ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
2. モンゴル・ノモンハン旅行記
⑤現地慰霊開始、コブ山、ニゲソリモト、東捜索隊玉砕の地
平成22年8月25日(水) 日程5日目、モンゴル4日目、現地第1日目
【現地慰霊開始】
本日から本格的な現地慰霊が始まる。チョイバルサンから乗ってきたワゴン車から、ロシア製の『プルゴン』UAZ452のワゴンタイプに乗換えての移動だ。ドライバーは共にモンゴル共和国軍の国境警備隊の兵士である。白色の1号車は永井団長以下浜さん、STOさん、NYMさん、OHRさん、WTNさん、通訳にタイシルが乗り込んだ。カーキ色の2号車は後ろがピックアップになった珍しいタイプで、ドライバーの兵士はシャルガルと言う。私と成田山の平野さんと鈴木さん、邦弘さん、ブルガン、通訳として石井さんが乗り込んだ。ちなみに邦弘さんと平野さんは慰霊の道具と共にホロ付の荷台へ・・・。
8時15分出発。本日からが本番なのだが朝からくしゃみが止まらない。どうやら鼻炎の症状である。旅の疲れなのか、昨夜のお酒のせいだろうか?それとも石井さんのように草原アレルギーなのだろうか?
実は石井さんはスンベルが近づくと鼻炎の症状が出てくるという。草原を走り出した昨日は昼から既にくしゃみの連発で、鼻炎用の点鼻薬を時々使っていた。私自身も前の車の土埃で鼻の調子が少し変だったのは確かだ。STOさんも乾燥のためモンゴル入りした直後からくしゃみを連発している。(事実、私のビデオにはSTOさんのくしゃみの声が何回となく入っている。)
いずれにしても、本番初日は鼻炎という“いまいち”の体調でのスタートだったが、空は雲ひとつ無いモンゴリアン・スカイで、鼻炎の症状を忘れさせるに十分だった。
【スンベル大橋】
8:23。9年ぶりにハルハ河大橋を渡る。平成12年に訪れた時は橋の東岸側の破損が著しく、橋床部が落ちかけていた。修理する予算も人員も無く、完全に放置されたままの状態だった。翌平成13年には更に破損は進み、辛うじて東岸に渡れるという状態にまで悪化していた。そして、平成15年頃には完全に橋床部が落ちてしまい、慰霊団はモンゴル軍の水陸両用車にトラックごと乗せてもらい東岸に渡ったという。(注:橋の修理と増水が重なっていた為の使用だったかもしれない。どこからそのような凄いマシーンが出てきたのか?という話題で持ちきりだったそうだ。)
昨日、丘の上からスンベル村を見渡した時に、橋がつながっているのが遠巻きにも確認できたが、実際に渡ってみると改めて修復が実感が沸いてきた。安心して橋を渡れるということは何と素晴らしいことか・・・。しかし、橋に続く土手の道がこれまた崩れ落ちているのでストレートに走れなかった。まぁ、現地でまともな道を期待する方が無理というものだ。
橋を渡ると、一部は崩れているものの、コンクリート舗装の直線路が2kmほど続き、唯一軽快に走れる区間だ。その先は平坦な砂地に木々が生い茂っている場所が何ヶ所か続き、やがて草原の中に『チョクトン兵舎』が見えて来る。
08:40。チョクトン兵舎。許可をもらって進路を東(右手)に取る。GPSの誘導補助を行うため、石井さんと交代して助手席に座った。
モンゴルでソ連製の車に乗ると、大抵の場合、始めのうちはドアの開閉が上手く行かない。古くてガタが来ているので少々コツが必要なのだが、それは車によって異なるので、一度教えてもらってもなかなか一人での開閉が上手く行かない。そんな時はドライバーが気を利かせて毎回開けてくれたりする。
それでも一生懸命コツを覚えて一人でドアを開け、ドライバーの方を見て右手の親指を立てニターッと笑うと、ドライバーもニターッと笑う・・・。これが私流のモンゴルでのコミュニケーションの取り方だったりもする。
道沿いに斜面を上がって大地の上に出ると。見かけない初めて見る記念碑が建っていた。どうやらモンゴル関係の慰霊塔の様だ。2m程の石の塔の上に丸い頭のような形状のものが乗っている。日本で見る国土地理院のGPS電子基準点の様な形だ。周囲には柵が施してあった。
