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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

④チョイバルサンから、陸路スンベルへ

平成22年8月24日(火) 日程4日目、モンゴル第3日目

【出発】
mong10_05a   5時起床、5時半朝食。出発は6時の予定だったが、ガソリンスタンドで3台分の給油を行った為、街を出たのは実質、6時半となってしまった。3台分の給油を待っている間、スタンドの周辺を野良犬がうろついているのが見えた。何となくチョイバルサンの日常が垣間見れた気分になった。

06:30。ガソリンスタンド出発。私にとってチョイバルサンから先は未知のゾーンである。一体どんな風景が広がっているのか?その風景に立った時、自分の心境がどう変化するのか?全く想像がつかなかった。

mong10_05b   太陽の方角に向かって走る。街の外れで道路は未舗装となり、その先は水平線の果てまで延々と草原が広がっていた。街の外れから続く果てしない草原・・・。この感覚は、日本の生活では、まず馴染みがないだろう。しいて例えるなら、草原という海に小船で漕ぎ出すかのような雰囲気だろうか。



mong10_05c   進路を一旦南にとると、すぐにヘルレン川のコンクリート橋を渡った。「ここは見覚えがある!」以前、ヒストリーチャンネルで放送された『ノモンハン事件秘話・発見された軍医の手記』(77回)のロケで使用された場所だった。すばやく数枚の写真を撮る。決して有名な場所ではないが、TVで見た場所を訪れるというのは不思議な感覚になるものだ。(帰国後に調べた所、間違いなかった。)

  ヘルレン川を過ぎると風景は、周囲360度、見渡す限り緑の草原となった。未舗装の道は、緑の海の中に吸い込まれて消えてしまい、行き先を推し量るものは何もない。mong10_05d唯一、遥か先を行く2台の車が立てる土埃が我々の進む方向を示していた。後ろを振り返ると、チョイバルサンの火力発電所の煙突がまるで母港の灯台のように見える。
  延々と続く緑の草原・・・その一見単調そうに見える景色も、注意深く見ていると、生えている草の違いや大地のうねりによる地形の変化が組み合わさり、一つとして同じ場所はない。また、所々に遊牧民のゲルなども見え、飽きることはなかった。


mong10_05e 08:20。出発から2時間ほど走った。チョイバルサンの火力発電所の煙突がいつの間にか見えなくなっている。突然、道の両側をなだらかな丘に囲まれた美しい場所が視界に飛び込んできた。WindowsXPの壁紙“草原”の風景にそっくりだ。ここで1回目の休憩。トラブルも無く順調なペースである。


  GPSをお持ちの皆さんは各自、GPSを取り出して位置確認を行っている。mong10_05f中には出国後、ここで初めて電源を入れる方もいて、測位に時間がかかる事ををぼやいている。GPSは、最後に電源を切ってから500km以上移動して電源を入れると、新たなエリアの衛星を補足するのに最新機種で3分、遅いと15分以上かかる場合がある。
  ここまで来る途中で、所々にノモンハン桜が咲いているように見えた。その事を邦弘さんに尋ねると、それは全く別の種だという。私の見る限り、同種に見えたが、実物を確認できなかったのが残念だ。


mong10_05l   20分ほど休憩して出発。そこから先に見える風景は、まるで水平線に定規で線を引いたように真っ平らだった。緑色の草原は、地平線に近づくにつれ黒っぽく見えるので、空の下に黒っぽい線が1本引かれているようにも見える。試しに真っ直ぐな物を重ねてみたが、本当に凹凸が無い・・・。全く単調な風景だった。しかし、そういう風景に接すること自体が新鮮に思えた。また、時折現れるノロ鹿の大群やモンゴル鷲、そして遊牧民のゲルが私の好奇心を刺激し、飽きることはなかった。

