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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

②羊毛工場跡(現:国立羊毛研究所)、ダンバダルジャ日本人抑留者墓地

平成22年8月22日(日) 日程2日目、モンゴル第1日目

【モンゴルの朝】
mong10_03a   爽快な朝。湿度70%の日本とは違い、さわやかな秋を先取りだ。また、真夏の日本から真冬のニュージーランドに行くのと違い、寒すぎることも無い。ぐっすりと眠れたお陰で爽やかな目覚めだった。朝食前にホテルの前を散策、写真撮影をしていると、赤ちゃんを抱いたモンゴル人女性が散歩をしていた。この親子もVIPなのだろうか?日本は夏真っ盛りで蒸し風呂のような日々が続いているが、モンゴルの空はどこまでも澄み渡って、本日の予定を後押ししてくれているかのようだ。

08:30朝食
09:45ホテル出発

  本日の予定は羊毛工場跡(現:国立羊毛研究所)を訪問し慰霊の後、ダンバダルジャ日本人抑留者墓地に移動し慰霊を行う。余った時間は市内観光である。

mong10_03b   マイクロバスは昨日と同じ席に座った。必然的に昨日ホテルに入った時とは反対側の風景が見える。草に覆われた山の上は険しい岩場となっており、斜度も30度以上はあるように見える。まるで雪が消えたニュージーランドのスキー場という感じだ。昨日は見えなかった建築中の別荘群も見ることができた。

  今日も朝からムルンちゃんが来ている。私の前の席に座っていたので、ここぞとばかりに私が使っているモンゴル語の本を見せると、ちょっとしたモンゴル語の勉強会が始まった。共通語は英語だ。こちらが教える日本語をムルンちゃんは一発でマスターするのだが、私がモンゴル語の難しい発音ができない。何回も小さな先生に注意された。なかなか厳しい先生だ。

【羊毛工場跡(現、国立羊毛研究所)】
mong10_03c 10:10。ムルンちゃんとモンゴル語の勉強をしているうちに、羊毛工場跡に到着。(正式にはモンゴル国立羊毛研究所になるのだろうか?)今は工場ではないが、かつてこの地は悪名高い『暁に祈る事件』の吉村隊の作業場所だった。ここの敷地のどこかに吉村隊で犠牲となった満軍・大石寅雄少校が眠るのである。これまで甥の大石英夫氏が伯父の遺骨を捜し求め、毎年のように慰霊団に同行してここを訪れていた。しかし、遺体の眠る場所は今もって定かでは無く、所長のナドミダ女氏が大石氏の気持ちを汲み取り、敷地の一角に小さな石を置いて拝礼場所を作ってくれているのだ。

mong10_03d   9年前、拝礼場所は、敷地の裏の空き地という感じだったが、今は周囲の木々も成長し、すっかり緑に覆われている。木立の緑が、モンゴルの澄んだ空気を通過してくる直射日光を、ちょうど良い感じで和らげていた。足元には芝生が茂って、まるでモンゴルのミニ草原である。周囲はビルで取り囲まれ、隣のビルのゴミ捨て場が視界に入るのが難点だが、それを除けば故人を偲ぶ礼拝場所としてはうってつけの場所のように思えた。

  その英夫氏が今年の8月上旬に亡くなったと、永井団長が告げた。平成13年にご一緒させて頂いたが、お話を伺う機会が無かったのが残念である。自分も8月上旬に伯母を亡くしているので少なからず他人事とは思えなかった。慰霊と同時に大石英夫氏の冥福を祈り、手を合わせた。

10:45。慰霊の後に研究所の3階の事務所でお茶を頂いた。この建物に入るのも9年ぶりでとても懐かしい。モンゴルの建物は実に不思議だ。日本のようにmm単位まで整然に作られていない上に、老朽化も激しいのだが、妙に愛着のようなものを感じる。すすで黒光りした日本家屋に入るのと同じ感覚かもしれない。まぁ、以前訪れたなじみの場所という思い込みが大きかったのかもしれないが・・・。

  応接室のテーブルの上手には所長のナドミダ女氏が座り、女氏を中心に永井団長、STO副団長、以下、成田山の平野、鈴木氏が座った。下っ端の私は別のテーブルに座る。9年前に訪れた時にも我々の相手をしてくれた女性がお茶を入れてくれたので、石井さんに名前を聞いてもらう。ニヒトヤと聞こえた(日本語的にはエンフトヤだそう)懐かしかったが、当時、特別に会話をしたわけでもないので、当然のことながら彼女は私を覚えていない。9年前の写真をホテルに置いて来たことを後悔した。

