の上に上がる。途中、村の様子を観察すると、9年前にもあったレンガ作りの4、5階建ての建物がまだ残っていた。この村で一番大きな建物だったはずだ。側面の壁は崩壊し、建物の中が丸見えとなっている。各階の床は既に存在せず、からっぽの建物はまるで旅客機の格納庫のようだ。今にも全壊しそうな気配が漂っている。
そこを過ぎると驚いたことにガソリンスタンドがあった。ガソリンスタンドと言っても日本のように店員がいたり、セルフ給油だったりするわけではない。周囲はがっちりと柵が巡らされ、まるで石油貯蔵施設のような雰囲気だった。
台地の上に上がるとバインチャガンまで延々と真っ平らな平原が続いている。このまま西に200km以上走っても同じように何も無い草原が広がっているのだからモンゴルは広大だ。
【モンゴル兵士戦没記念塔】
07:50。以前から道沿いに記念塔があることは知っていたが、今回、初めて立ち寄ることができた。モンゴル兵士の戦没記念塔だという。ここもノモンハン事件70周年の関係だろうか?白色に塗り直され、正面に金色のプレートが施されていた。
(→9年前の様子)
雲ひとつ無い青空に真っ白な塔が凛と建ち、施された金色のプレートが午前中の日の光を浴びて眩しく輝いて見える。青空に純白の組み合わせは雪山と同じだ。黒錆色で重々しい『戦勝記念塔』とは対照的だ。慰霊回向の後、皆で記念写真を取った。白い慰霊塔の根元にたむけたバラの造花の赤色が一際、鮮やかに見えた。
起伏の無い平原の1本道を2台の車が土煙を上げながら走った。ハルハ河東岸の道に比べると起伏が少ないので、距離の割りに簡単に行くことができる。村からバインチャガンまでは1時間半ぐらいだろうか。平成13年には、私の乗ったトラックがGPS上で時速105kmを記録したことがあったが、その時は1時間でバインチャガンに着いた。
このようにバインチャガン・ハイウェーとでも呼べる道だが、雨で地面がぬかるむと事態は一転する。9年ぶりに走るこの道は、雨の悪路に負けず劣らず荒れていた。ぬかるんではいなかったが、とても時速105kmで走れる状態ではない。ぬかるみを避けた道は至る所で大きく湾曲していた。運転するジャガーは右に左にハンドルを切り、大忙しだ。乗っている我々もリズム取りが難しく、変な力を使って疲れる。
【安達大隊陣地跡】
08:30。『バインチャガン』の慰霊場所を通り過ぎると、その先の『安達大隊陣地跡』がある。到着してすぐ9年前の場所と違うことに気がついた。随分と『バインチャガン』に近づいている。
ノモンハン事件当時、渡河に成功した日本軍には時間が無く、強固な陣地を構築したわけではなかった。にもかかわらず、以前の慰霊場所付近は巨大な鉄製のタンク(給水用?)が埋められているなど、相当強固な造りとなってる。実際、この一帯をGoogleEarthで観察すると、総延長5km程もある巨大な陣地跡を確認することができる。塹壕の跡はどれも深く明確で、ハルハ河の方向を向いている。
この付近に日本軍が布陣したことには間違いないが、現在の塹壕跡はソ蒙軍が再構築した可能性が高い。そのために慰霊場所も移動したのだろうか?慰霊柱は無く、色あせた塔婆が数本残っているだけだった。
慰霊場所のすぐ脇の塹壕に小さな棺が放置されていた。聞くところによると昨年からその場所に置いてあるという。中には子供用の衣類や生活道具のみ納められていた。どうやら子供が亡くなったため、その子が使っていた日用品を棺に入れ埋葬したもののようだ。モンゴルの地方部ではそのような風習が見られるのだという。NYMさんが、昨年、珍しさに駆られてビデオ撮影してしまったらしいが、帰国後、気味が悪くなって消してしまったそうだ・・・。私も同じ事をしていたら消していただろう。しかし、戦場跡で散々遺骨や遺品を撮影しながらも、最近の埋葬品が不気味に感じられるのだから不思議なものである。
【バインチャガンにて結願法要】
08:50。道を隔てて東へ300mほど移動すると、すぐに『バインチャガン』の慰霊場所だ。現地での予定場所の慰霊となるので結願法要を行う。
朝から雲一つ見ることはなく、慰霊行事の最後を締めくくるにふさわしい空だ。平野さん、鈴木さん共に袈裟をまとって正装している。やがて読経をあげるお二方の声が、2日前の開白法要の時と同じく、モンゴルの抜けるような青空に広がっていく。心なしか、永井団長の手を合わせる時間が長いように感じられた。名残を惜しむかのようにも見える。
25日の『コブ山』からスタートしてこの『バインチャガン』で一通りの慰霊行事が終わった。後は無事に日本に帰るだけだ。結願法要が終わると全員の表情に安堵感がひろがった。
南を向くと、真っ平らな草原にポツンと『ヤコブレフ戦車隊記念塔』が見えている。距離にして800m。『ヤコブレフ戦車隊記念塔』の周囲は植樹されているので、逆光に浮き上がったそのシルエットは、まさに海に浮かぶ軍艦だ。それ以外に目立った目標物は無く、延々と水平線が続いている。
北東方向に目をやると、台地の下に幅3kmはあろうかという河川敷が広がり、その中を蛇のようにハルハ河が蛇行している。岸辺は全て茂みに覆われており、水面は所々にしか見えない。対岸の台地斜面をよく見ると、昨日、我々が通った道が肉眼でも確認できた。道をたどると、永井団長が説明をしてくれた場所よくわかる。我々は今日、昨日の日満側とは逆の立場で、ソ蒙側から風景を見ていることになる。
真北には9km程先に『イフブルハン』がある。『イフブルハン』は、ハルハ河からの台地斜面上に、縦220m、横90mの巨大な曼荼羅が描かれているもので、歴史的建造物として有名なものだ。
その『イフブルハン』の見える方向の、我々から200mほど離れた草原の中に何やら不思議な物体が見える。高さはそう、1.5mぐらいであろうか・・・。ローマ字のXを3つ重ねた形をしており、銀色に輝いている。実はこれ、“柵”を表現しているのだという。「この場所で日本軍を食い止めた!」という印(メッセージ)のモニュメントだそうだ。
以前は『バインチャガン』と『安達大隊陣地跡』の間は700mほどの距離があった。私は初めてこの場所を訪れた時、散策がてら、草原を邦弘さんと一緒に歩いたことがあった。その時、不覚にも朝露に濡れた草原で靴をずぶ濡れにしてしまい、2日間、湿った冷たい靴で過ごさねばならなかった。モンゴルを含めた外国では、日本のように靴を脱いで畳の上にあがるような習慣がないので、靴が乾くまでの間、非常に不快な思いをしなければならない。その時の教訓から、その後、海外旅行の際には必ず予備の靴をもって行くようにしている。
『コブ山』での合同慰霊祭(開白法要)が、もう何週間も前の出来事のように思えた。全員が同じ気持ちだろう。各慰霊場所を慌しく巡り続けたからに他ならないが、人間は強烈な経験をすると人生観が一変し、以前の自分とは違う別の自分に生まれ変わったように感じると言う。71年前の激戦の地、それも国境付近の緊迫したエリアを巡るという非日常的な行為が、そう感じさせるのだろう。10年前、初めてこの地を訪れた時、まさに私の人生観は大きく変わったのだった。
【ヤコブレフ戦車隊記念塔】
09:50。ここはバインチャガンで戦った『第11戦車旅団ヤコブレフ戦車隊』を記念して建てられた記念碑だ。なぜかこれまで時間がなく、今まで一度もゆっくりと見学したことが無い。今回も慌しかった。案外、永井団長はこの場所が嫌いなのかもしれない・・・。