mong10_05g   その遊牧民のゲルに、近年、ある変化が起きている。草原で見かけたゲルは道から500~600mほど離れていたが、遠巻きに見ても、そのほとんどに風力発電、もしくは太陽電池パネル、衛星パラボラアンテナが設置されているた。遊牧民のゲルとて、電化の波は避けられないのだろう。もちろんこれらの設備を購入・維持して行くには現金収入が必要なのだから、それだけモンゴルの経済も成長したということなのだろう。また、自家用車が置いてあるゲルも比較的目についた。チョイバルサンまでガソリンを買いに行って、戻ってくるだけでガス欠になるような、そんな距離にもかかわらずである。単なる草原でのキャンプだろうか?単純な話だが実に興味深い。

【国境警備隊駐屯地】
mong10_05h 09:55。駐屯地にて休憩。周囲の草原はレンゲのようなピンク色の花で一面に覆われていた。あまりの美しさに全員、我を忘れて写真を取りまくっている。すると、ミャグマル閣下から軍の施設にカメラを向けないよう注意された。ここは駐屯地だ。閣下とすれば国の安全保障を預かる身であるから当然である。中国なら即全員逮捕だろう。注意しなければ・・・。10分ほどで出発。


mong10_05i   「なんだろう?」道から10mほど離れた所に、高さ1m太さ10cmぐらいの杭が、所々、道に沿うように打ち込んである。間隔も一定でなく、何が目的なのか?皆目検討がつかなかったが、その道端の杭の先端に、モンゴル鷲がとまっている光景がしばしば見られた。恐らく、それぞれの鷲には縄張りがあって、杭の先端は各自お気に入りの場所となのだろう。
  私は鷲の飛び方には独特の風格のようなものがあると感じている。私の自宅周辺には鳶(トビ)が良く飛んでいるが、鳶と鷲では飛び方の風格が違う・・・偏見でもなんでもない。鷲の方が大型で重量があるので風の影響を受けずにどっしりと飛行するので、風格があるように見えるのではないだろうか。そのモンゴル鷲も近年、アラブの富豪達が買い求めるあまり数が激減しているという。

【国境警備隊:メネン基地】
10:50。メネン基地到着。食堂にて昼食。メニューはピロシキと韓国のカップラーメンだった。ピロシキの具はお米と野菜で、私の知る限り、あまり見たことがない組み合わせだった。例えるなら餃子の中に焼き飯が入っているような感覚だ。しかし、口に入れた時のあっさり感は以外だった。もしかすると羊の肉などでうんざりしている我々を気使ってのメニューだったのかもしれない。

mong10_05j   メネン基地のトイレはモンゴルらしく、食堂から50m程離れた場所にポツンと建っていた。基地の方向から見えないよう、屋根のついた囲いがあるだけで、扉はない。掘った穴に板を乗せて板の間から用を足すといった具合である。日本人の感覚では隣と仕切られていることがせめてもの救いであろう。

11:50出発。メネン基地を過ぎてからノロ鹿の群れが目に付くようになった。4百~5百頭・・・いや水平線一面に見えた所を見ると数千頭はいたかもしれない。mong10_05k不思議なことに、彼らとしては逃げているつもりなのか?車と併走して延々と走り続けることが多々あった。小鳥の群れにしても同じで、逃げ惑いながら?併走して飛び続けていることが多かった。こちらとしては、写真撮影する分には好都合だったが、逃げ惑う鹿や小鳥達と一緒に走り続けるのは実に不思議な光景だった。

  メネン基地を出発すると明らかに風景が一変し、メネン高原に入ったことが分かった。なるほど、先ほど見えていた、定規で描いたような水平線の、その中に入ったのだった。

【メネン油田】
mong10_05m 12:45。メネン油田。ふと気が付くとうっかり寝てしまっていたようだ。車の窓から周囲を見ると、通り過ぎた地平線の彼方に巨大な柱が5本程建っているのが見える。話には聞いていたメネン高原の油井であろう。何十という油井が林立していると聞いていたので、どのような光景なのか興味があったのだが、想像していたほどの数ではない。眠気に負けてうっかり見逃してしまったのが悔やまれた。