突如、車は進路を右に取り、道を外れて草原に入った。コブ山の慰霊場所に向かうための決まったポイントだ。元々、道と言っても草原にある2本の轍なので、道と草原の違いは大したものではない。しかし、“道を外れて走る”ということは、何か物凄いことのように感じられる。日本的に考えるなら、空き地の草むらにわざと車で突っ込んでいく感覚だ。日本でそんな事をすれば、間違いなく“気がふれた”と思われるに決まっている…
道を逸れてからしばらく行くと、右手に茂みのある小高い丘が見えて来る。突然、記憶が蘇ってきた。生まれて初めての現地慰霊で一番最初に飛び込んで来た風景だった。身体が地形を覚えていたとでもいうべきだろうか。こんな風に、現地に来て突然忘れていた事を思い出すのも少なくない。
【コブ山;合同慰霊祭、開白法要】
09:10。コブ山到着。現地慰霊の実質的1番目は必ず『コブ山』での日蒙合同慰霊祭と決まっている。22年前、初めて位置確認ができたのが、ここ、コブ山だったからだ。
コブ山の慰霊ポイントの南側は小高い丘となっており、草がこんもりと茂っている。そこにはモンゴル側の石作りの慰霊塔も建っている。記憶では見上げる高さの丘だと思っていたが、改めて見ると大した高さでもない。開白法要の準備が出来るまでの間、百メートルも離れていないこの丘の上まで歩いてみた。丘の先には、いまだかつて見たことの無い(私にとっては)空白地帯の風景が垣間見えるはずだ。
「おぉ・・・」当たり前の事だが、丘の上に立つと初めて見る風景が広がった。地図で確認するとノロ高地から東側一帯に該当するようだ。恐らく1kmほど先に見えていた丘まで足を運ぶと、ノロ高地やハルハ河が見えたのだろう。
しかし、それにしてもなぜ今まで、この場所からの展望を見たことがなかったのだろう?初めて訪れた時は、夕闇迫る中、草原をトラックの荷台に揺られて走ることを含め、全てが初めての経験でチンプンカンプン、周囲を観察するゆとりが全くなかった。
2回目の時はかなり手痛い経験に遭い、これまた周囲を観察するどころではなかった。ソ連製の鉄条網で足を負傷したのだ。
到着直後、トラックの荷台から飛び降り、勢い良く走り出した途端、足に何かがからまった。独特の痛みが走る・・・見るとソ連製の鉄条網だった。ズボンは破れていない。そのまま撮影を続けたが、左足のふくらはぎを伝って流れる暖かい血の感触・・・。「ヤバイことになった・・・」平静を装いながらも顔から血の気が引いて行く。その時の何とも言えない感覚は今でも鮮明に覚えている。傷は深くはなかったが、草原に横になり、木島さんとツゥーラさんの手当を受けた。現地第一番目の慰霊で舞い上がっていたのだろう。まさに、戦場に舞い上がり、トラックから降りた途端、無我夢中で走り出し、最初に撃たれた兵隊のような感じだった。
また、足に絡みつく鉄条網の凄さを、我が身をもって実験した貴重な経験でもある。その傷は今でも私の左ふくらはぎにしっかりと残っており、く一生消えることはないだろう。
程なく開白法要が始まり、平野さんの回向文を読み上げる声、鈴木さんの読経の声が風に乗って、秋の気配感じられる草原に響き渡った。ノモンハン事件で亡くなった日本軍兵士のみならず、満軍兵士、ソ連・モンゴル軍兵士全てに祈りを捧げる。
空を見上げると、どこまでも透き通って青く見える。これだけ透明度があると、空の遠いところにいる英霊達から我々が見えているんじゃないかな?じっと青空を見れば見るほどそんな気分にさせられた。
読経の声を聞きながら各人焼香を済ませ、全員で記念撮影を行った。車に乗り込もうとするとドアノブの付近に無数のかわいらしいミツバチが群がっていた。(理由は不明)
我々を乗せた車は、東に広がる丘の間を縫う様に進み、『森田部隊陣地跡』を一旦横目に見ながら、一路、『ニゲソリモト一本松』へ向かった。
【ニゲソリモト一本松752高地】
10:15。ニゲソリモト一本松に到着。
