title

ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

③日本大使館、ザイサンの丘~空路チョイバルサンへ

平成22年8月23日(月) 日程3日目、モンゴル第2日目

mong10_04a   今日も空は見事に晴れ渡っている。月曜日と言うことで、今日は市内は通勤渋滞が予想されるので、本日のスケジュールは比較的ゆとりをもって組まれていた。まずは日本大使館での朝食会。その後、観光で時間調整をして空港へ移動。空路チョイバルサンに向かうのだ。

  ヌフトホテルにはいくつか問題があった。初日の夜はお湯が出ず、冷水シャワーを浴びた方が多数いたのだが、私の部屋の問題は“トイレの水”であった。流した後にバルブが閉じないのでタンクに水が溜まらないのだ。その為、水を流した後は必ずタンクの上蓋を開けて内部のバルブスイッチを押し戻し、また蓋を閉じるという、七面倒くさい事を行わなければならなかった。とはいえ、大をした後で水が出ない!という緊急事態ではないので、我慢できる範囲ではあったが・・・。(なお、緊急時に遭遇した場合は、私の必須旅行アイテム『たらい』に水を汲んで流せば良い。)

【日本大使館へ】
08:00。ヌフトホテル出発。渋滞はまだ始まっていないので、8時40分には日本大使館に到着。門の所で「こっちこっち」と手を振っている人がいた。城所(キドコロ)在モンゴル大使である。驚いたことに、大使自らお出迎えである。正面ゲートが開き、正面玄関から大使館内へ入った。今までは、玄関脇の通用口から入り、直接二階の会議室に入ったのだが、今回は違った。正面玄関から入ると、絨毯張りの廊下が正面にあり、その右手に小さな記帳机がある。永井団長が時間をかけて記帳していた。

  今回、我々を迎えてくれたのは城所在モンゴル大使、矢富書記官、池部専門調査員の御3名であった。総勢14名が大きなテーブルに向かい合わせに座り、朝食会がスタートした。既に席は決められており、私の席は矢富書記官の正面だった。

08:45朝食会。
mong10_04c 大使と歓談しながらの朝食メニューは塩鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし、漬物、そしてご飯、味噌汁だった。食器には全て日本国の紋章が入っており、驚くべきことに私の名札にも金箔で紋章が入っていた。この日本大使館での朝食メニューは肉ばかりの食事が続いていた団員の皆さんにとっては非常に良い胃腸の骨休めになった。悪く言えば、これから1週間以上続く肉食中心の生活に向けた『最後の晩餐(朝餐?)』でもあった。皆さん、口々に「いやーほっとするなぁ」を連発していた。それにしても、この食事は完璧な日本食だった。どのように食材を調達されているのか?気になるところである。

mong10_04b   さて、我々は朝食をご馳走になりにわざわざ日本大使館に来ているわけではない。慰霊の現状を報告し、今後の慰霊のあり方を提案・陳情するために、大使共に大切な時間を割いているのだ。内容は以下の通り(会見は1時間半以上に及び、話が飛んだりしているので私が要約し、アレンジしている)

  現在、厚生労働省主体の遺骨収集が行われているが、モンゴル人の宗教観や現地の不発弾等の危険度から考えて大地を掘り起こすことは好ましくなく、また、我々が建てた現地の慰霊標柱もステンレス製であるため略奪に遭い、今後は全て消えてしまう可能性がある。
  ノモンハン事件の記憶を風化させない為にも、現地にがっちりとした日本・モンゴル両兵士の戦没者慰霊塔を日本国政府の手で建立して頂きたい。また、日本政府内ではダンバダルジャの抑留者墓地の記念碑建立とノモンハン事件を混同。十羽一絡げにして考える向きもあるが、ダンバダルジャは第2次世界大戦の抑留者墓地であり、歴史的に見てもノモンハン事件とは全く関連が無い。

  また、その他、話題に挙がった話としては

  • 災害などの緊急時対応などはロシア、中国の動きが早く、日本政府の動きはそれより1日遅れている。(ゾド・モンゴル雪害に関連して)
  • 企業も政府同様に反応が遅い。今、モンゴルではカナダ企業が一番活発で、日本の企業は石橋を叩いても渡らない状況になっている。
  • モンゴルでは留学生の説明会を開催すると数十名の枠に2500名も集まる。反面、日本では海外はもちろん国内転勤すら拒む学生が多いのが残念。
  • モンゴル人(学生?)は日本研究のためにNHKを見ることが多いが、NHKは大リーグなどアメリカの情報ばかりを流している。(国民の意識の方向がアメリカ向きになっているという意味)
  • ロシアのメドヴェージェフ大統領の、この時期の突然の訪蒙の裏にある本当の意図を考えなければならない。
  • 日本外交は生真面目すぎる。その点、モンゴルの外交は非常に上手(クレバー)である。


mong10_04d   こうして1時間半以上にのぼった会見を終了し、一同、大使と記念撮影の後、大使の見送りの中、日本大使館を後にした。大使館のゲートを出るとモンゴリアン・スカイの太陽が眩しい。この空はまぎれもなくモンゴルである。日本大使館でのひと時は、つかの間の日本帰郷であった・・・。ちなみに日本大使館の来客用トイレは高級ラウンジのトイレのようであった。