12:55。休憩。毎度の事ながら、前の2台が道端で我々2号車が来るのを待っている。この付近は中国領が、尖った先端となって飛び出し、モンゴル側に食い込んでいる地域だ。一番近い所で道から4km弱の距離に国境が迫っている。

  我々が車を止めた場所から2km程の所に、モンゴル側の国境警備隊の施設が見えるが、その先の国境線は丘の陰になって見えない。丘と言っても、日本人の感覚で眺めていれば気がつかない程度の微妙な草原のうねりだ。その微妙なうねりの向こうに中国側の監視塔の先端がポツンと見えている。恐らくモンゴル側の施設は、中国側の監視塔から見られないよう、丘の影に設けられているのだろう。お互い少しでも優位な場所に着こうとしている、国境線の緊張感が伺い知れる光景だった。

  我々が前の2台に追いつく頃、皆は、一様に小用を済ませて一息ついている。どうも最後尾を走るのは割が悪い。スタートが同時なので、到着が遅いとその分、休憩時間が短くなる。私の場合、車を降ると、まず写真とビデオ、それぞれ360度の風景を撮影しなくてはならないので、大変不利だった。

mong10_05n   車を飛び降りると、背伸びをする暇も無く写真とビデオを撮影をし、小用を済ませた上で水分を補給していると、すぐにスレンさんの「マシン・ダー!」の掛け声がかかる。慌しく車に乗り込みながら、我々も真似して「マシン・ダー」と繰り返す。マシンは自動車、ダーは乗れという意味らしい。丁寧な言葉遣いなのか?実に怪しいところだ・・・というのも、モンゴル人ドライバーは口々に「トットト・ノレ!サッサト・ノレ!ツベコベ・イワズ・ノレ!」を連発していた。我々に下品な日本語を教えられたと、知ってか知らずか?

  閣下のジープは我々の乗るワゴン車と違い、荒地でもスピードが出せるので、出発するとすぐに車間距離が開いてしまう。後ろの状況を見ながら・・・などという事は一切なく、むしろ「俺に着いて来い!」といった感じだ。1号車の運転手ブルガンはそれでもジープに着いて行っていたが、2号車のジャガーは少々安全運転のように思える。とはいえ、相当に車間距離を開けないと、前の車の土埃で車内は大変なことになってしまうので、ある意味はジャガーの安全運転に助けられている。

  ちなみに未舗装道路の状況はかなり悪い。チョイバルサンからスンベルまでは凡そ310km。ニュージーランドの舗装路であれば3時間の距離だ。しかしモンゴルでは道の状況が一定ではなく、常に飛ばすことが出来る区間は少ない。雪解けの時期、道には大きな水溜りが発生する。ぬかるみを避けるため道は大きく迂回する。そして水溜りが乾いてからも、道は迂回したままで元に戻ることは無い。水溜りの跡が連続すると、日本の都市部の信号並みに頻繁に減速しないといけないので、平均速度はガクッと下がるのである。

【ハルハ河近づく】
mong10_05o 13:20。突然、道の脇に戦車や装甲車を入れる援体壕の痕跡が見えた。あまりに突然の出現だった。GPSを確認するとボイル湖の真南まで来ている。丁度、ソ連軍の巨大集積基地があったタムスクから北北東に40km程の場所だ。GoogleEarthでこの一帯、タムスクからボイル湖南端にかけての約60kmの線上を確認すると、援体壕や歩兵塹壕の跡が至る所に確認できる。場所によっては映画・スターウォーズの“デス・スター”の表面かと見紛うほどの場所もある。これらの跡が全てノモンハン事件当時の物とは言ってしまうのは危険かもしれないが、総延長60kmに渡る塹壕や援体壕の跡を、いったいいつ誰が何の目的で造ったのか?考えると興味は尽きない。

mong10_05p   時折、道から500mほど離れた草原の中に、何か構築物のようなものが見える。ノモンハン事件当時の遺構だろうか?何かわからない。GPSで位置確認をしておく。帰国後にGoogleEarthを確認すれば、詳細表示の地域であれば何かわかるかもしれない。