車から降りると足元に注意しながら、周囲360度の写真撮影とビデオ撮影を手早く行い、それが終わると残りの時間を慰霊塔周辺の整理に充てた。
ここは平原の中にある“浮き島”のような雰囲気の場所で、中央の窪地にはノモンハン事件当時から生えている一本松が存在する。その松の木は、この地が寒冷であるため成長が遅く、事件当時とさほど変わっていないという。確かに9年前の写真と比べても違いは感じられなかった。ところが、面白いことに、隣の窪地にある木がこの9年間で生長しニゲソリモトの一本松にそっくりになっていたのだ。偽ニゲソリモト一本松、もしくはミニ・ニゲソリモト一本松の登場である。ここは場所によって水や日照、雪解け等の要因が絡んで木々の生長スピードが異なるのかもしれない。
慰霊回向を済ませ『森田部隊』に戻ろうとすると、「人間の骨が見つかった!」という声が聞こえた。南東側にある窪地でモンゴル人ドライバーは発見したのだという。そこに行くと草むらに人間の大腿骨の骨が落ちていた。この一体では動物の骨も多数存在するから、何が違うのか?私にはわからなかったが、現地で人間の骨を見続けている永井団長と邦弘さん曰く「人間の骨は表面がささくれているんだ。」とのこと。それと大きさと形が決めてだそうだ。確かに詳しく見ると表面がささくれている。日本兵のものともソ連・モンゴル兵のものともつかない骨ではあったが、穴を掘り水を与えて埋め、手を合わせた。東の斜面の中腹5~60mの所に埋葬。
【森田部隊、歩兵71連隊陣地跡】
11:00。森田部隊、歩兵71連隊陣地跡に到着。慰霊回向。ここからは中国側のノモンハン村が見える。双眼鏡を取り出してよく見ると、ノモンハン村の外れにある学校もしくは集会場のような建物と塔が確認できた。(GoogleEarthによると北緯47度50分47.65秒、東経118度47分10.65秒)村の建物は屋根がオレンジ、壁はピンクがかった白色に見え、とてもカラフルだ。ノモンハン村が見えるということは建物のすぐ手前がアブダラ湖ということになる。
追記:2011/06/
この中国側の建物は国境警備隊の監視塔だということが判明した。
11:20。川又の『東捜索隊玉砕の地』を目指して進んでいると、突然、私の乗った車が止まった。ドライバーの兵士が再始動を試みてキーを回すが、セルが回らない。「だいじょうぶだろうか?」そういえば朝からバックファイヤーのパンパンという音が頻繁に聞こえ、エンジンは決して快調とは言えなかった。ドライバーはすぐに運転席を持ち上げて下のエンジンルームを見ている。驚いたことに、ディストリビューターを外し、余りの電線を使って何やら配線をし直している。時間がかかりそうだ。
現在の日本車は高度にコンピュータ化されており、修理の殆どはアッセン交換なので、このように部品をバラしてそこらの電線で配線し直すということは構造上できない。車に限らず、単純な構造の物ほど簡単に修理も出来る。モンゴルのような人の居ない大草原で生活する上では大切な事かもしれない。聞くところによるとモンゴルで運転免許を取得する際にはタイヤ交換が出来ることが必須科目となっているという。まぁ、どこの国でも車は故障し難く、修理し易いのが一番には違いないが・・・。
30分を経過したがまだエンジンのかかる気配は無い。前を行く1号車も待ちかねて丘の向こうから戻って来た。1号車の兵士が継ぎ足しの電線をどこからか持ってきて、二人でディストリビューターをバラバラにしている。かなり大掛かりな修理になってきたようだ。二人は配線の被覆をナイフで剥いて銅線部を束ね、ビニールテープで止めている・・・まるでラジコンの修理だ。とても日本車でできる作業ではない。
まだまだ時間がかかりそうなので、皆、それぞれ周囲を散策し始めた。私も双眼鏡で周囲を観察していると、草原と空の間に何か薄いピンク色の石碑のようなものが微かに見える。あんな場所に記念碑があるはずが無い・・・。何なのか?気になっていたが、帰国後に調べると、それは先ほど見えていたノモンハン村の塔の先端の様だった。