次はボクトハン宮殿に向かった。まだウィークデイ渋滞は始まっていないようだ。

【ボクトハン宮殿】
10:40。ボクトハン宮殿着。
mong10_04f 着いてすぐに気がついたのは、私がこれまでガンダン寺だと思っていたここが、ボクトハン宮殿であったということだ。ここは第8代活仏の夏の宮殿だという。中は写真撮影禁止(有料)なので、写真は1枚も無い。

  建物入り口の欄干に物語の様なものが描いてあった。中の展示は、ガンダン寺同様、チベット仏教様式の物ばかりであるが、なぜか欄干の物語の描き方が漢民族風に思えた。物語はわからないが、先祖を大切にせよというような意味の道徳的な戒めのような内容に感じられた。

  中の展示は第8代活仏のコレクションなどで、解説は全てキリル文字で書かれており、全くわからない。一部ロシア語なのか?OHRさんが解説してくれる。せめて英語で書いてくれていれば、多少なりとも理解できるのに残念だ。驚いたのは曼荼羅の刺繍の細かさである。絵で言えば1つの色で塗られている部分が、実は細かな模様の刺繍となっており、製作技術の高さが感じられた。それは曼荼羅に限らず、民族衣装に関しても同様であった。展示ひとつひとつを、じっくりと見ていくと時間がいくらあっても足りない感じだ。

mong10_04g   自分が最後で時間も迫っていると思いさっさと回ってマイクロバスに戻ると誰もいなかった。しばし、周囲をうろつく。外からの撮影はOKなので、宮殿の概観の写真を数枚撮影した。ふと、駐車場の片隅に目をやるとみやげ物ショップがあった。そういえば、ここは一度来たことがあった。永井団長の知り合いのタイバンさんのみやげ物店だった場所だ。後で聞けば、もうその方の経営ではないそうだが、当時はみやげ物を見に来て寺院の中には入らなかったことを10年ぶり?に思い出した。

【カシミヤショップ】
mong10_04h 11:25。カシミヤショップへ。ボクトハン寺院の駐車場から、歩いてもすぐの所にあるカシミヤワールド(カシミヤショップ)に移動。

  バスが動き出す直前に、ムルンちゃんがお母さんと一緒に一瞬だけ顔を見せた。ムルンちゃんのお母さんということはタイシルの姉か妹だということか・・・。

  私はみやげ物にカシミヤと言われてもピンと来ないのだが、中にきれいなトイレがあるというので入った。そのついでに店内や商品を見て回ったのだが(普通はショッピングのついでにトイレであるが・・)カシミヤ製品のデザイン・品質共に10年前とは比較にならない程向上していた。普段、私はおしゃれなど興味が無く、山岳ウェアを愛用している手前、カシミヤ製品よりはゴアテックス製のジャケットに心を動かされてしまうのだが、それでも洒落たデザインの帽子などの小物を見ているとつい買いたくなってしまうのであった。

【ザイサンの丘】
mong10_04i 12:00。トゥーラ川を渡りザイサンの丘へ。マイクロバスに乗ったまま上の駐車場まで行く。車を降りるとウランバートルの街が一望できた。空は雲ひとつ無く素晴らしい眺めである。邦弘さんが「変わったろ!昔と比べたら・・」と言う。ところが、実は私はザイサンの丘も今回が初めてだった。昔を知らないのだから比べようがないのだが、平成11年の成田山の法要記録に掲載されていたウランバートル市の写真の記憶はあった。その写真から比較すると、今の発展ぶりは、まさに昭和30年と昭和40年の10年間の違いぐらいはあるような気がした。

mong10_04j   ザイサンの丘から市の中心部を見ると、真正面にスフバートル広場と国会議事堂(政府宮殿)と国立競技場が一直線上に見える。つまり、これは意図して造られているということだ。昔、建物がまだ無かった頃には、国会議事堂の玄関に建つと、正面に国立競技場、ザイサンの丘・・と見渡せたのだろうが、今は高層建築に囲まれ、辛うじて見渡せる程度になっている。
驚いたことに、市の南東の外れには、なんとゴルフの打ちっぱなし練習場も見える。モンゴルにゴルフ場があるんだろうか?まぁ郊外に出ればどこでもコースが出来る立地条件ではあるが・・・。