14:05。休憩。出発から7時間半が経過した。

  ぼんやりと東の水平線を眺めていると、突然、自分がハルハ河付近の見覚えのある場所に立っているような錯覚を覚えた。良く見るとバインチャガン周辺の景色に見えなくもない。ただの単調な草原にもかかわらず・・・である。恐らく草の種類や生えている密度、太陽の角度(緯度、時期、時間)などが、自分の記憶に合致したのだろう。GPSで自分の位置を確認した上での話なので、先入観はあったのかもしれないが、目の前に広がる風景は、我々がバインンチャガンから続く草原の一部に入ったことを印象付けるものであった。

  この頃から、道端に見える援体壕の数が極端に増え始めた。スンベル村に近づいてきた証拠だろう。しかし、まだまだハルハ河から20km以上も離れている。このような草原に、戦車や装甲車を隠蔽したソ連・モンゴル軍のしたたかさと、物量の凄さを改めて感じずにはいられなかった。

【ハルハ河】
  「建物だ・・・」道から見える構築物が人間の生活圏に近くなった事を伺わせていた。右手前方には農場の様な建屋、そして真正面には監視塔のような何かが見る。あと少しでスンベル村だろう。しかし、正面の構造物・・・高さは監視塔とほぼ同じだが先端の形が少し違う。何だろう?と思って注目していると、邦弘さんが「おっ、スンベルの戦勝記念塔だ!」と言った。もうそんな所まで来たのか・・・そういえば先端の形が星型のようにも見えなくもない。

  程なくそれがスンベル村の外れに建てられている『ノモンハン事件戦勝記念塔』の上半分であることが、はっきりと判別できるようになった。我々はハマルダバの丘の裏手(真西)に来ていた。車で現地入りをするのは、今回が初めてだったので、このような登場の仕方は予想外だった。

mong10_05q   左手に視線を移すとバインチャガンの方向からトラックが走って来るのが見える。その道沿いに延々と電柱が建てられていた。聞くとボイル湖方面の中国領から電気を引いているそうだ。9年前は電柱など無かったから、スンベル村に電気が通じたというのも理解できる。

  そのスンベル村は、20年以上前は1万人程が暮らす立派な街であったが、ベルリンの壁崩壊後にインフラが消滅。人々は去り、廃墟の町となったという。私が初めてスンベル村を訪れた2000年(平成12年)頃が一番ひどい状況だったようで、実際、国境警備隊の車両でさえガソリン不足に悩まされていた。

mong10_05r   前方に、先の2台が我々を待っているのが見えた。15時40分、スンベル村を見下ろす丘の上に到着。実に9年ぶりである。丘の上には屋根付きの丸いベンチが建てられてた。ノモンハン事件70周年対策なのだろうか?観光の説明書きの様な看板も見える。『戦勝記念塔』は斜面の途中に建ててあるので、我々の場所からは上半分だけが見えており、少し離れると電柱のようにも見えた。

  この場所に立つと、丁度、ハルハ河の東岸約30~40kmが一望できる。天気も良く、太陽もまだ高い位置にあるので、遠くはホルト・ウーラ、ハルツェン・ウーラ(共に標高100mほどの山)まで全て見渡すことができた。丘の斜面を吹き上がってくる風が心地良い。「この展望は・・・」当時の日本軍がソ連軍の重砲に狙い撃ちされ、苦戦したというのも無理からぬ光景だ。

mong10_05s   スンベル村の外れに目をやると、懐かしい『ハルハ河大橋』が見える。「直っている・・・」私が訪れた時は、橋床が半分落ちかけていたが、平成14~15年頃には完全に落ちてしまい渡れなくなっていたそうだ。以前、ご一緒させて頂いた東京の木島さんから、ハルハ河大橋修復中の写真を頂いていたが、この距離からでも橋が完全に修復されているのが見て取れた。