記念碑の周囲には木が植えられており、モンゴルの強烈な直射日光を和らげている。遠巻きには海に浮かぶ軍艦のようだが、近くで見ると砂漠のオアシスのようでもある。この場所で目を引くのはBT5型戦車のオブジェだろう。この付近に放棄されていたBT5型戦車を、当時戦った戦車兵の手でコンクリート製の土台の上に載せたものである。『ノモンハン戦車戦』(マクシム・コロミーエツ著)の1939年10月の写真を見ると、台座と戦車以外に周囲には全く何も無いことがわかる。
戦車はハルハ河の対岸、日本軍が攻めてきた方角を向いている。私の想像だが日本軍の渡河点に向けられているのではないだろうか?実は私が“もしや?”と思っている日本軍の渡河点にピタリと方向が一致するのだ。そして、戦車のオブジェから30mほど脇に、高さ15m程のコンクリート製の柱が2本建っている。正確には長方形の長細いコンクリートの板だ。板の方向はやはり日本軍の攻めて来たであろう方向に向けられており、対岸(フイ高地側)から見ると2本の細い柱が立っているようにも見える。これらを遠くから見ると、まるで草原という海に浮かぶ戦艦のように見えるのだった。
皆、慌しく車に乗り込む。今回も、最後まで粘って写真を撮っていたのは私だけであった。
【遊牧民のゲル】
草原の道をスンベル村方向に走っていると、馬を追う2人の子供達の姿が見えた。兄妹だろうか?確かに9年前もこの付近には遊牧民のゲルがあった。同じ家族かどうかはわからない。二人は巧みに馬を操り、牛を追って行った。その馬を駆る姿がどことなくかっこ良く見えた。
【ハマルダバ、ジューコフ指揮所跡】
10:35。ハマルダバの丘にある『ジューコフ指揮所』に到着。2回目の渡蒙の際には来なかったので10年ぶりだ。真新しいオブジェが日の光に輝いて見える。『ジューコフ指揮所』付近は、この一帯で一番標高が高いので、これまでと違い高原にいるかのようだ。南斜面で温められた空気が草原を渡る風となり、心地良い。
当時の日本軍は、ソ蒙軍の総指揮所が、このような主戦場に近い場所にあることを、よもや想像していなかったという。ソ蒙軍は8月の大攻勢に備えるため、1ヶ月間をかけてこの台地の裏手に日本軍から見えないよう、巧みに重砲陣地や戦車隊を隠蔽していた。
以前、私はスンベル空港(と言っても、草原の滑走路である)に着陸する機内から、その膨大な数の援体壕群を見ることができた。それはもう背筋がゾッとするほどの圧倒的な数だった。『ジューコフ指揮所』の付近にも援体壕は数多く見られるが、空から見たその援体壕の数は、指揮所付近の比ではない。それからというもの、このハマルダバの丘の裏手エリアは私の気になっている場所のひとつだ。空路が無くなった今となっては非常に貴重な経験である。
10年前は『ジューコフ指揮所』の南手にあるスンベルオボーまで走って行き、丘の先の展望を確認したが、何も発見することはできなかった。そこで今回は指揮所から西方向へ徹底的に行ける所まで行ってみることにした。
皆が『ジューコフ指揮所』の塹壕跡に注意を注いでいる間に有刺鉄線に注意しながら丘の西の端まで走って行った。しかし、残念ながら空から見たお目当ての場所が見えることはなかった。恐らく私が上空から見た場所は、もう一つ丘向こうのようだ・・・。それでも行った先では、指揮所付近からは見えない重砲の砲座と思われる巨大な壕の跡を確認することができた。十分な成果である。
この付近はハルハ河を渡る必要がないので、今後、個人的に調査に来ることも可能だ。希望は捨てずに置いておこう。なお、塹壕などの確認はGoogleEarthの得意とするところであるが、残念ながらこの一帯映像は細密ではなく、塹壕・援体壕などの確認は難しい。GoogleEarthの今後のサービス向上が期待される。
後ろを振り返ると、皆が車に乗り始めている。慌てて車の方に走り出したが、この付近にはソ連製の有刺鉄線が多数残っているので気を付けなければならない。有刺鉄線は枯れた草の枝のような色をしているので見分けがつき難い。最終日に怪我をするのも馬鹿らしいので慎重に走った。自分にも学習能力があるということだろう。なお、ソ連製の有刺鉄線は1本の太い針金でつくられているが、日本軍の物は2本の針金を捩って作られているのが違いだ。
来た道を逆にたどりながらスンベル村の方に向かう。車の窓から風景を眺めると、改めてこの一帯に援体壕が集中していることがわかる。ハマルダバの丘は標高が800m程あり、この一帯で一番高い。これが地形的に有利に働いたことは事実だろう。
しかし、現地の特徴は際立った標高だけではない。谷が非常に多いのだ。地図を見ると、谷は大きなもので5ヶ所、細かい谷を含めれば10ヶ所以上になる。残念ながら全ての谷を確認出来たわけではないが、日本軍から見て陰になる部分に所狭しと援体壕が掘られている。
谷を上手く利用することで、大軍団を日本軍から隠蔽することが可能になったわけだ。その、援体壕の配置には一種の法則性が感じられ、日本側から実際に見て確認していたのでは?と思えるほど巧みであった。
実際、スンベル村から戦場跡一帯を行動している最中、このハマルダバの丘付近に援体壕があることなど、気配すら感じられない。ジューコフ指揮所跡に近づき、ある丘を越えた途端、視界にはありとあらゆる丘の斜面に掘られた援体壕が飛び込んでくる。当時は戦車を入れ上から偽装網を被せていたので上空からもわからなかったという。(航空部隊と地上部隊との連携という点では、航空機が地上の様子を偵察することは無かったようである。ただし、空中勤務者の個人的報告として地上部隊の動向が報告された場合はあるようだ。)
村に戻る途中、柵に囲まれた場所があったので何の慰霊碑か尋ねてみると村の墓地だという。墓標が十字架のようにも見えたので、ノモンハン事件の関係かと思ったがそうではなかった。
【ハルハ河戦争・戦勝記念塔】
11:00。ハルハ河戦争・戦勝記念塔に着いた。小さな橋を渡ると駐車場がある。しかし、我々はその先のゲートまで車で乗り込み、そのまま車を止めた。敷地の中で馬が2頭、草を食んでいる。
『ハルハ河戦争・戦勝記念塔』は高さが50m強、深いガンメタリック色をしており、恐らく金属製と思われる。装飾はリアルで、真近で見上げるとかなりの迫力だ。頭上からの強い日差しがコントラストを強め、圧迫感と威圧感、重量感を際立たせている。
塔の基本的なデザインは角柱で、上になるほど細くなっており、先端には星型の装飾が取り付けられている。下から1/3の位置にカーテンのようにもオーロラのようにも見えるデザインが施され、一見すると鷲が羽を広げようにも、十字軍の騎士が使う剣のようでもある。
そのカーテンのような部分には、各種の戦いの像が配置されており、兵器類が忠実に再現されている。正面には銃を担いだソ連・モンゴルの兵士2名が直立不動で立ち、カーテンを広げた部分にはBT-7型戦車が2台、騎馬兵、旗を持って突撃する兵士、I-16戦闘機数機、重砲数門が所狭しと配置され、どれもリアルだ。個人的に残念なのは、1台のBT戦車のキャタピラは正確に表現されているのに、もう1台は手抜きをしてあることだ。せっかくリアルに作っているのになぜだろう?!