そのうち、また誰かが骨があると言い出した。今度は肩甲骨の肩関節の部分の様だ。穴を掘り水を与えて線香をあげた。成田山のお二人が読経を上げ、皆で手を合わせた。
12:30。1時間が過ぎた。「今日はもう無理か・・・」「それとも応援を呼びに行った方が良いのでは?」そんなことを考えていると、12:30分、ようやくエンジンがかかった。セルを使わないで斜面を使っての押しがけだった。多少遅れたが、慰霊には何かしらトラブルがつき物だから、これもモンゴル流だ。
チョクトン兵舎の前を通過してホルステン川を渡った。今年のホルステン川は辛うじて水溜りが残り、完全に干上がる事だけは免れていた。ノモンハン事件当時は腰まで浸かる深さだったという。もちろんそんなに深くては我々が渡ることもできない。恐らくこの20年ほどは干上がったままなのだろう。
雨が少ないので蚊の発生が少ないのはありがたい話だ。
【川又、東捜索隊玉砕の地】
12:55。ホルステン川を過ぎて程なくすると、『川又、東捜索隊玉砕の地』に到着だという。「あれっおかしいな?まだ先のはずでは?」と思っていると、以前の場所から、より正確なこの場所に移動したのだと聞かされた。
東捜索隊は、バルシャガル西高地付近に布陣するソ蒙軍に対し、本隊・山縣支隊と挟み撃ちする作戦のため、ソ蒙軍の背後あたるハルハ河とホルステン川の合流点『川又』から1.7km東のこの地点に布陣した。しかし、ハルハ河対岸からの正確な砲撃と、川又渡しを渡河したソ蒙軍に逆に包囲され、今、私が目にしている窪地に追い込まれ部隊は全滅した。
STOさんが当時の布陣図のコピーを見ながら「この窪みがこの図で言うとここで、あの丘が地図ではこの部分になるでしょう。」と解説してくれた。元が手書きの地図とはいえ、今、自分が目にしている地形がそのまま描かれているのだから不思議な感じだ。西の方角を見ると、草原の先約500mの一帯に茂みがあり、その先のハルハ河は隠れて見えない。
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帰国後にGoogleEarthで調べてみると、茂みには一部途切れて開けている部分があり、その先はもうハルハ河の河川敷となっていた。そこで、現地で撮影した写真を詳しく分析すると、その茂みの切れ目がはっきりと映っているではないか。河川敷は陣地跡から一段低くなっているので、写真からハルハ河は確認することはできないが、写真の風景のまっすぐ先に川又渡しが存在することがはっきりとわかった。
陣地跡から川又渡しまでは1650m、ソ連兵の姿が見えたであろう河川敷の末端までたったの950m。永井団長の話では、第一次ノモンハン事件終結後の遺体回収当時にはそれほど木々は生い茂っていなかったと言うから、両者展望が利く中、かなりの至近距離で対峙したと言える。まるで川中島の戦いのようだ。
東捜索隊は本隊・山縣支隊に再三援軍を要請したが、結果として援軍は来なかった。そして偶然に居合わせて応援に回った浅田小隊と共に全滅した。STOさんの話では「東中佐の遺書を読みましたが、それはもう涙をそそる内容でしたよ。」とのことだった。
慰霊回向を済ませると、またしても「骨が見つかった!」という声が聞こえた。100m程離れた窪地に丈の長い大腿骨があるという。双眼鏡で確認すると確かに白い物が見える。少し離れていたこともあり、遺骨はそのままで先の慰霊場所へ進んだ。
【733バルシャガル西高地】
13:30。『バルシャガル西高地』に到着する。この場所の思い出といえば2つある。
一つ目は、平成13年、この付近の道沿いで日本軍の鉄兜を発見したことだ。その、鉄兜は額の部分に砲弾の破片か何かが命中しパックリと割れていた。たまたま道の途中でラグビーのボールの様な物が目に留まり、その時、偶然にもトラックが停止。お手伝いのモンゴル人ガンバトルさんと共にトラックの荷台から飛び降り拾い上げた物だ。その様を見る限り、被っていた日本軍兵士は即死だったであろう。もちろん破棄された鉄兜に破片が命中した可能性も考えられるが、戦争の生々しさを感じさせる代物だった。