  9年ぶりにこの場所に立った感覚は実に不思議なものだった。それは感激や感動といった劇的なものではなく、心にズシッと圧し掛かって来るような・・・そんな感じだった。例えるなら昔見た映画を、9年ぶりに同じ映画館の同じ座席で見たようなとでも言おうか。また、平成12、13年の続きに、今、自分がいるような、そんな感覚でもあった。

  実に記憶とは面白い。劇的な事件を経験しても15年ほど思い出す機会が無かったものは、出来事があったことは覚えていても、そのシーンは完全に忘れていることがある。逆に繰り返し思い出していれば、些細なことでも、何年経っても鮮明に思い出すことが出来る。このノモンハン戦場跡で見てきたことに関しては、忘れることの無いよう、旅行記としてHPにまとめていたし、それを定期的に更新することで、記憶をつなぎとめておくことが出来たのかもしれない。

【スンベル村到着】
17:00。司令部に到着。これまでに度々現地司令官は変わっており、今年も変わってしまったということだが、続けてミャマグル中将の教え子ということで現地の融通は利くという。その司令官の乗った車と途中ですれ違った。汚れの少ないランドクルーザーに乗っているところを見ると相当羽振りも良いのだろう。

  指令部の門をくぐるとポプラ並木が20m程あり、正面に広場が見える。その広場を迂回するように通路があり、右に曲がると我々の泊まる宿舎がある。9年前に比べると、木々が生長して全体的に緑が多くなった感じだ。宿舎から中央の広場を見ると、丸い屋根付きのベンチが建ててあり、その隣にミャマグル閣下のゲルが張ってあった。閣下はこうして毎年のようにゲルを持ち込んで、家族で過ごす時間を楽しみにしているという。ちなみに、閣下は休暇を利用して我々に同行しているので、制服は着用していない。

  荷物を降ろして宿舎に入る。入り口のドアの右横にはネオンサインが掲げてあった。草原の東の果て、国境間近の基地には不似合いな感じではあったが、村に電気が通じている証拠である。キリル文字なので意味はわからないが“来賓用宿舎”とでも書いてあるのだろうか?暗くなってから見ると、きらびやかに点滅していた。
  宿舎の中に入ると、以前、廊下だった場所は立派な食堂に変貌し、中央に大きなテーブルが置かれていた。壁も真っ白な壁紙に張り替えてある。以前はこの場所に布団を引いて石井さんを含め数名が寝泊りをした。

  入り口右横には調理場になっていた。左横にあった洗面所には扉が付いており、まだ使用はできないが水洗トイレが設置してあった。以前置かれていた日本式に言うと『水チョロチョロ』と排水受けのドラム缶は無く、中国製の“ひねると水が出る洗面台”に変わっていた。ただし、水は相変わらず水道ではなく、別の所にあるタンクから引かれ、排水受けのタンクも別に設けてあるようだ。
  以前と同様、我々をお世話してくれる現地の方々が、水を運び排水を捨てに行ってくれるのだろう。

mong10_05x   私の部屋は成田山のお二人と同室となった。偶然にも以前寝た場所とほぼ同じ位置だったが、きちんとした寝室となっており、ベッドが3台設置してあった。当時は床に布団を敷き、ダシュナムさん、永井団長親子、東京の木島さん(当時、副団長)を含め5名が床に布団を引いて寝泊りした。馬糞の付いた靴のまま土足で出入りするのだから日本では考えられない話である。駅のホームで若い人がそのまま座り込んでいる事を考えると大した違いは無いのかもしれないが・・・。