改めて村の方を見る。斜面を上がってくる風が心地良い。この場所に立つとスンベル村とその周辺30kmを見渡すことができる。ノロ高地も近い。ただし、左手は斜面の陰になっていてノロ高地、チョクトン兵舎より北は見えない。ハルハ河大橋からチョクトン兵舎までの直線路をジープとトラックが走っている。厚生労働省のグループであろうか。
【ハルハ河で時間つぶし】
11:25。そろそろ正午に近くなってきた。今日は司令部に戻って昼食という段取りになっている。昼食の準備ができるまで、まだ時間があるので、ハルハ河の岸辺で時間をつぶすことになった。戦勝記念塔の前を横切りハルハ河まで降りる。ここ場所に来るのは初めてだった。
川岸を見ると家族連れが水浴びをしていた。子供達は水着姿で水を掛け合ってはしゃいでいる。さしずめ日本なら家族連れの海水浴といったところだろう。モンゴルと日本では地理的条件はかなり異なるが、水に入った子供達の仕草は万国共通だと思った。
突然、この場所で“経木流し”をやってしまおう、という話になった。各自経木を持ってハルハ河に流す。しかし、軽い経木は投げても遠くに飛ばず、岸から50cmぐらいの所に落ちてうまく流れに乗らない。大半の経木はすぐ下流の、川岸の石に引っかかってしまう。そこで、邦弘さんとブルガン一味が川の中に入って経木を集め、流れに乗せた。運良く流れに乗った経木を、下流にいた家族連れが不思議そうに拾い上げていたのが印象的だった。
以前は経木ではなく暗くなったから灯篭を流した。灯篭を流すには手間がかかるので経木になってしまったのだろうか?平成12年の時は灯篭が流れに乗らず大失敗だったが、平成13年の時は場所を変えたので上手く流れに乗り、大成功だった。ハルハ河大橋に立つと、流れていく数十という灯篭の灯りが、真っ暗なハルハ河にひときわ映え、まるで浄土の世界に旅立っていく魂のように見えた。この光景には、灯篭流しの風習が無いモンゴル人も驚嘆の声をあげるほどだった。
車のカーステからモンゴルの歌謡曲が流れてくる。昼食の時間まであと30分はあった。これといってやることもないので、各自、適当に時間をつぶす。私はハルハ河の写真を撮った。我々の背後には2階建ての高さほどの自然の土手があった。日本のように整備されるはずもなく、そのまま崩れかけている。川幅は50mぐらいだろうか・・・対岸の岸辺には高さ2m程の草が密集しており、まるで切り立った護岸のようにも見える。背後の土手と密集した背の高い草で、周囲の風景は全く見えない。ここだけ隔離された別世界のようにも見える。ハルハ河の緩やかな流れに、青空に浮かぶ雲が白く映って見えた。
【警備隊兵舎で昼食】
正午の時間帯を宿舎で過ごすのは初めてだった。昼間は慰霊行事を行っていたから当然である。司令部内の並木からこぼれる木漏れ日が心地良い。NHKのシルクロードの放送された、並木の下でお昼休みを過ごしているシーンが思い出される。中央アジアの乾燥地帯で並木が好まれる理由が何となく理解できた。
昼食の時間になり席に着くと、テーブルの上に白身魚のスープが置かれた。昨夜のノーザンパイクだという。多少、生臭かったが、味は淡白でおいしかった。あの怪魚が・・・と少し以外に感じられた。
【午後の時間は??】
昼食の後、薬を飲んで少し仮眠した。ベッドに横になって窓辺を見ると、レースのカーテンがゆっくりと揺れている。穏やかな時間が流れていた。痰が絡んで少し声が出にくいが、あと少しの辛抱だ。
さて、今年は連日快晴で、大きなトラブルも起きなかったため、順調に慰霊行事を消化することができた。お陰で本日の午前中で全ての日程が完了。午後は完全に空き時間となった。通常の観光ツアーであれば免税店でショッピングか部屋でゆっくりと過ごして旅の疲れを癒すのだろう。
しかし昨夜、この空き時間を利用して、これまで慰霊団として行ったことがない未知のエリアを調査するという計画が検討された。
私は幸運にも、過去2回の参加で、ノモンハン事件戦場跡の南部エリアを調査することができた。モンゴル経済の自由化以降、この戦場跡に入った日本人は限られており、さらに南部エリアの中国国境付近に分け入った日本人は皆無だと聞く。(永井団長はハルハ河上流のハンダガヤ方面まで川沿いを辿ったことはあるという。)そんな中、2度も戦場跡の南部エリアを調査できたことは大変ラッキーだった。
平成12年には南渡し付近の調査。平成13年には、大砂丘帯を周回し、戦跡の南東端にあたる『ハルツェン・ウーラ』まで行くことができた。また、大砂丘帯の激戦地跡、いわゆる戦車の墓場と言われている場所では、BT7型戦車の残骸3台を写真に収めることができた。恐らく、今ではBT戦車の残骸は、北京オリンピック・鳥の巣スタジアムにでもなっているだろう。考えれば一種のスクープである。
しかし、これらは慰霊団の正式な日程ではなく、当時モンゴル側の旅行社であったツゥーラさんに別料金を払い、ガイドの兵士、車と運転手を用立ててもらい実現することができたものだ。(現地ドライバーのチャーターに関しては、永井団長と現地のコネがなければ無理だったと思われる。)
一方、慰霊団は、3日間の予定で20ヶ所以上ある慰霊場所を巡るのが精一杯で、南部エリアの激戦地を新たに調査するゆとりは無かった。それどころか予定を全て消化することすら叶わなかった年もあるという。厚生労働省の遺骨収集団とてそれは同じだろう。(厚生労働省の場合は、基本的に当慰霊団の発見した戦跡での遺骨収集だと聞く。また、監視も非常に厳しいようだ。)
そんな訳で永井団長自身も、ノロ高地以南の激戦地である『754高地(松山陣地)』や、『744高地』、またニゲソリモト1本松より東の『大砂丘帯の激戦地』はおろか、スンベルから一番近い『東渡し』付近ですら、調査に訪れたことは無いという。
なお、南部エリアの国境付近に入った日本人は“皆無”という点に関しては不明瞭な部分もあるので控え目に宣言しておこう。
一例を挙げると、大砂丘帯のBT戦車の残骸だが、私が撮影をする6年も前に、ノーベル文学賞候補で“ノルウェイの森”でも有名な作家の“村上春樹氏”が、写真家の“松村映三”氏と共に訪れ、その中の1台を写真に収めている。
「辺境・近境」 村上春樹(新潮社)
刊行は1999年だが取材は1988年。当時の国際情勢と中国側とモンゴル側からの同時取材という点には脱帽としか言いようがない。村上氏のような例もあるから断言はできないが、基本的に戦場跡の南部エリアの国境付近は守備隊が一般人を案内するエリアではないとの話だ。