もう一つは平成12年、733高地から見える窪地に、黄色や薄紫色の花々が咲き乱れていたことだ。窪地は雨が降れば池になるのだろう。この年は比較的、窪地に花が咲き乱れてる事が多く、雨が多い年だったと想像される。お花畑のような光景を見ているとここが凄惨な戦場であったことを忘れさせるばかりでなく、なぜ故に・・・という強い思いが込み上げて来る。これは現地を訪れた方であれば誰しも感じる共通の思いでもある。
【少し遅い昼食】
14:00。一旦、『川又、東捜索隊玉砕の地』に戻って昼食が届くのを待った。我々が到着して程なく、閣下のジープが土埃を上げながら全速力で走って来る。「昼食だー!」と全員が叫ぶ。
実は、前夜に昼食の段取りに関して、ひと悶着があった。効率良く慰霊を行うにはお弁当持参が望ましい。しかし、出発までに全員のお弁当をスレンさん一人で作るのは無理なので、適当な集合場所にデリバリーする段取りになっていた。(平成12、13年時は調理人や手伝いのモンゴル人が同行していた。)
しかし、慰霊の進捗状況を読むことは難しく、どこで合流すべきか?我々は、ああでもない、こうでもないと言い合っていた・・・。すると我々の様子を見ていた永井団長が大声を上げた「我々は慰霊に来てるんだよ!昼なんて適当に済ませればいいじゃないか!」その言葉を聞いて我々はハッとした。慰霊より観光気分、何が主目的か忘れていたからだ。永井団長がどういう想いでこの地に来ているのか?高齢の団長は本当にこの地で死んでも構わないという決意で来ているのに、我々は昼食のメニューや段取りでぐだぐだ言っている。例えるなら、危篤の肉親に駆けつけようとする時、夕食を晩餐にする人間がいるのか?そんな風に言われているようだった。
ノモンハン事件以降、各地の戦場と抑留生活を生き抜いた永井団長からすれば、昼食なんて適当に済ませればどうって事はない・・ということなのだ。我々と永井団長の心情のギャップを強く再認識した瞬間だった。
しかし、反面、このような考えもある。遠い日本からわざわざ過酷なスンベル村に来ている我々に少しでも快適に過ごしてもらいたい・・・そんな、スレンさんやミャマグル閣下の強い配慮だ。スレンさんは日本人の口に合うように食事のメニューをかなりアレンジしており、そのサービスは商売の範疇をかなり逸脱し、家族的な域に達している。事実、私はモンゴルの親戚の“伝”で旅しているような錯覚に陥っていた。
私は山屋だから積雪期の雪山で10時間以上行動し続けることも多く、食事は行動食のビスケットだけでも何ら違和感を感じない。もちろん自衛隊のレンジャー訓練を受けた方、レンジャー部隊に属されていた方もいて、それぞれ問題は無いだろう。しかしそれでは過酷過ぎるのである。後日、この夜の件が話題になった時、WTNさんの「あれは痛かったよねぇ」という言葉が忘れられない。いずれにしても、我々は戦争経験の無い平和な世代である…という点を再認識させられた次第である。
スレンさんから渡された包みを開けるとホーショルが2個、きゅうりの大きな輪切りが1個、細長いモンゴル?トマトが3個ほど入っていた。それといつもの韓国ラーメンである。毎回感じるが、草原で食べる食事は格別だ。それだけではない。スレンさんの料理の腕前も相当なものである。我々の口に合うように研究していることは言うまでもない。そのうち日本食が出てくるのではないだろうか。この味であれば、日本に来てモンゴル料理の店を出せば大繁盛間違いなしである。そう感じるのは私だけではなかったであろう。
食事が済んでから周囲を散策した。慰霊場所のすぐ東側に陣地構築の跡が見える。STOさんに見せてもらった地図にも、まさにその表記があった。以前の位置からここに移動した経緯は不明だが、私のうろ覚えの記憶では、小田洋太郎さんの強い進言により移動となったようだ。
その条件としては戦闘詳報に記載されている①川又渡からの距離②この地の地形③布陣の遺構の有無④○○高地との位置関係。が決めてとなったようである。(その“○○高地”とは“銃眼高地”だったと記憶しているが確かではない。銃眼高地との位置関係をずいぶん拘っていらっしゃった。)