  さて、ここで気になるのが悪名高い司令部の『トイレ』である。私が2回目に参加した平成13年、慰霊団は初めて司令部に宿泊したのだが、トイレの惨状?には全員唖然とした。そのトイレというのは地面を1.5mほど掘り下げた上に板を敷き詰め、用をたす部分に穴が開いてるだけで便器は無かった。周囲はレンガを積み上げただけの粗末な壁で囲われ、内部には防虫の為か?石灰のような粉が大量に振りかけてあった。屋根はトタン1枚だけで、壁との隙間から差し込む太陽の光が唯一の照明だった。当然、夜には懐中電灯を持参する必要があった。(両手が使えるヘッドライトが便利。)
  辛うじて雨風がしのげる程度の粗末なトイレだったが、扉が付いているだけ上等なのかもしれない。通常、モンゴルの地方部のトイレは扉が無く、入り口は生活圏と反対の方向を向いている。司令部のトイレは敷地内にある為か、入り口が手前になっていた。男性が小用をする時は、壁の方を向いて行い、大便をする時は入り口の方を向いて行う。
  粗末な構造は土地柄、仕方のないことだと割り切ったとしても、困ったのはその臭気だった。中に入るとアンモニア臭を上回る、強烈なオキシドール臭が鼻、喉をつき、呼吸するのも困難だった。その為か?ハエは殆ど飛んでいない・・・逆にそれが不気味だった。健康を害しないのだろうか?素朴な疑問を感じた。
  中に入る前に大きく息を吸い、トイレの中ではどれだけ息を止めていられるか?といった状態だと出るものも出ない。実際、雨の日はともかく、外の草原で用を足す方がすっきりして気持ちが良いのだ。

  今年は覚悟を決めての参加であったが、現地に着いてみると、以外や以外・・・トイレの問題は完全に解決していた。新しいトイレが敷地内に完成していたのだ。mong10_05yさすがに水洗トイレというわけには行かないが、壁は白いタイルが張られ木製の扉には“ドアノブ”と“鍵”が付いていた。一番驚いたのは照明が付いていた事だろう。それに便器が付いていた。便器とは言っても、床の穴を陶器製の枠で囲っただけのもので、日本式の金隠しの部分は無い。イスラム・トルコ式の形状にも似ているが、基本的にイスラム圏は水で洗う方式なので構造そのものが違う。モンゴル式は草原だから違いとしても(冗談)中国製だろうか?そして消臭のためだろう、インド製のお香が置いてあった。モンゴルの習慣では無いような気もする。オキシドール臭からは考えられない進歩だ。
  また、ひざが悪くしゃがむことが出来ない永井団長のために、椅子の中央に穴を開けたものが準備されていた。用をたす際にはそれを便器の上に置けばしゃがみ込む必要は無い。これらは親日家であるミャグマル閣下とスレンさんの心使いで実現したのではないかと推測される。

mong10_05y2   さて、その真新しいトイレを気持ち良く使った後、出ようとした際、ひと悶着があった。ドアノブを回したがびくともしないのだ。ロックを外してノブを回すが何回やってもダメだった。これは大変なことになった・・・トイレに閉じ込められて大声で助けを求めて外から開けてもらうなんて、考えただけでも恥ずかしい。いや待て・・中から鍵をかけて外から開けてもらうことなんてきるのか?これは困った。

  “鍵”と名の付く物は、それぞれ固有の癖などもあり厄介だ。3分ほど格闘しているうちに幸運にも外に出れたが、海外でこれほど焦ったのは、ニュージーランドのスキー場でチケットを紛失して帰りのバスを乗り損ねかけた時以来だった。この鍵の一件は後日理由が判明する。