また、『ニゲソリモト1本松』から『754・松山陣地』を結ぶ線上に『三角山』と呼ばれる丘がある。ソ蒙軍の集中砲火で丘そのものが崩壊しまった激戦地だ。永井団長は一度行くことを試みたが、不発弾が多いという話に断念したという。その『三角山』を、「ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録」の著者で、私とも交流のあった小田洋太郎さんが当慰霊団の予定とは別に調査を行っている。話によると、現地には遺留品は何一つ残されてなかったそうだ。
(2009年5月には、日中蒙の国際調査団(朝日新聞大阪支社同行)による現地調査が行われている。調査チームはフイ高地・レミゾフ高地に足を運んだ模様だ。また、タムスク基地の調査も行ったとの事だ。)
私は今回も慰霊団の予定とは別に、南部エリアを調査するチャンスを狙っていた。過去に訪れた南渡し一帯から更にハンダガヤ方面へ南下しようと考えていたのだ。事前にGoogleEarthで下調べを行い、目標とするポイントも決めていた。また、現地に来てからは別料金でドライバーをチャーターする提案もしたが、結果として南部地域を調査することは叶わなかった。実は、この数年で国境警備のシステムが変わり、戦場跡は警備上2つのエリアに分割されたのだという。『東渡し』から以南のエリアは国境警備隊の管轄が異なり、5日前までにウランバートルで許可を取らなければならなかった。つまりモンゴルに到着した直後か、場合によっては入国前に申請しなかればならないのだ。残念ながら今回は諦めるしかなかった。
話を前夜に戻そう。「明日は案内を頼みますよ。」と笑顔で永井団長から告げられた。南部エリアを廻った経験から、当然のことながらガイド役が回ってきたのだ。永井団長自身、今回が最後の慰霊と考えているから、思い残すことの無いよう、これまで行けなかったエリアを回っておきたい・・・ということだろう。
しかし、私の個人的な調査であれば、“当たり・外れ”は私自身が背負込めば良いことだが、全員を引き連れての調査ではそうは行かない・・・責任重大である。
簡単に、明日は頼みますよ・・・と言われても実は単純ではなかった。まず戦車の墓場のBT戦車の残骸は、回収されて無くなっている。もうひとつは国境警備隊の管轄の問題、また、午後からの数時間では回れる範囲も限られており、私が訪れたルートを単純にトレースすることはできない。そこで、いくつかのプランを考えて邦弘さんと石井さんに話し、タイシルの現地情報と総合して判断した結果、比較的スンベル村から近い、『東渡し』の北部地域を調査することが決定した。この一帯は北から順に『ノロ高地』『754高地・松山陣地』『744高地』と3つ並ぶ扇陣形の一角で、ノモンハン事件中期~後期の激戦地である。もちろん慰霊団としては未知の領域であり、私自身も想像のつかないエリアだった。
一方、この一帯に関しては、大叔父の松村中佐救出の着陸地点に関連して決着をつけなければならない疑問点があった。大叔父自身は“南渡し”付近に着陸したと考えていたが、松村中佐の手記『撃墜』(教学社・昭和16年刊)には、「東渡し付近のノロ高地に続く一本道に沿って着陸した・・・」と具体的に記されている。
私自身は過去2回、東渡し付近を通過しているので、その地形の複雑さゆえ、飛行機の着陸は不可能だと考えていた。しかし、それはあくまで視界の届く範囲の風景から得られる“感”のようなものであり、一帯を見通せる高台から確認した結果ではなかった。またGoogleEarthの画像も不鮮明で、地形的な詳細を確認することは出来なかった。もしかすると着陸できるような広い場所があるのかもしれない。この謎をに決着をつけるには、なんとしても『744高地』~『754高地・松山陣地』一帯に行く必要があった。
さて、誰も行ったことが無い未知の地域・・・ということは、当然、私も行ったことがないわけで、そんな状態で現地のナビゲーションを引き受けるには、クリアしなければならないいくつかの問題点があった。
■ 問題点①場所が不明?資料が無い。
『754高地・松山陣地』に関しては、私のソ連製地図に749mの基準点の標示があるため、恐らくここが『754高地・松山陣地』だと判断できた。5mの標高差があったが地形的には問題なかった。
一方、『744高地』はソ連製地図で明確な位置を確定するのは困難だった。そこで、OHRさんが持って来ていた「地図中心」という雑誌に掲載されていた「満州国十万分一図」のコピーと、邦弘さんの持っているノモンハン会の「関東軍地図」からおおよその当たりをつけた。(恐らく「関東軍地図」も出所元は「満州国十万分一図」と思われる。)
すると偶然にも、東渡しの真北、ハルハ河大橋の真東に位置することがわかった。この緯度経度線が交わった場所が『744高地』だ。実際、ソ連製地図上には小さな丘の表示も見られる。あとは、ハルハ河大橋の“経度”と東渡しの“緯度”をGPSに入力すれば自動的に『744高地』付近まで案内してくれるはずだ。
■ 問題点②正確な緯度経度が不明?
実はソ連製の地図に正確な緯経度線は描かれていない。また以前のように、予め緯経度線を記入して現地に持ち込むこともしていない。ではどうやって目的地の正確な緯度経度をわりだすのか?それは資料として持って来た各慰霊場所の緯度・経度一覧表を見れば一目瞭然だった。そこで一覧表を取り出し、ハルハ河大橋と東渡しの緯経度を確認しようとした時、大変なことに気が付いた。
今回、9年ぶりにExcelで作り直した一覧表の緯度経度の表示が、なんと10進法表示だったのだ。これは痛かった・・・。Excelで作表し直した時、緯度経度の表示を“度分秒表示”に指定し忘れていたのだ。おまけに今回は10進数と度分秒を変換できる関数電卓も持って来てない。暗算で10進法を度分秒に直すのは不可能だ。例)北緯43度30分25秒は10進法表記だと43.506944444と表示される。この逆をしなければならない。
そこでGPS内に記憶させていたハルハ河大橋と東渡しのウェイポイントを表示し、緯度経度を調べた上で、新たなウェイポイントを作成した。また別の方法としては、私のGPSは簡易地図が表示されるので、図上のハルハ河大橋と東渡しの交差点を矢印で指定すれば、凡そのナビゲーションは可能だった。
■ 問題③車で行ける場所か?