  さて、下っ端は別の席にと書いたが、これには理由がある。モンゴルでは年長者をとても丁重に扱う。常に集団の中で年長者を中心に全てが回るという感じだ。それは日本でもかつては見られた風習だが、今の日本は、活発な世代が世の中心になり過ぎているように思える。もちろん、活発な世代が社会の中心になっていくのは仕方のないことかもしれないが、モンゴルに来ると昔日本でも見られた風習が残っていることがうれしく感じられるのはなぜだろう。

  我々全員にお茶が行き渡る頃、永井団長とナドミダ女氏との話が始まった。通訳はミャグマル中将の部下で今日は非番のA氏。立命館大学に留学に来ていたという30代中頃の青年である。ナドミダ女氏が「以前、来ていた女性(石橋さんの事)は元気にしているのか?」と切り出す。永井団長は、「石橋さんは元気にしている」と答える。続いてナドミダ女氏は「実はこの建物を建て替える話が持ち上がっており、拝礼場所を別途確保したいと考えている。移動することに問題はないか?20年以上続いている行事であり、とても良いことなので、これからも続けて行きたい。」と語った。永井団長は(礼拝場所の移動に関しては)「元々あの場所が遺骨の埋葬場所でもないので問題は無い。」続けて「自分も、もう歳だから(ここに来るのは)もう今年が最後になるだろう。私が来なくなってもこの行事は続けて行ってほしい・・・。」そう言ってお金の包みを渡した。

  この永井団長の「今年が最後になるかもしれない」という言葉の重みをここで説明したい。
  現在、会の参加者不足は深刻な問題となっている。参戦経験者の永井団長と、お兄さんをノモンハン事件で亡くされた浜さんが唯一の遺族関係者となるが、その浜さんも今年を最後にしたいと言っている。過去には参戦経験者・ご遺族に一般参加を含めると30名以上の参加がみられた年もあったが、今年の一般参加は私を含め5名であり、参加者不足は否めない。それでも遺族関係者の参加があれば少ない人数でも催行する意義はある。
  遺族関係者が皆無となった時、過去の参加者全員でこの行事を盛り立てて行くモチベーションはあるのだろうか?常に10名程の参加者があれば、この会は継続して行くと思われるのだが・・・。
  次に、永井団長の影響力の大きさである。この旅行は目的が特殊なだけに日本・モンゴルの大勢の協力が無ければ成り立たない。20年以上に渡って永井団長が築かれたものはあまりに大きく、永井団長の参加が無くなった場合に、同様のサポートを受けることができるのか?はなはだ不鮮明なのである。成田山の協力に関しても、「私が生きている限りは成田山も協力してくれると言っている。」という団長の言葉を裏返せば、先き行きは不透明としか言いようがない。モンゴル側のミャマグル中将以下、現地守備隊の司令官とて同様である。

  会合は30分程で終了し、以前と同様にカシミヤ製品の即売会を経て出発となった。慰霊団が解散すれば二度と来れないだろう・・・そういう想いで羊毛研究所の建屋を出た。

  外に出ると、邦弘さんが見知らぬモンゴル人と親しげに話を始めた。どうやら羊毛関係の仕事をしているモンゴル人の知人と偶然にこの場で再会したようだ。相手は日本語が堪能なので、まるで旧知の友人のように楽しそうだった。

11:30。羊毛工場跡を出て、本格的にウランバートルの街を見る。まず気が付いたのはトローリーバスの数が減り、普通のバスが増えたことだ。また、以前は、乗用車はどこかしらぶつけた跡がある古い車ばかりだったが、今はきれいな新車(特に日本車)が多く見られる。当然、路肩でボンネットを開けて故障修理している姿も殆ど見かけない。とはいえ、運転は皆荒いし、クラクションも鳴らしまくっているのは以前と変わらない。

mong10_03e   市の中心部から郊外に出ると、突然、風景が一変する。ウランバートル市街の北側、セルベ川の河川敷を中心に地方から集まってきた人々が住むエリアがあるのだ。いわゆるバラック街とでも言うべきであろうか・・・。以前、このバラック街は、せいぜいウランバートル市街を取り囲む丘の中腹までがそのエリアだったのだが、今では見渡す限り丘の頂上まで埋め尽くされている。そして、その家々の屋根がとてもカラフルになっていた。以前の掘っ立て小屋というイメージから、住宅のような雰囲気に様変わりしていた。とはいえ、相変わらず雑然と無秩序に並んでいる家々ではあったが・・・。