遺構に近寄って見ると不思議な事が判明した。遺構として確認できるのは援体壕らしきものが3~5。比較的小さいので戦車を入れたものでは無さそうだった。不思議なのは援体壕が東を向いて構築されていた事だ。STOさんから見せて頂いた戦闘詳報による扇陣形はハルハ河の方(西)に向いていたから、恐らく川又渡しから攻撃して来るソ蒙軍に対する布陣図だろう。西を向いた陣形にに対して東向きの援体壕では矛盾が生じる。もちろん遺構が日本軍のものかソ蒙軍のものか?またいつの時期のものか?定かではない。この件に関しては今後詳しく調べて見ようと思うが、この点を除けば、私の山屋として経験上、地形と地図の読みに関して言えば、この慰霊柱が建っている窪地がピンポイントで『東捜索隊玉砕の地』に間違いないと考えられる。
14:45。お昼休みも終わり、出発。生田大隊・金井塚方面に向かうが、突如車は左に曲がり、午前中の『733バルシャガル西高地』に向かった。何か忘れ物でもしたのだろうか?慰霊地点の近くに車を止め、皆、車を降りて歩いていく。何んだろうと思って聞くと、今回もまたブルガンが遺物を大量に見つけたのだという。『733バルシャガル西高地』から歩くこと3分。隣の丘まで移動した。
【遺留品が多数散在する場所へ】
15:00。正しい?バルシャガル西・733高地、司令部跡
その場所に着いてみると窪地の斜面には、それはもう多数の遺物が散乱していた。なぜ今?という疑問は残るが、慰霊柱の立っている場所から死角になっている事と、恐らく他の場所の同様、表面の砂が吹き飛ばされたか何かで、今回、地上に露出したのであろう。
発見したものは缶詰の缶・多数、日本軍の地雷、ソ連戦車・装甲車用の車内機銃の弾装・多数、ソ連製手榴弾、そしてソ連製の、底部に8つの噴出孔の開いた直径100mm程の砲弾(※後日、八九式重擲弾だと判明)、ソ連戦車・車内機銃用の弾装、など多数である。この場所は733高地の司令部跡を占領したソ連軍が再利用し、そのまま放置された可能性が高い。
八九式重擲弾は、積み重ねて置いてある一番上の部分が地上に露出していると考えられ、35個程あった。砂を掘り起こせば更に数は増えた思われる。しかし、それは余りに危険だった。現地で見つかる手榴弾、擲弾、砲弾の類は、中の火薬類や信管が生きている場合が多く、実際、それらを触った現地住民が多く亡くなっている。以前、邦弘さんが三八式歩兵銃の弾丸をばらして、中の火薬に火を着けた所、勢い良く燃えたという。タイシルが手榴弾を持ち歩いて地面にポンと置いた時は「もっと丁寧に扱ってくれ!」と全員が声を荒げたのは言うまでもない。
日本軍の地雷は、中に布に包まれた黄色の炸薬が詰めてあったが、炸薬は固まった小麦粉のように変質しており、爆発の心配は無かった。地雷の炸薬を手で触った永井団長は、その後手を洗うことが出来なかったのでスンベルに滞在中、手が黄色いままだった。
15:30。遺留品が散乱する場所を出発する。
道中の30分間、麦畑のように見える草原を何ヶ所か通過する。比較的、雨の多い時期は湿地帯となるのであろう。前を行く1号車の轍がくっきりと草原に残る。場所によっては葦の茂みのように背の高い草が生えている所もある。比較的車高の高い4WDのプルゴンだが1号車のタイヤが全く見えなくなる事もしばしばだった。
【生田大隊陣地跡・731高地】
15:45。『生田大隊陣地跡』に到着。慰霊回向。
高緯度地域の太陽は既に西に傾きつつあり、逆光となったハルハ河対岸の景色が、1本の黒く太い水平の線となって見えている。そこにハマルダバの戦勝記念塔の垂直のシルエットが、小さくツンと立って見える。戦場の狙撃手は、自然の線以外の、不自然な直線などを探して敵の狙撃手を見分けるという。戦勝記念塔がどこから見ても目立つのはそのためだ。
慰霊柱はおおよそ東の方角、つまり日本の方角を向けて建てられているので、この時間帯になると太陽に向かって焼香すことになる。同時に全員の記念撮影は逆光となるので、少し工夫が必要となってくる時間帯でもある。