さてGPSでのナビゲーションの段取りはついたが、車が通行できるのだろうか?ノモンハン会の「関東軍地図」にはこのような記載がある・・・「戦車の通行極めて困難」これは私自身の考える「飛行機の着陸は不可能」という仮説の理由にもなっている。戦車のような不整地走行のために設計された車両が通行困難な場所を、果たして4WDのプルゴンが走行できるのか?こればかりは現地に行ってみないとわからなかった。
このように3つの問題点があったが、慰霊団としては初めての試みである東渡し付近一帯の戦跡調査がいよいよ始まったのだ。
【東渡し北部一帯の調査開始】
日本で買ってきたタバコを1号車、2号車(シャルガル)の運転担当の兵士に渡す。本当なら私の別行動が叶った際にドライバーとガイド役の兵士に土産として渡そうと考えていたのだが、この調子だと日本に持って帰る羽目になってしまうので、ここぞとばかりに渡した。(私はタバコを吸わない)
今回は私が中心となりナビゲーションを行うので、1号車に乗り換えることになった。2号車先導でも良かったのだが、1号車のドライバーの兵士の方が運転が上手なのだという。しかし、1号車のナビゲーターであるタイシルが私と交代すると、1号車の通訳がいなくなるので、石井さんと私、タイシルと(誰だったか?)が交代した。GPSがドライバーから見えるように両面テープでダッシュボードに固定する。
ドアの開閉はいつも通り始めは上手くいかない。年季の入った車のドアは、ガラスを上下させるレバーが壊れており、ドアの中から出たワイヤーで引っ掛けるようにしてあった。開け具合の調整は結び目の長さで調整する・・・なんとワイルドな!壊れてもあの手この手を使って乗り続けるモンゴルらしい話だ。
とりあえずドライバーには東渡し付近にある“ヌーレン・オボー”を目指すように伝える。しかしどうも“ヌーレン・オボー”の存在がはっきりしない。ドライバーに地図を見せ、身振り手振りを交えて日本語でゆっくりと話すと、意味は伝わっているみたいだ。
13:50。出発。いつものようにスンベル村を通過し、ハルハ河大橋を渡る。今回はコンクリートの道を真直ぐに行かず、右に曲がって河川敷に降りた。広々とした河川敷はまるでゴルフ場のフェアウェイのようだ。広大な河川敷を東に進路を取り、東渡しに向かって直線的に走る。(距離は7kmにも及ぶ)所々に小川があるものの基本的に障害物は無い。快調な滑り出しだ。
【今日もお決まりの・・・?!】
14:05。突如、ドライバーが叫び声を上げた・・・と同時にエンジンが止まる。とっさにドライバーがブレーキを踏み、惰性で走る車を停止させた。何事だ?!ダッシュボードの下から煙が噴出し、何やら赤い火の粉のようなものも見える。
火災だ!火は一瞬で消えたが、配線の被覆が燃えた刺激臭が鼻をつく。配線がショートして燃えたようだ。あまりに突然のこと・・・いや、ありえない事態に、後ろの座席の人達は事情が飲み込めていない。
ドライバーはすぐさま座席を飛び出し、修理に取りかかった。2号車のドライバー・シャルガルも配線を持って駆けつけて来る。今日もまたトラブルだ。最終日とはいえ、毎日がこれでは・・・。その時、私はあることに気が付いた。今日は車を乗り換えた。だが待てよ、もう一人車を乗り換えた人物がいた。石井さんだ・・・。
「私と石井さんが乗った車は必ず故障しますよねぇ」そう意味ありげに告げると、お互い顔を見合わせて爆笑した。内心、相手が原因だと思ったに違いない。
14:20。以外に早く修理が終り、再出発する。
やがて平坦な河川敷が終り、潅木に覆われた台地の斜面が目の前に現れてきた。道は台地の斜面を横切るように走り、潅木の茂みに飲み込まれて行く。砂の坂を登りきると、木々の間をぬうように2本の轍が蛇行している。アップダウンも激しい。所々、タイヤがめり込むほどの砂地なのでアクセルワークも微妙だ。河川敷から一転、ドライバーは忙しくなる。
【東渡し付近の高台で】
14:30。しばらく走ると突然茂みが途切れ、斜面の下にハルハ河が見えた。ここから東渡しの一帯を展望することができる、私にはなじみの風景だ。いつもの所に来ると、車を止めるようドライバーに合図をする。全員車を降り小休止だ。
河川敷に目をやると、土の盛り上がりに援体壕が5つほど並んでいる。また、河川敷には何か直線的な跡のようなものが確認できる。何やらソ蒙軍の渡河の痕跡が感じられる場所だ。
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『東渡し』はソ蒙軍の渡河点としては『川又渡し』に次いで有名だろう。この先の斜面の陰に『東渡し』があると考えられる・・・というのも、資料によると渡河点は、我々の位置からは台地の陰となっていて見ることはできない。また、道も一旦内陸を通るので近づくこともできない。東から流れてきたハルハ河はこの付近で流れをゆるやかに北に向け、我々が立っている台地の斜面にぶつかり崖を形成している。恐らく渡河点はその崖の陰だったと思われる。
河川敷を眺めると、南の方角に9年前には無かった農場のようなものが見えた。韓国人が入植しているのだという。道の脇には小さな青い看板があった。ここから先は警備隊が別管轄になるとでも書いてあるのだろうか?気になって聞いてみると“ハル・ブール”という地名が書いてあるという。「こんな場所にも地名があるのだな。」と改めて思う。
【道から外れて茂みの中へ】
GPSが最初の目的地である『744高地』がこの場所の真北1800mの位置にあることを示していた。しかし、潅木が生い茂っているため、直接斜面を登って『744高地』に向かうことはできない。そこでドライバーに、大きく迂回しても構わないから、適当な所まで道なりに進んでくれ、と指示を出す。とは言え守備隊の管轄もあるだろうから、あまり先に進むこともできない。そんなことを考えながら地図を見ていると、何やら懐かしい感覚が蘇ってきた。そういえばこの状況は山岳スキーで“取り付き”を探している時と同じだ・・・。そうか、今自分はこれまで山岳スキーで学んだGPSや地図の使い方を、ここモンゴルで実践しているのだ。
14:45。全員が車に乗り込むと再出発だ。ドライバーはしばらく道なりに車を進めたが、突然、左(北)にハンドルを切ると、潅木の斜面に突っ込んで行った。それからは右に左に・・・時にはぐるっとひと回りしながら、窪地と尾根が入り混じった複雑な地形を突き進んで行く。
ドライバーは窪地と潅木だけを上手く避け、尾根を縫うようにして目的地まで進んだ。華麗なハンドル捌きだ。
【GPSがナビゲーションする仮の744高地へ】
14:59。GPSの表示が目的地まで数十mとなった時、ドライバーは車をぐるっと周回させ小高い丘の頂上で止まった。GPSに目をやると目的地に5m圏内だ。最近のGPSがいかに精度が高いとはいえ5m以内で目的地にピタリと合うことは珍しい。私が地図上で適当に当たりを付けた場所もまんざらでもなかったようだ。またドライバーもGPSのナビゲーションから多少外れていても、小高い場所が我々の目的地となりえるということを良く理解している。
車を降りて周囲を見渡す。まず客観的に、我々が立っている場所は小高いというだけで目的地では無さそうだ。ここからは、当時は諜報部員であり遺体回収にも携わった永井団長の経験、現地に詳しい邦弘さんの動物的勘、現役自衛官のSTOさんや自衛隊OBのNYMさんの陣地構築の知識、そして地図と戦跡に詳しいOHRさんの知識を総動員して『744高地』を探すのだ。私の役目は一旦は終わった。
永井団長の話によると、当時の陣地構築の常識として、本部の設置場所には丘の背面に適当な広さの窪地があることが条件だったという。
ハルハ河の方向(南)を向くと、我々の立つ丘と同等の高さを持つ丘が、左手に一つ、右手にも一つ見えた。右手の丘を良く見ると、丘の背面、つまりソ蒙軍とは反対側に少しばかり平地があり、潅木が生い茂っている。本部の設置条件としてはこのうえない。そこでまず右手の丘から調査を行い、外れだったら左手の丘・・・という順番で調べて行くことになった。
車に乗り込み500m程離れた右手の丘に向かう。
【744高地】
15:15。具体的な目標に向かうドライバーの運転は活き活きと感じられた。GPSの示す矢印を頼りに走るのとは訳が違う。あっという間に到着だ。丘の背後の平地に車を停め、茂みをかき分けて丘の上まで登る。高さにして12、13m程度だろうか。頂上に立ち周囲を見渡すと、これまで各慰霊場所で見てきた地形とどことなく共通点が感じられる。はやりここが『744高地』の本部跡なのだろうか?『東渡し』から2240mの距離である。当初車内で待つことにしていた永井団長も、ひざが悪いのを押して後から一人で登って来る。標高744mの高地からの眺めを、一目見ておきたいという執念のようなものが感じられた。
周囲を調査すると缶詰の空き缶など数点の遺留品が発見された。これらの遺留品と地形から、恐らくここが『744高地』の本部跡であろうと判断できた。しかし、決定的な何かが欠けているようにも思える。STOさん曰く「この場所では少しハルハ河から遠すぎる感じがするんですよね。(ここを本部としてハルハ河方向に)塹壕の跡などが発見できれば間違いないんですが・・・」一方、OHRさんは「744高地に布陣した71連隊第1大隊は、短期間の布陣だったので遺留品が少ないのでは?」と結論づけた。もちろん戦闘詳報の布陣図等が手元にあれば最善なのだが、ともかくも、この場所が標高744mの高地であり、付近に日本軍が布陣したことだけは間違いなさそうだ。
南西の方角に見える茂みの中に何か光るものが見えた。双眼鏡で確認するとプルゴンのようなバン型の車の一部が茂みの間から見えている。誰だろう?