  300段ほどの階段を登ると、丘の頂上にモンゴルとソ連の兵士を称える記念塔が建っており、塔の内側にはモンゴルとソ連の記念すべき近代史の出来事がモザイク画によって描かれている。
mong10_04k   その中に、ノモンハン事件の勝利を記念し、ソ連・モンゴル兵士によって旭日旗が踏みつけられている図がある。このモニュメントが建てられた時代(1971年)の世界情勢を象徴する構図だ。丁度、モンゴル人の観光ガイドが、関西から来たであろう日本人の団体に、このモニュメントの説明をしているところだった。「ハルハ河戦争で日本軍は大敗北を・・・」と教科書通りの事を言っている。私が初めてモンゴルを訪れた頃は、ベルリンの壁の崩壊直後のモンゴル民主化から10年程だったので、まだまだモンゴル国内では半日感情というものが強かった。しかし、今では親日派がほとんどであり、このモニュメントの場面を説明するモンゴル人ガイドもバツが悪いことだろう。

mong10_04m   その後、マイクロバスに乗り、丘の下にあるT34-85型戦車のモニュメントまで移動。確かこの戦車は市内のロータリーに設置してあったが、平成13年には撤去されていた。今回、ここに移動していたということがわかった。T34戦車といえば私が最後に作った戦車のプラモデルがT34-76型だった。実物を真近で見れるとは滅多にあることではないので、細部を写真に収める。どうやらこの部隊はハルハ河で戦い、最終的にはベルリンまで到達したようだ。

  次は、ヌフトホテルに戻り昼食の予定だったが、運悪く市内中心部のロータリーで昼食渋滞に巻き込まれてしまった。車線変更をしてロータリーを左折するだけなのだが、これに30分以上かかってしまう。お陰でホテルに戻るのに1時間近くかかってしまった。渋滞から開放され、ホテルに戻る途上で、大学生ぐらいの女性が数名、道端で“SKY”と書いた大きなプラカードのような物を掲げているのが見えた。スレンさんが“SKYマーケット”の秋の大安売りの宣伝のバイトだと教えてくれた。

【ヌフトホテルに一旦戻る】
13:20。ヌフトホテルにて昼食。またしても濃い内容の食事にビールという組み合わせである。しかし、モンゴルのビールは以外においしい。食のオリンピックといわれるモンドセレクション(ただし審査は毎年)の賞を取ったビールもある。

休息の間に、現地ノモンハンに持っていく荷物を整理した。

14:30、空港に向けて出発。

【モンゴル国内線で移動】
mong10_04n 15:00。空港到着。窓口オープンまでしばらく待ち、チェックイン。さて気になるのは重量であるが、慰霊関係の荷物があるので、個人の荷物は全てを合わせて15kg以内に抑えるようにとの指示があった。昨夜は15kg以内の収めるべく、荷造りで一生懸命になったのだが、ホテルに計りが無いのでわからない。窓口で計測した結果。自分の荷物はアタッシュケースが14.9kg、手荷物2.2kgだった。少しオーバーはしたものの、まずまずの出来である。次に気になるのが手荷物として持ち込み不可の物である。近年、モンゴルでは国内線のチェックが厳しく、毎年、一波乱あるとの話。持ち込み不可リストを見ると・・・やはりキリル文字で書かれており、いまいちわからない。しかし、絵には電池のようなものが描いてある。電池?まさか?と思いつつも、電池を取り上げられたらGPSが全てアウトなので、急遽、アタッシュケースの中に入れた。(これが後々、波乱を呼ぶとは・・・)国内線の係りの女性が妙に日本人っぽいのが印象的だった。

  セキュリティ検査では意外なことに“靴”を脱がされた。足首まである登山靴タイプのものはセキュリティチェックの為、脱がなければならないようだ。石井さんも脱がされていた。さて、全員の期待?の永井団長だが、やはり毎度のこと、チェックされている。今回はなぜか“爪切り”を所持。邦弘さんも思わず「なんで爪切なんか持ってんだよ!」と呆れ返る。全員、爆笑だった。

mong10_04o   離陸の時間が近づくと、迎えのシャトルバスがやってくる。飛行機の傍まで移動しタラップで搭乗する。今回乗る飛行機はロシア製のアントノフではなくスウェーデン製のサーブ340型という最新機種だ。以前、2回乗ったアントノフ(An-24)より小ぶりである。


16:50搭乗


16:55。離陸。
mong10_04p かなり急角度での離陸だった。空から見るとウランバートル市街の広がり様が一目瞭然だ。以前は何も無い草原だった空港の周辺にも、住宅密集地が数ヶ所できていた。今後、空港がウランバートルの外れの草原のど真ん中に存在したのが、過去となる日も近いようだ。市街地上空を通過した後、そこからは見慣れぬ風景が続いた。スンベルとチョイバルサンでは、若干、飛行コースが異うようだ。