【ロ号陣地跡、金井塚大隊(キルデゲイ水)】
16:25。『金井塚大隊跡』に到着。ここはキルデゲイ水と呼ばれる沼地に囲まれている。“水”と名の付く地名は淡水である事を示す。この一帯は比較的、葦の茂みのような場所が続く地形なので、雨の多い時期は湿地帯となるのだろう。金井塚大隊陣地跡では、周囲を湿地に囲まれていたため、防御しやすく、損害を最小限に抑えられたと聞く。他の慰霊場所とは異なり、周囲を背の高い草や緑の茂みで覆われた美しい場所だ。
【伊勢部隊、森川大隊陣地跡】
17:05。『伊勢・森川大隊跡』に到着。太陽は更に低くなり、慰霊柱の影がずいぶん長くなった。巨人化した自分の影が、風景写真に入るようになってきた。この場所は福岡の石橋さんの御主人の慰霊場所となっている。もちろん混乱した当時の状況では御主人が何処でどのように亡くなられたのかはわからない。
3ヶ月の短い新婚生活でご主人を失われた石橋さんは、その後、女手一つで娘さんを育て上げ、この場所まで来るようになった・・・その万感の思いが詰まった場所である。数年前から現地慰霊に参加できなくなった石橋さんに、帰国後、現地慰霊に行って来た報告した。もちろんこの場所で撮影した写真で絵葉書を出したことは言うまでもない。
【レミゾフ高地】
17:30。『レミゾフ高地』に到着。 太陽の角度が変わると、昼間とはまた異なった草原の表情が見られるようになる。
この高地の呼び名は、7月8日の戦いで戦死したソ連軍の狙撃連隊長I.レミゾフ少佐の名前に由来している。日本軍の直撃弾を受け、この付近で戦死して以来、ソ蒙側ではこの高地を“レミゾフ高地”と呼ぶようになる・・・であると同時に8月のソ連軍大攻勢以降、日本軍死闘の現場でもあった。
地形が険しく車で傍まで行けないので、少し小高い丘の山頂まで慰霊の道具を担いで登る。ひざの悪い永井団長にとっては辛い場所だ。それでもSTOさんらに支えてもらいながら登って来る・・・。まさに執念だ。浜さんにとっても同じだ。身体を支えてもらいながらやっとの事で頂上まで登ってくる。「車で待ってるわ・・・」なんて事は絶対にありえないのだ。
丘の上には慰霊団の建てたステンレスの慰霊柱とは別にレミゾフ少佐を記念する石碑も建っている。I.M.レミゾフという名と共に、1989年に建てられた事が掘り込まれた文字から読み取れる。
ホルステン川にも近いため、対岸には午前中に脇を通過したモンゴル側の慰霊碑も見えていた。
ここは、今回、唯一の遺族参加者となった浜さんのお兄さんの慰霊場所となっている。浜さんとお兄さんの逸話は余りに悲しい物語であり、私はその話を邦弘さんから聞いたのだが、その時思わず涙が出そうになった。
浜さんは幼い時にお兄さんと遊んでいて顔に大怪我をした。成人してからもお兄さんはその事を自分の責任だと考え、気にしていたという。出征の際、お兄さんは浜さんに「自分が戦死したら、その恩給で東京に行って手術をしなさい」と告げたという。その後、お兄さんはノモンハンで戦死。浜さんは遺言通り手術を受けた。
平成13年、『伊勢部隊、森川大隊陣地跡』付近で5体のご遺体が発見された。その時の邦弘さんの話では、浜さんだけが遺骨に付いた土を素手で丁寧に愛おしむように取り除いていたという。「浜さんには(全ての遺骨が)お兄さんの遺骨だと思えたんじゃないかな・・・」と。
【菊形砂丘】
18:00。『菊形砂丘』に到着。日没まであと少しとなった。高緯度地方である為、太陽が低くなるのは早いが、逆に日没は遅い。夕日を遮るものが無い草原なので太陽は水平線ギリギリまでねばっている。
菊形砂丘という呼び名は、この周辺に地図上で菊の御紋のような表記があったことに由来している。レミゾフ高地から西に600m程と近いので菊形の慰霊地点からレミゾフの石碑が目視できる。
慰霊回向が終わると、永井団長と邦弘さんが慰霊団の旗を手に記念撮影をしていた。永井団長に関係のある場所なのだろうか?