永井団長を交え周囲を見渡すと、北西方向に松の木の木立が見える一際高い丘が見えた。距離にして3km。ちょうど『ノロ高地』との中間でもある。そう、あれが『754・松山陣地』に違いない。松山陣地の“松山”というのは松の生える山という意味だった。こうなったらもう行き先は一つだ。ドライバーに「あの松の木の茂る山に行って!」と日本語で言うとドライバーも大きくうなずいた。その場の雰囲気が、日蒙両国の全員で共通の目的に向かっている感じとなっていた。
【754高地・松山陣地】
16:05。車が進むに従い、目の前に丘と窪地が交互に現れる。周囲の草地は所々に高さ2m程度の潅木が生えている。丘を越えるたびに、目指す松の木の丘が大きく見えてくる。15分程走ると丘のふもとに到着。2号車は少し遅れて到着した。
丘の頂上に登るには、3階建のビルほどの高さがある砂の斜面を登らなければならなかった。風邪で喉が痛い身上としては少し辛かったが、これが最後だ。足元の砂はやわらかく踏ん張りが効かないのでゆっくりと登る。登り切ると頂上は少し平らになっており、石版ようなものが置いてあった。
我々が来た方向を振り返ると『744高地』が確認できる。とすれば180度反対方向に『ノロ高地』が見えるはずだ。反対を向くと、小高い砂山が『744高地』と同じぐらいの距離にあるった。慰霊柱などは確認できないが、あの一帯が『ノロ高地』だろう。今、我々は『ノロ高地』から『754高地』~『744高地』と展開する、扇陣形の真ん中に立っているのだ。
【三角山?】
そうしてみると、北東の方角にはソ連軍の砲撃で丘が消えた『三角山』が見えるはずだ。STOさんに聞くと「あれがそうじゃないですか・・・」と言って2500mほど先に見える“いびつ”な形をした砂山を指差した。付近に目立って高い丘も無い。ソ蒙軍の激しい砲撃で崩れ落ちたというぐらいだから、恐らくあれが『三角山』だろう。
丘の上から一帯を見渡すと、緑の草原の所々に潅木を見ることができる。しかし、ノモンハン事件当時は砂地の所々に草が茂る程度の砂漠のような風景だったそうだ。例えるなら、鳥取砂丘の外れにある草地のような風景だったのではないだろうか。
【松の巨木が生える丘】
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この『754高地』は“松山陣地”の由来の通り、松の巨木がコの字に開いた丘の谷間に何本も生えている。その谷を挟んで第2ピークが見える。OHRさんが「地図中心」に掲載されている「満州国十万分一図」のコピーを私に見せて「ここが745高地で間違いありません!谷がハルハ河の方を向いていて、背後大きな窪地があります!」と興奮気味に教えてくれた。コピーを覗き込むと、確かに地図通りの地形ではないか。80年ほど昔の地図にもかかわらず、凄い!
私は一旦、尾根の部分を伝い、コの字の谷の中心に降りて行った。斜面はかなり急で、足元は砂地で踏ん張りが効かない。これが山岳スキーなら楽勝なのに・・・と思う。谷の底に降りると、何かドラム缶のような物体が見えた。近づいて見たが何か分からない。それ以外に目立った遺留品は見つけられなかったので、私は第2ピークに向かって15m程度の砂の斜面を登って行った。
【馬賊現る?!】
第2ピークの頂上に着くと、突然、馬に乗ったモンゴル人男性が現れた。手には牛や馬を追い立てる道具を持っている。最初は兵士かと思ったが一般人だろうか?それにしてもこんな所で人間に会うとは驚いた。我々に何やらモンゴル語で言葉をかけると、飛ぶようなスピードで第1ピークの方に行ってしまった。頂上でブルガン達と何か話をしている。足元の悪い砂地の尾根を、一瞬で移動した馬の機動力の凄さを改めて感じた。仮にトライアル・バイクを使えばこのような足元の地形でも飛ぶように移動できるかもしれない。しかし、全日本レベルの技量が必要だろう。やはりこのような地形では馬に勝るものはない。私も第1ピークの方に向かったが、当然、馬の歩みのようには行かなかった。
第1ピークと第2ピークの鞍部には、地面を四角形に掘った痕跡が見られ、丘の背後から伸びる溝とつながっていた。一体なんだろう?更にその堀跡から第1ピークの頂上に向かって溝が伸びている。恐らく丘の背後にある指揮所から、丘の上の監視所に向かう連絡壕の痕跡だったのではないだろうか?溝の部分には草が生えていないので、私は草のトンネルを通って第1ピークへと戻った。
【謎の基準点】
第1ピークの頂上では、5名程が石版のようなものを覗き込んでいた。真近で見るとコンクリートで出来た三角点のような物だ。上面には金属の丸い基準点?のような物が埋め込まれ、キリル文字で何か書かれている。OHRさんが読み取ろうとしたが錆がひどくてよくわからない。私のソ連製の地図には、いわゆる“三角点”のようなマークが描かれているので、このコンクリート版は測量に関連した基準点であることは間違いない。
我々は、そのこのコンクリート版の脇にほんの気持ちばかりの塔婆を建てた。成田山の平野さんがその場で「754高地戦没者」と書き入れてくれたものだ。そして平野さんの読経の声が静かに丘の上に流れる。ほとんどの人が車に戻っていたので、たった5名のささやかな慰霊であったが、全員が心を込めて手を合わせた。
ささやかな慰霊ではあったが、私は非常に価値があったと感じている。というのも、私の知る限り、これまでのところ754高地を確定したという情報は一切耳にしていない。我々が、ノモンハン事件後71年目にして、日本人としてこの地に立ち、手を合わせたと言って良いだろう。これは大変重要なことだ。つまり、この場所に日本人が来るまで、実に71年もかかったということだ。重く受け止めるべき話だろう。
平野さんの読経が終わると、私はここから見える風景を心に焼き付けようと改めて周囲を見渡した。東渡しの付近からここまでの道のりを目でたどってみる。
この一帯で航空機が着陸し、さらに離陸できるような場所が果たしてあるだろうか?大叔父が松村中佐を救出した際、渡河点の上空で高度約200m、ソ連兵の姿が確認できる高度だった。エンジンを切った97戦の滑空距離は凡そ高度の7倍。ハルハ河から1.5km以内に着陸したと考えられた。先に訪れた『744高地』がハルハ河から約2km。道を外れてからここに至るまで、大叔父の「北に向かって大平原が続いていた。」という証言に合致する風景はどこにも無かった。
「間違いない・・・。」東渡し付近の着陸説は私の中では完全に対象外となった。
(なお昭和14年8月4日時点で、744、754高地付近には梶川大隊が布陣していた模様で、東渡し一帯の高地は日本軍が掌握していた可能性が高い。)
本日の午後はこれまでになく充実した結果となった。私だけの知識では到底、これらの戦跡を確定することはできなかった。「やりましたね!」私はそう言ってOHRさんと硬い握手を交わした。
そろそろ皆が待ちくたびれているだろう。砂地の斜面を気をつけて降り、車に戻った。予想ではもっと困難が伴うかと思っていたが、意外にあっさりと完了してしまった。後は司令部に戻ってゆっくり休むだけだ。車のシートに座るとドッと疲れが出てきた。
【帰途に着く。実は・・・】
車は『754高地』を離れ、一旦北に進路を取って走り始めた。すると5分もしないうちに道に合流したではないか。なんと、『754高地』のすぐ裏手に道があったのだ・・・。これにはコケた!『東渡し』の方向から回って来るよりも『ノロ高地』側から入った方が早かったのだ。比較的、人の通りが多いのだろう。どおりで馬に乗った男性が突然現れたり、金属くずになる遺留品が少なかったわけだ。いずれにしてもこれまで訪れたことの無いエリアを周回したのだから意義はあった。
追記:帰国後、資料をまとめている最中に面白いことがわかった。昨年11月、横浜の永井団長宅を訪れた際の私のメモ書に“松山陣地”と記されていたのだ。以前にも話題に挙がっていた場所だったのだ。
【ハルハ河】
17:15。3日連続でハルハ河通いである。昨日は頭も洗ったし、今日は特に何もすることはない。
スンベル大橋の方を見ると、橋の向こうに先ほど調査をおこなった『754高地』が見えている。なるほど、周囲より一際高く見える丘には2つのピークがあり、こちらを向いた谷間には松の木が密集している。特徴ある地形なので非常に目立つ存在だ。「そうだったのか。こんなに近くだったのか。」改めて地図を見て各戦跡の位置関係を認識した。となると、最初に訪れた『744高地』の位置は?となるのだが、これといって目立つ丘も見えず、どれが『744高地』なのかわからない。