【ダンバダルジャ日本人抑留者墓地】
mong10_03g 12:00。ダンバダルジャ到着。9年も過ぎれば当たり前だが、平成13年に建設中だったモニュメントが完成していた。その昔、ここには小泉元厚生大臣の訪問に合わせて急遽作られたモニュメントがあった。ノモンハン事件60周年(平成11年)以降、そのモニュメントは破壊と略奪の限りを尽くされていたが、現在のモニュメントは維持・管理もきちんとされている。


私の以前の認識では、mong10_03jこの新しいモニュメントには、ダンバダルジャに埋葬された方の写真を銅のリレーフにして、円形のモニュメントの周囲の壁にはめ込むことが予定されていると聞いていたが、途中で予定が変わったのか?桜の花びらのモチーフの焼き物のリレーフがはめ込まれていた。薄いピンク色の背景に濃いピンクの花びら、濃いピンクの背景に薄いピンクの花びら・・・という2種類のデザインの物が交互に配置されており、その数約50。

  不思議なことに花びらのデザインは、4枚のものや3枚、2枚のものなど・・・全てが5枚の花びらではなかった。「なぜだろう・・・」これは何かを意味しているだろうか?私には何か悲しい意味合いが込められているように思えてならなかった。


  平成13年にビデオ撮影した場所から、mong10_03f再度、ウランバートル市街方面をビデオ撮影をする。懐かしさに駆られて見渡すが、以前は無かった高圧線の鉄塔や一般の電柱が視界を横切っており、少し興ざめした気分となった。しかし、抜けるようなモンゴリアン・スカイにポッカリと浮かぶ雲は変わりない。そして空中をパタパタという音を立てて浮遊する謎のバッタも健在だった。


12:20。慰霊

12:35。ダンバダルジャ記念館に入った。
mong10_03k   以前のモニュメントは、今では屋根が付いてダンバダルジャ博物館になっていた。周囲の壁にその面影が残っている。中には昔のダンバダルジャの写真などが展示されており、どのような変遷を辿って現在の状態になったのか?が、わかるようになっている。写真の中には、土葬されていた遺骨を全て掘り起こして火葬に付した際の写真もあった。キャンプファイヤーの井げたの様な木枠を並べ、その上に御遺骨を一体づつ乗せ、一斉に火葬にしている写真だ。頭蓋骨がずらっと並んだ様が印象的だった。

  皆が博物館から出てくるのを待っている間に、本日の通訳をしているA青年が話しかけて来たので少し会話をしをした、年配の方が多い中、40代の私の参加が不思議に思えたのだろうか?

  全員がマイクロバスに乗り込むと、タイシル達はマイカーに乗ってウランバートル市内に戻った。

【昼食】
mong10_03n 13:25。スフバートル広場横のレストランに到着。この場所は、どう考えても以前『ボッフォ』のあった場所だ。店の名は『Modern Nomads』(現代の遊牧の民とでも言おうか) 店内は洒落た造りになっており、トイレも日本のラウンジ並に清潔だ。外国人客も多い。「飲み物は・・・ビールの方は?」と聞かれて思わず手を挙げる。モンゴルに来て食べ過ぎは注意しようと思っていたのだが、ついつい手が挙がってしまう。


mong10_03o   出てきた食事は、モンゴル風幕の内とでも言おうか、ピロシキ、ボーズ、ホーシュール、羊の茹で肉、など代表的な料理・・・日本人なら脂っこくて一気に食欲をなくすようなものがプレートに盛り合わせになっている。これまでの経験で、旅行中の食べ過ぎは禁物だとわかってはいるが、真昼間からビールを飲みながらこれらの料理を食べていると、ついつい食が進んでしまい、いつの間にか平らげていた。普段、私は肉料理を好んで食べることは無いが、ラム肉は大好きだ。お盆の時期は毎年ニュージーランドでラム・パイなどを主食に生活していたから、食べ慣れているのかもしれない。

  そうしているうちに、なんとダシュナムさんが突然現れ、永井団長の横に座った。私がこの9年間、気がかりだった事のひとつがダシュナムさんである。元気そうにされているので安心した。私の事は覚えていてくれただろうか・・・。傍に行って話しかけてみる。しかし、どうもリアクションから察するに私の事を覚えていない様子。いや、恐らく、記憶から完全に消えたのではなく当時の写真を見れば思い出すのだろう。ここでも以前の写真をホテルに置いて来たことが悔やまれた。しかし、高齢にもかかわらずお元気そうで何よりだった。9年前、別れ際に私が「また来ます」と言うと「この歳の老人は(生きているかどうか)わかりませんよ」と言われていただけに、再会出来たことは純粋にうれしかった。