【スンベル博物館】
mong10_05t 17:45。食事の後、スンベル博物館に出発。司令部とは村の反対側にあるので、しばし村の観光である。車窓から見るスンベル村の様子は9年前とほとんど変わっていなかった。廃屋だった大きな建物は更に崩壊が進み、未舗装の道は水溜りだらけで、あちらこちらにゴミが散乱している。とはいえ、多少雰囲気は明るく変わったように思う。表現は難しいのだが、多少活気が感じられるようになった。理由は村の風景に少々“色”が着いていたからだろう。小さな看板があったり、民家の壁や屋根がペンキで塗られていたり・・・といった具合である。

mong10_05u 17:50。スンベル博物館に到着。入り口のポプラ並木の緑は勢いを増しているように見えた。(今年が暖かいからかもしれない)車ごと敷地内に乗り入れ、博物館入り口正面に車を止める。以前、ベージュ色だった博物館は上半分が水色に塗られ、正面に見える兵士の巨大なリレーフも淡いピンクや黄色で彩られており、華やかだ。長年館長を務めたネレバートル氏は今年定年となり、新しい館長に代わっていた。その新館長が不在だったのでネレバートル氏が入り口の鍵を開けてくれた。

  館内の様子は全く変わっていなかった。照明が入ってなかったので暗く、冷たい雰囲気が漂っている。以前は自家用発電機を持ち込んで電源としていたので、照明は夜の限られた時間だけだったから、照明の消えた薄暗い館内は当時の雰囲気そのままだ。

  ガラスケースに収められた戦場一帯の立体図や、ソ連の宇宙飛行士が着用したヘルメット(なぜここに展示してあるのか?不明)も同じ場所に置いてあった。薄暗い廊下の向こうから、今にもガイドのツゥーラさんや通訳のハンダさんが現れそうな気配だった。草原の朝露で濡らしてしまった靴が何日も乾かなかった事が昨日の事のように思い出された。(以後、海外旅行では必ず靴を2足準備するようになる。)

mong10_05z   2階中央には壁面を白い大理石で飾った大きなホールがある。このホールはハルハ河戦争に参戦したソ連・モンゴル軍の各連隊の戦没兵士を祭っている部屋だ。
  周囲の壁には色とりどりの花輪が飾られ、鮮やかな赤色の連隊旗やモンゴル国旗が掲げてある。天井に設けてある明り取りの窓から入ってくる光が大理石の床と壁に反射してとても明るい。中央にはひときわ白く輝く『モンゴル建国の母の像』(台座含む高さ約4m)が置かれている。(記憶ではこのような名称だった。)薄暗い博物館1階とは対照的に明るく華やかな雰囲気だ。その中に、慰霊団が日本から運んできた成田山のFRP製の観音様やお地蔵様が一緒に祭られている。

  ここで、まず現地最初の慰霊回行が行われた。屋外の慰霊回行と違い、大理石を張り巡らせたホールでの読経は少しエコーを伴って聞こえ、厳かな感じがした。

  慰霊回行が終わり帰ろうとした時、特別に無料で館内を見ても良いという許可が出た。過去に数日間暮らした場所なので館内を撮影て回りたい所だが、展示エリアは当然撮影禁止。さらには館の関係者らしきモンゴル人が私の動きをマークしていたので何もできなかった。展示は以前と変わるところは無く、足を進める毎に記憶が蘇って来る。その中にモンゴル人ラッパ手で国民的作曲家であるビルワ氏の写真とノモンハン事件当時に使用したラッパが飾ってあった。ヒストリーチャンネル『ノモンハン事件秘話・発見された軍医の手記』(77回)で撮影に使われていた物であった。

  展示の中でSTOさん、NYMさん、OHRさんが異常に興味を示した物があった。それは8月の大攻勢の際のソ連・モンゴル軍の部隊の動きを表した図であった。当然、撮影禁止であったので御三方は非常に残念がっていた。しかし、その図は私が平成12年に、当時の館長であるサンダグゥオチル氏の許可を得て撮影していたので、帰国後に焼き増しをして送る事を約束した。