『ノロ高地』と『754高地』との位置関係から判断して、当りをつけた場所をズームで撮影し、帰国後にじっくりと判定してみたが、やはり決定的ものが得られない状況だ。
邦弘さんとブルガン一味は今日は魚取りだ。浅瀬に小さな魚がいるのでそれをTシャツで囲い込んで捕まえようとしている。プルゴンを運転する兵士や成田山の鈴木さんも混じって、皆、大はしゃぎだ。ミネラルウォーターのペットボトルに数匹が捕獲された。見せてもらうと“めだか”にそっくりの小魚が数匹入っていた。
ふと車の方を見ると永井団長、STOさん、OHRさんが夕暮れの光の中で話をしている。絵になる風景だったので遠巻きに撮影した。
【宿舎にて】
18:30。宿舎に戻る。まだ明るいうちに宿舎にネレバートル氏があいさつに来た。隣の部屋の奥で永井団長、邦弘さんが石井さんの通訳を交えて話をしている。
【お別れパーティー】
最終日の今夜は宿舎でお別れパーティが行われる。例の美人兵士?も今夜は軍服を着て正装していた。周囲は準備万端整っていたが、時間になってもガンバトル司令官が現れない。タイシルの話では、本日発生した越境事件の対応に追われ、いつ戻れるのかわからないのだという。私はタイシルの日本語を聞き違え、昨日の我々の“越境もどき事件”が本格的事件に発展したのか?と思ったりもしたが、それは勘違いだった。
時間も過ぎているので、司令官不在でお別れパーティーを始めることになったが、会を始めた途端、外で出番を待っていたかのごとく、司令が現れた。
まずはモンゴル式の乾杯から始まり、記念の品がガンバトル司令から永井団長に渡される。青い絹の布に乗せられた金色の杯には、溢れんばかりの乾燥チーズが盛り付けられていた。青には“モンゴルの空の色”という意味が込められ、高貴な色とされる。大切な贈り物は青い布に乗せて渡すのがモンゴル流だ。
金色に輝く器はやはり純金製か?だとすれば凄い価格の品だ。まぁ、さすがに金ではなく黄銅製だったが・・・。しかし、驚いたことに、見た感じは100%金属製の器なのだが、実は木の器に黄銅板を鈑金加工した物だという。手に取らせてもらうと、見た目とは裏腹に軽い。驚くべき加工技術だ。良く見ると黄銅板の部分には記念の言葉が掘り込まれていた。
【モンゴル伝統のアーロール】
杯にたっぷり盛られた乾燥チーズ(アーロール)は、日本人にはなじみの無い食品だろう。アーロールにもいろんな種類があるのだが、こちらでよく頂くのものは、厚さ5mm、大きさ5cm角ぐらいの大きさで、色は日本で売られているプロセスチーズに近い。
しかし、その硬さはハンパではない。この硬さに匹敵する食品は鰹節ぐらいだろう。見方を変えれば、ひん曲がったベージュ色のプラスチックの板のようにも見える。ウランバートルのダシュナムさんは、永井団長がここ司令部で記念にもらうアーロールを、最高級品だと言って喜んで持って帰るのだという。
私はアーロールで下痢を起こしたことがあるので、それ以来、個人的に危険性のある品として扱い、現地で食べることはない。もっぱら記念品として日本に持ち帰り冷蔵庫に大切に保管している。
アーロールで一番印象的だったのは平成12年の時だ。職場の同僚に食べさせようと日本に持って帰ったところ、帰国後2日目にして夏の湿気でべちゃべちゃになり、カビが生えてしまったのだ。さすがにカビの生えた食品を同僚に食べさせることはできない。それでなくても食品には見えないのだから・・・。まさに乾燥した国モンゴルならではの食品だ。その土地の気候風土に合った食品が伝承されるのだ・・・と改めて実感した出来事だった。
「おやっ?!」全員の視線がテーブルに釘付けとなった。テーブルの上に巻寿司が運ばれてきたのだ。モンゴルの東の果て、このような国境の村で巻寿司を目にするとは以外だった。しかし、第一印象は巻寿司だったが、巻いてある海苔、切り口、中の具など・・・見れば見るほど、巻寿司のようで巻寿司でない。おまけにモンゴルで見かけるご飯は、日本の物とずいぶん食感が違う。どんなもんだろう??恐る恐る口に入れてみる。驚いたことにしっかりと巻寿司の味がするではないか。ご飯は日本のものとは程遠かったが、それでも確かに巻寿司である。我々に少しでも心地よく良く過ごしてもらいたいという、スレンさんの配慮だったのだろう。ありがたく頂いた。
続いて魚のフライが出てくる。朝のスープにもなった、昨日のノーザンパイクである。スープの味から想像するとまんざらでもなさそうだ・・・そう考えながら口に運ぶ。これもビックリ、美味い!淡白な白身魚の味がフライに合っているだけでなく、絶妙な味付けだった。川魚なので小骨は多かったが、適度な塩味、微かなニンニク等の薬味の香り、白い器に盛られたカラフルな野菜など、どれを取っても素晴らしかった。これらの料理を、現地の簡素な厨房で作り上げるスレンさんの腕前は相当なものである。現地最後のディナーを堪能した。
そこに、この3日間、プルゴンの運転を担当した2名の兵士が正装して現れた。この3日間の労をねぎらって記念品を渡す。彼らはこういう場に慣れていないのか、それとも司令官の目前だからなのか?極度に緊張した面持ちで、終始うつむき加減だった。
【現役将校対談】
宴もたけなわとなった頃、STOさんとガンバトル司令の対談がタイシルの通訳を介して始まった。まさに日本・モンゴル両国の現役将校の対談である。
STOさんが「ひとりの軍人として感想を述べさせていただきます。」と切り出す。その中で印象に残った会話をひとつ紹介すると・・・。
■ STOさん
「我々は海外に行った際、その国の軍隊の修練度を、動作の機敏さなどで判断します。モンゴル国境警備隊の兵士の動きは機敏で無駄が無く、非常に良く訓練されていると感じました。(中略)我々日本の場合は周囲は海ですが、周囲を全て国境に接しているモンゴル国の場合、この広大な国境をどうやってこれだけの人数で警備しているのでしょうか?」
・・・確かにそうだ。海という大きな堀に周囲を守られている日本とは随分事情が異る。また、他国と接する国境線の長さも日本と比較すると桁違いに長い。素人の私にも気になる話しだ。
■ ガンバトル司令
「確かに装備という点で我々は(アメリカ等の)諸外国には遅れています。しかし、我々には“国境を絶対に守る”という信念があり、それが士気にも現れています。また、チンギスハーンの時代からのコツというものもあります。(中略)コツに関してはこの場ではお教えできません・・・。」といった具合だった。
なんだ!結局、秘密ということか・・・。
【ネレバートルさんと話す】
司令が退席し、適度の席が乱れ始めた頃、私はネレバートルさんに、平成12年の時の集合写真を見せながら話しかけてみた。モンゴル語での会話が出来ないのでゆっくりと日本語で話しかける。「私はこれまで3回ここを訪れました。私はあなた(ネレバートルさん)のことをとても良く覚えています。(ゼスチャーを使う)そして写真を見せながら「これが私でこれがあなた・・・ここにサンダグゥオチルさん(前館長)も写っています。」
ネレバートルさん 「アー、サンダグゥオチル!」
「私はあなたに再会できたことをとてもうれしく思います。」(ゼスチャーを使う)そう言って握手をした。たったこれだけのコミュニケーションだったが、想いは伝わっただろう。とても満足だった。
【自己紹介はモンゴル語で?!】
そのうち、石井さんの提案で自己紹介が始まった。この数日間共にしてきた面々を前に、今更、自己紹介というのも変だが、モンゴル側のネレバートル氏に対する自己紹介と、現時点での感想を含めたスピーチを行うのが趣旨だ。一番手の邦弘さんは「モンゴル国スンベル村出身、永井邦弘です!」などと冗談を飛ばし、周囲を爆笑の渦に巻き込んでいる。このあたりのセンスは絶妙で、言葉が通じないモンゴル人とも、すぐに打ち解けることが出来るのもわかる気がする。
さぁ、私は何を話そう・・・。そんなことを考えているうちに自分の番が回って来た。「そうだ、モンゴル語で自己紹介をしてみよう。」今回の渡蒙に際して、私はモンゴル語を勉強したのだが、会話などできるレベルでもなく、使う機会は全くなかった。それでも「氏名」と「どこから来たか?」ぐらいは言える。よし、ここで披露してみよう!