【スフバートル広場】
mong10_03p 14:55。道をUターンして街の1画を回ってすぐにスフバートル広場へ到着。その変貌ぶりには驚くばかりだ。特に驚いたのはスフバートル広場の南東側に面する建物だ。近代的なガラス張りのビルが建ち、1階がヴィトンの店になっていた。マイクロバスから降りて国会議事堂を見ると、一部がガラス張りとなり荘厳な雰囲気となり、中央の巨大なチンギス・ハーン像が目を惹く。郵便局や電話局、オペラ座の雰囲気は変わりなしだったが、広場には外国からの観光客も多く、あらゆる国の人々が集っている感じがした。通訳のA青年が「国会議事堂の中を見たい方は私に言って下さい。私の権限で中に入れます。」と本当か冗談かわからないことを言った。(ミヤグマル中将の部下である為、本当かもしれない。)
9年前の国会議事堂(政府宮殿)

  ずいぶん賑やかで、華やかに感じられる風景ではあるが、このスフバートル広場の周囲に建つ建物の殆どが、日本人抑留者の労働で建てられたものであるということを、我々は忘れてはならない。私はヴィトンの入るガラス張りの高層ビルに違和感を感じたが、それは慰霊団の皆も同じ気持ちだったかもしれない。

【ガンダン寺】
15:30。次の観光はガンダン寺だった。このガンダン寺は非常に有名な観光スポットなのだが、どういうわけか?私は初めてだった。いや、自分が行ったことがあるガンダン寺ではなかったというのが正確な表現かもしれない。ということは、以前に前を通過したあの場所は?という謎が出てくるのだが、その答えは後日判明する。

  私の勘違いはさておき、ガンダン寺は有名なチベット仏教の寺院で、ウランバートル観光の目玉だ。スフバートル広場と同様に色々な国の観光客でごったがえしている。駐車場に到着すると不思議な車が数台止まっている。白色の絹(ハダグ)をサイドミラーに巻いた車だ。結婚式だろうか?聞くと、どうやら新車を購入して行う『安全祈願』の様なものらしい。ところがその『安全祈願』の済んだ車のど真ん前に我々の乗ったマイクロバスが止まったのだからたまらない。ドライバーはハンドルを何度も切り返しながら駐車場を出て行った。安全祈願の帰りに接触では洒落にならない。こういうこともお構いなしのモンゴルの交通事情であった。

mong10_03q   さて、マイクロバスを降りてしばらく歩くと、チベットのラサにあるポタラ寺院をミニチュアにしたようなイメージの建物が見えてきた。建物の周囲にマニ車が並んでいるのが見える。この中にご本尊が祭られているという。中入ると高さ約25mの金色に輝く本尊が祭られていた。(写真撮影は有料)その本尊の周囲はやはりマニ車で囲まれている。金色に輝く立ち姿の仏像ではあるが、奈良の大仏を見た時と同じような荘厳さを感じたのは私が仏教だからかもしれない。

  寺院といえばお参りが付き物だが、ここでは本尊に手を合わせるだけでなく、周囲に並べられたマニ車を時計回りに次々と回していく。その数約50・・・。私は前の女性が回した後を着いて行く順番だったので、惰性のついたマニ車を回すのは比較的楽だった。それでも本尊をぐるっと回って正面に戻ってくるまでに、右腕が筋肉痛になってしまうほどの数だった。これだけマニ車を回せば相当ご利益があることだろう。

mong10_03r   さて、本尊を拝んだ後、次に敷地内の東にある建物に入った。周囲を壁で囲まれたガンダン寺の敷地の中に更に塀で囲まれた寺があるのだ。ここは実際に僧侶が修行をしている場所のようだ。そこで成田山の平野さんが五体投地を実演してくれた。「今後の旅の安全を祈願して五体投地をしましたよ」と冗談みたいな事を言う。

  その中の一角にある建物に入ると、レジスターを置いた売店のようなものがあり、ごく少量の器に1杯程度の水を売っている。いわゆるお清めの水のようだ。
  壁に目をやると値段表のようなものが張ってある。通訳のA青年の話では、ご祈祷の種類とランク付け、金額が書いてあるのだという。それにしてもレジスターが置いてあるというのは興醒めだ。しかし平野さん曰く「こういうのは(在庫が無いので)ちょろまかしが多いので必要なんですよ・・・」とのこと。なるほど、現役の御僧侶のお話、妙に納得であった。

【国立デパート~マーケットで買物】
  行く最中、マイクロバスの車内でムルンちゃんが平野さんから数珠と衣装を借りて即席のお坊さんに変身した。妙に似合っているので「You are little Buda!』と言うと、意味が通じたのか?笑っていた。