実は、満州国10万分1図『貝爾湖』に記載されている菊形の地形は、慰霊場所から更に2kmほど西の地点になっている。(川又の東捜索隊から南東に1300m)しかし、地図がそうだからといって、この場所が間違いだという根拠にはならない。現に日本軍の遺留品は多数発見されており、日本軍拠点があった事だけは確かだ。20年前の慰霊団初期の頃は参戦経験者が多数参加され、現地を確定して行ったと聞く。ノモンハン事件当時に菊形砂丘で戦った参戦者が、この場所を目視で確定したのならそれはそれで正しいことだ。
慰霊回向の後、装甲車の残骸を探すことになった。しかし、お目当ての場所に残骸は無かった。やはり他の残骸同様、屑鉄として回収されてしまったのだろうか。見つかるのは日本軍のビール瓶、サイダーの瓶やガスマスク、革靴や地下足袋、飯盒、コップ、たらい等であった。ガスマスクはキャニスターと防毒面をつなぐジャバラもしっかりと残っていたが、防毒面そのものは無く、レンズだけが残されていた。
我々はすぐに装甲車を探すのを諦めたがタイシルだけは粘って探している。どうやら彼の記憶では別の場所のようだ。我々も唯一の残骸が見れることに期待をかけた。残骸を探し始めてから20分程経過しただろうか「もう無理かな・・・」と諦めた頃、かなり離れた場所から「あったぞ~!」という声が聞こえた。慰霊場所から南西に150m程離れた場所だった。帰る方向でもあったので、そのまま車に乗って移動する。
【装甲車の残骸を再発見?!】
装甲車の残骸は、丘の中腹の窪地にさかさまの状態で転がっていた。この穴に転がり落ちたのか?はたまた、残骸を埋めようとしたのか?定かではない。穴が深いため回収されなかったのか?残されていたのはシャーシーとそれに付属する外板だけで、他の付属物は一切無かった。
邦弘さんが中に入って検分を始めた。日没真近ということもあり、この窪地に潜んでいた蚊が無数に飛び回り始めた。装甲車といっても側面の装甲板は薄く、まるで崖から転がしたドラム缶のようにゆがんでいる。(装甲は、野砲に取り付けてある防射板程度の厚さ)左右の装甲には直径60~70mmの穴がいくつか開いており、装甲の薄さ故、砲弾が炸裂せずに貫通した事を物語っていた。その他、小銃弾の弾痕は無数に開いており、防御力の乏しい車両で戦った搭乗員の苦労が偲ばれる。(なお、小銃弾の弾痕は、現地守備隊の兵士が標的とした可能性もあり、必ずしもノモンハン事件当時のものとは言えない。)
水平線に太陽が沈もうとする中、帰途に着いた。赤く染まった草原を夕日に向かって2台の車が疾走する。ふと気がつくと先ほどの蚊に刺された首筋が少し腫れてきた。人によって反応は違うのだが、私の場合、日本の蚊に刺された時よりもアレルギー反応が緩やかだ。刺された瞬間にチクッとした痛みを感じる時もある。中には腫れ上がって帰国後も痒みが残る人もいるらしい。
現地の蚊は日本の蚊に比べると2倍以上大きく、背中には茶色の毛が生えている。動きが緩慢なので、見える範囲にとまった場合は払い落とせば良いが、問題になるのは目の届かない、肌に衣類が密着している背中や肩の部分だ。しかし、大抵の場合、誰か気がついて払ってくれる。また、意外と虫除けスプレーが効果的なので、肩の部分に服の上から集中的にスプレーしておくと良い。
今回も装甲車の残骸の場所以外で蚊を見かけることは無く、捕獲してサンプルを持ち帰るという私の計画は10年ほど頓挫している。まぁその方が現地で過ごし易くて良いに決まっているのだが。
【ハルハ河にて】
19:20。ハルハ河大橋にて一服。おのおの手を洗ったり顔を洗ったりしてくつろぐ。「よし!明日は石鹸を持って来よう。」生まれて初めて、ハルハ河でシャンプーだ!
西の方角を見ると、先ほど沈んだ太陽の残光が空を赤く染めていた。この分なら明日も良い天気だろう。ハルハ河は空の色を反射してオレンジ色になり、その中を、顔を洗っている皆のシルエットが動いていた。
東の方角を見ると、ハルハ河大橋のたもとから沈んだ太陽の代わりに、月が昇って来た。月齢28日目ぐらいで満月に近い。
19:30兵舎帰着。