途中で軽食としてマフィンが出た。

  1時間を過ぎた頃だろうか、平原に援体壕が目に着くようになった。チョイバルサンはノモンハン事件当時“サンベーズ”と呼ばれ、ソ連軍の物資集積地だったので、当時の遺構が残っているのか?そうしているうちに巨大な戦車壕(戦車が落ちて動けなくなるように掘った防御の溝)が見え始めた。タムスクの近くを飛んでいるのだろうか?いや、タムスクはチョイバルサンより先だ。そうしているうちに歩兵用の塹壕なども見え始め、夢中でシャッターを切る。すると急に高度が下がり空港に着陸してしまった。どうやらチョイバルサン空港を守る為に造られた防御用の塹壕だったようだ。「着陸時は電子機器の電源を落として下さい」というアナウンスに全く気がつかなかった。

【チョイバルサン空港に着陸】
mong10_04q   着陸した滑走路はさすがチョイバルサン空港!という感じだった。噂には滑走路はコンクリート製で波打っていると聞いていたが、実際は巨大なコンクリートのブロックを敷き詰めて隙間をタールで埋めた造りとなっている。こうでもしなければモンゴルの冬の寒さで舗装がめちゃくちゃになってしまうのだろう。GoogleEarthでも見ていたが、軍事空港ということもあり滑走路の脇には戦闘機を格納する援体壕が見えた。

  タラップを降りて滑走路を歩き空港ビルに向かう。写真をパチパチ撮りたいところだが、軍事空港ということで控え目にした。空港ロビーで迎えが来るのを待つ。

  空き時間を利用して、GPSの電源を入れ位置確定を行う。500km以上の移動の際は必要な処理だ。しばらくするとミャマグル中将閣下のジープ(運転手付き)とYAMATOカンパニーの車が迎えに来た。慰霊関係の重い荷物は昨夜ウランバートルを出発して、夜通し走り続けて運んで来たという。私はジャガーの運転する2号車に乗った。今後数日間は2号車が私の乗る車である。

18:30。チョイバルサン着、2号車

mong10_04r   閑散とした草原の一本道を、チョイバルサンの町へ向かって車が走る。空港道路という点ではウランバートルと同じ一本道だが、道路は未舗装で土ぼこりが凄い。スンベルに着く前からこれでは・・・と思う。町の方向を見ると、巨大な煙突から煙が上がっている。火力発電所だろう。初めて見るチョイバルサンの町は発電所の煙突以外に高層建築も無く、のどかな感じだった。“のどか”という表現は不適切かもしれない。正直な所、建築物の全てが老朽化して手入れもされておらず、コンクリートも木材も鉄骨も全てボロボロで、廃墟寸前の町に人が住んでいるような印象だ。実際、モンゴルの地方都市と言っても想像しにくいところがあると思う。GoogleEarthで衛星写真でチョイバルサンの街を確認はしていたが、実際、どのような雰囲気の街か?は現地に行くまで想像がつかなかった・・・これが正直なところだ。
  途中で陸軍の駐屯地の前を通過した。小型の装甲車が30台ほど並んでいるのが塀越しに見えたが、以後、この駐屯地の前を通ることは無かった。

【ホテルに無事到着】
mong10_04s 19:15。ホテル着。ロビーで部屋割りを行う。今回もSTOさんと同じ417号室になった。困ったことにエレベーターが無いので4階まで歩いて荷を運ばなければならない。鍵を開けて部屋に入ると、雰囲気はロシアの家庭風?でこじんまりとした良い部屋だった。壁紙のデザインが何とも可愛らしい。はっきり言ってヌフトホテルより居心地は良い。STOさんもお気に召した様子で「なかなかイイですねぇ~」と言っている。(後日、浜さんも同じ事を言っていた)部屋の各部の作りは相変わらず粗雑だが、“住めば都”と言う通り、清潔で快適であれば言うことなしである。

20:00。ミャグマル閣下を交えての夕食。永井団長と邦弘さん、閣下とタイシル・・とまぁ、親戚が久しぶりに集まったような雰囲気で和やかに夕食会は進んだ。テーブルは横に浜さんが座ったのだが、咳をされている。聞くと、日本で軽い夏風邪を引いていたのだが、モンゴルに来て本格的になったのだという。「こんなことは今までなかったのよ・・」と少し辛そうにされていた。

  夕食の後、部屋に戻り明日の準備をする。ポットでお湯を沸かしてアルミの水筒に入れた。明日からの生活用水である。(飲料水はミネラルウォーターが十分にあった。)部屋には電源コンセントが少ないので、充電はSTOさんと交代となった。STOさんのデジカメを見ると名札が付いており、部隊名のようなものが書いてある。聞くと職場から借りてきたのだそう・・・。さしずめ私なら本社・○○課という事であるが、職種が異なれば違うものだなぁと感じた。