  展示も終盤に近づいた時、現館長が現れた。その館長の目は平成12年に訪れた際に嫌がらせをしてきた郡長の目に似て、好感が持てなかった。自分の居ぬまに勝手に開けて大勢で入って来て・・・と言わんばかりの表情であったが、無料での閲覧を許可してくれたのはこの館長だったのかもしれない。

mong10_05v   外に出ると、ネレバートル氏と永井団長が玄関前の階段に座っていた。夕方の薄暗くなった光の中で、限られた時間を愛しんでいるかの様だった。言葉は通じないはずだが遠巻きに見ると、親子が何か会話をしているようにも見える。いや、実際、お互い何かを語りかけていた・・・。途中からタイシルと石井さんが通訳に入ったが、異なる言語で喋ってもお互い心通じるものがあるのだろう。お互い、共有する時間が残り少なっていることを強く自覚しているに違いない。その光景を目にして、私は二人が積み重ねた20年という時の重さを感じずにはいられなかった。

  博物館を後にするにあたって、もう一ヶ所だけ見ておかなければならない場所があった。それはトイレである。トイレと言っても博物館の脇にある雑草の生えた茂みだ。そこは人生で初めて野○を行った記念すべき場所だった。mong10_05wしかし、この茂みには別の思い出もある。朝、この場所でしゃがみ込んでいると、茂みの向こう側を、調教中だった牧童と愛馬が通り過ぎた。彼らは私に気が付かなかった。しばらくするとパカパカッというひずめの音が聞こえてくる。「何だろう?!」と思って音の方を見ると、全力疾走して来る彼らの姿が見えた。その草原を疾走する様は、まさに“人馬一体”で、馬の背中から人間の上半身が生えているようにさえ見えた。愛馬にまたがった牧童は何か民謡のようなものを口ずさんでいる。佐渡桶さの始まり「ハァ~佐渡ぉえぇ」の「ハァ~」の部分に似た歌声だった。そして全力疾走で私の前を通り過ぎていった・・・。その光景を目にした時、私はこの国の、チンギスハーンの時代よりも、更に以前から脈々と受け継がれた騎馬民族としての遺伝子を、強く感じずにはいられなかった。曇りがちな朝ではあったが、私の記憶の中では朝日の中、緑色に輝く草原を疾走する人馬の姿となって焼き付けられている。10年経った今でもそのシーンを思い出すと背筋に鳥肌が立つ。

【司令部宿舎に戻る】
20:00。ミャグマル閣下や司令部の関係者を交えて宴会。私の右横2人目には、司令部宿舎で我々の世話を仕切る士官が座った。WTNさんがお酒を薦めるのだが全く手を付けない。私は閣下に「この方は今夜はお酒を飲めますか?」と聞いたが上手く通じない。ニュージーランド仕込みの英語では難しいのだろうか?その点、NYMさんは現役時代には英語の書籍を翻訳した経験もあるという事で、閣下と上手くコミュニケーションを取っている。OHRさんに至ってはロシア語ペラペラでミャグマル閣下とのコミュニケーションを満喫されている様子・・・。

  私は仕方が無いのでアルヒを飲んだ。アルヒはモンゴルウオッカ全般を指す言葉だが、本来のアルヒは馬乳酒をゲルのような草原の家庭で蒸留したものなので、アルコール度数はそれ程高くなく、日本酒と同程度の20度程だそうだ。ウォッカ文化はソ連(ロシア)文化であり、本来のモンゴル文化では無いという。私のコップに注がれたアルヒもコカコーラのペットボトルに入っている。見るところ純粋な自家製アルヒなのだろう。飲み口は殆ど水に近い・・・。微かな酸味と乳の香りがする。例えるなら、プレーンヨーグルトを食べ終わった直後の容器を洗って、水を入れて飲んでいるような感覚である。飲み口が良くついつい飲み過ぎてしまったが、それ程酔いは回らなかった。多分、蒸留が完全ではなかったのだろう。