モンゴル語で一通り自己紹介をすると、ネレバートルさんと石井さんだけが「おっ?」という表情で反応した。恐らくこれまでモンゴル語を勉強して参加する方がほとんどいなかったからでだろう。これは以前、乗馬をした時と同じ反応だった。馬にまたがることは出来ても、あやつることが出来る日本人は珍しかったからだ。短いモンゴル語での自己紹介だったが、通勤電車での勉強の成果を、多少なりとも残すことができたのはうれしかった。
それにしても、良くも悪くもモンゴル語を勉強するのは刺激的だった。私は過去にニュージーランドへの渡航をきっかけに、比較的、現地での英語のコミュニケーションが出来るようになっていた。もちろん、駅前留学などで強制的に学習できる環境を作ったこともプラスに働いているが、なにより我々にとって英語はなじみ深い言語だ。その気になれば学習の機会は至る所に存在する。
実用性は低いと言われながらも、学校では最低でも中高の6年間、接点する機会があり(現在では小学校も?)、意味不明でも日本の歌に英語の歌詞が溢れている。テレビやラジオでは学習講座が毎日組まれ、2ヶ国語放送も今や常識だ。CS放送を契約すれば海外ドキュメンタリーを英語で見ることも出来る。
自分が所持する英語のテキストを数えてみたところ、なんと30冊以上もあった。冊数の割には修得率は悪いのだが・・・。(なお、断りで書いておくが、私の英単語力は英検3級程度である。コミニュニケーション力とは別の話題なので念のため。)
しかし、モンゴル語となると話は違ってくる。まず、専門のテキストが無い。無いというべきか?バリエーションが極端に少ないのだ。
・「ゼロから話せるモンゴル語」(三修社)
・「まずはこれだけモンゴル語」(国際語学社)
この2冊が唯一私のテキストである。神戸市内の大きな書店を回っても、この2冊を探すのが精一杯だった。まぁ、数多くあれば良いというものではないのは前述の通りだが・・・。(なお、この2冊はAmazonで検索すると上位3に入っている。Amazonを使って探せばよかったと後悔している。)
それに加え、日本国内でモンゴル語の会話に接する機会はゼロに等しい。あのNHKですらモンゴル語講座はやっていない。発音に限れば、テキストに付いているCDが唯一の教材だった。そして驚いたことに、このインターネット社会において、発音・会話を含めたモンゴル語の専門的で充実したHPが存在しないのだ。(軽い入門的なものは多数ある。)
そこで不思議になるのが、モンゴル語ペラペラの石井さんだ。確かに現地経験が長いのはわかるが、そもそも勉強のきっかけは?と聞くと、どうやら大学で専攻したとの話・・・どうやら、一般人がモンゴル語を勉強するのは、周囲の環境も含めた“運”にも左右されるようだ。
さて、この2冊のテキストと付録のCDを使って独学でモンゴル語修得に取り組んだわけだが、すんなり頭に入るはずはなかった。モンゴル語の文法は日本語と同じウラル・アルタイ語族であり、語順は日本語、朝鮮語、トルコ語と同じである。・・・であるから覚えるのは簡単!というのが通説である。ところがどういうわけか私の場合、印欧語族である英語の語順が払拭できないのだ。
これは私が不器用だからかもしれない。しかし、ひとつ思い当たるふしもある。それは普段、我々が会話をする際に、語順を意識しながら正しい日本語で話しをしているか?という点だ。つまり、英語のテキストの日本語訳のような丁寧な会話を普段しているか?とでも言おうか。
例えば自己紹介の時に「こんにちは。私の名前は○○です。私は××県から来ました。私の年齢は00才です。」と言う人はまずいないだろう。正しい日本語ではあるが、まるで幼稚園の先生が園児に向かって自己紹介するような話し方だ。一般的には「○○と申します。××県出身の00才、よろしくお願いします。」となるだろう。
普段、我々は母国語で会話する時、語順を改めて意識することない。更には改めて「私は・・・」と言うことも少ない。モンゴル語を勉強するにあたり、英語と異なる語順を組み立てることが難しかったのではないだろうか。(もちろん私にとっては、という意味である。)
このように上手く行かない原因が何なのか?を自己分析していくのも新鮮だった。
なお、日本語会話は、「私」「あなた」が省略されることが特徴だという。
【アカペラ大会】
少し場の雰囲気が静かになった頃、石井さんが「ネレバートルさんの歌を披露して頂きます。」と、きり出した。とうとう来たぞ、モンゴル宴会の定番のアカペラ大会だ。モンゴルでは必ず来客があると歌って客人をもてなす。ネレバートルさん、邦弘さん、STOさんの歌が続いた。指名があれば映画『男はつらいよ』のテーマ曲でも歌おうかと覚悟を決めたが、最終的には自分から名乗りを挙げることができなかった。
初めての渡蒙の時から“アカペラで歌を歌う”というのは課題となっていた。しかし、今回も果たせずじまいだった。他人が歌うのを目にした多くは民謡、軍歌だった。平成12年にはフリーライターの松井さんが、若かりし時にコーラスをやっていたというので、素晴らしい声で日本語版カチューシャを歌ったりして、宴会が大いに盛り上がったことがあった。アカペラで歌えるということは素晴らしい。歌に自信があるとか無いとかいう問題ではない。場に適した曲を思い付かないのだ。英語の歌詞が入らず日本的な音階の曲・・・一番良いのは民謡だろう。しかし、私の住む神戸には有名な民謡は無く、両親の郷里の佐賀にしても同様だ。この課題、いったい、いつになったら解決するのだろうか。