16:20。国立デパートに到着。
mong10_03s ここは実に10年ぶりである。デパート前は実に華やかで、人通りも多く、女性のファッションも実におしゃれだった。バスから降りるとすぐにタイシルとムルンちゃんが先に行くので、何も考えずに着いて行った。すると、6階のスポーツ用品売り場に行き着き、すぐに“伯父さんが甥っ子にバスケットボールをせがまれている”の図となった。どうやら個人的な用事だったようなので、私は彼らと別れて一人でデパート内を散策してみることにした。とりあえず土産は買う気がないのだがトイレを探したい。ところがなかなか見つからない。そうこうしていると見覚えのある階段が見えてきた。平成12年の時にウォッカを買うために登った階段のようだ。

mong10_03t   この国立デパート・・・外観に面影はあるが、各フロアーの様相は完全にさま変わりをしており、当時の面影は全く無い。目の前の階段の石の手すりだけが、唯一当時を偲ばせていた。
  10年前、デパート内は装飾も一切無く、全てが灰色がかっていた。土産のウォッカを買うために一人で薄暗い店内に入ったものの、$USとモンゴルの通貨トゥグルグのレートがわからず値段がわからない。そこでガイドのハンダさんを呼んで買うのを手伝ってもらったのだ。ところが買ったは良いが、所持金が数セント足りない・・・。するとハンダさんが足りない分をトゥグルグ(日本円にして数十円)で払ってくれたのだ。全く、日本男児も形無しだった。

  さて、問題のトイレであるが本当に見つからなかった。店内地図を探し出し、それからお目当ての方向に行くのだが見つからない。ようやく探し当てたが、どうやらわざとトイレが見えないように隠しているみたいだった。

17:45。市内のスーパーマーケットに移動。
mong10_03u かなり現地色の濃い場所のようだ。(とはいえ、観光コースに時々入っている有名な所みたいだ。)中に入る前に石井さんから「ここは特にスリが多いので皆さん離れずに行動して下さい。」との注意があった。店内は個人の小規模店舗が軒を並べている。日本のスーパーマーケットのようにレジがあるわけではなく、ひな壇のようなものに品物が所狭しと並べてあった。昔の市場の雰囲気そのままの場所だ。(直訳すれば“市場=マーケット”ではあるが)ここでは皆さんは岩塩やキャビアを購入。それぞれ店のおばちゃん達と交渉している。日本人が気前良く買っていくので交渉成立の後、おまけで追加してくれたりもしている。なかなかローカル色が強く面白い場所だ。もう少しぶらぶらしたいと思っていると、どうやら閉店の時間らしい。我々を含め、客は全員追い出されてしまった。

  マイクロバスに戻るとバスの前で永井団長が座り込んでいる。どうやら疲れの為に喘息の発作が出ている様で、邦弘さんが介抱している。「時間が来れば収まるから・・・」と邦弘さんが言うので、皆、焦らずに待った。まだ、先は長いのに大丈夫だろうか?少し心配になった。

【夕食はまたもや濃く】
18:15。スーパーマーケットを出てすぐ、通りの反対側にある『アルタイバーベキュー』に入った。mong10_03vいわゆるバーベキューなのだが、システムが日本と違って少し面白い。各人好みの肉を取って自分でスパイスを振りかけ、調理場に持っていくとガラス越しの調理人さんが手際良く焼いてくれるのだ。問題は肉の表示が英語である事と、調理人さんに渡した肉が他のお客さんと同時に焼かれるので、自分の肉が大きな鉄板のどの場所で焼かれているのかを常に監視していないといけないことだった。
  私はラム肉を中心にキャベツとタマネギをアレンジし塩を少し多めに振って、コショウ風味で仕上げた。結果は我ながら上出来で、ビールに良く合った。いけない・・・またしてもビールを注文してしまった。食べ過ぎ、飲み過ぎには十分に注意しなければならないのだ。もうこの頃には成田を出発してから5食目の肉料理に皆さんうんざりされているようだった。

mong10_03w   アルタイバーベキューを出てホテルに戻る頃、車中からトゥーラ河越しに沈み行く夕日が見えた。第4火力発電所の煙突が夕日の中、シルエットとなって浮かび上がって見える。「モンゴルに戻って来たかぁ・・・」そんな言葉がポロッと口をついて出た。ほろ酔いで浮かれていたのかもしれない。夕焼けを見ながら、しばらく不思議な満足感に浸っていた。



20:00。ホテル帰着。シャワーを浴び、2次会にも顔を出さずに真面目に寝た。