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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.  モンゴル・ノモンハン旅行記

①自宅出発~ウランバートル到着

平成22年8月21日(土) 日程第1日目

【自宅出発。神戸から成田へ】
  今日の予定は神戸から成田空港の待合わせ場所まで行き、空路ウランバートルまで移動である。空路で約5時間、単独で南半球のニュージーランドへスキーに行くことに比べれば楽なものである。

05:05。日の出前に自宅を出発する。JR朝霧駅までは徒歩で13分程だ。実家脇のアパートに住んでいた9年前とは違い、駅の近くの丘の上に引っ越したので、ずいぶん楽になった。以前のように母の自転車に荷物を積んでもらい、送ってもらうようこともなく、リュックサック一つ担いで出発である。本日は、JR、ポートライナー、飛行機、リムジンバスを複雑に乗り継いで、羽田空港経由で成田空港まで時間に間に合うように行かなければならない。このパターンは過去に何度かニュージーランド旅行で経験済みであるが、今回はスケジュールが混乱しないよう、携帯電話のスケジュール機能に、分単位で予定を入力しておいた。こうしておけは、携帯を開くだけで先の行動が一目瞭然でわかるようになる。

05:18。JR朝霧。予定より1本早い電車に乗ることができた。秋には休日の度に、始発電車で六甲山トレーニングに出かけているので、朝早いのはお手のものである。むしろトレーニングの時より遅いぐらいで、これからモンゴルに行くという特別な感覚はなかった。

06:00。神戸空港行きポートライナーに乗る。
mong10_02a 神戸大橋を渡る時、日の出間もない太陽が朝もやの中、薄ぼんやりと見えていた。朝日が海面に反射していたのが印象的だった。

06:20。神戸空港着。搭乗ゲート前は家族連れでごったがえしていた。皆、リゾート気分で楽しそうである。夏休み最後の土日を東京のディズニーリゾートで過ごす計画なのだろうか?飛行機は定刻通り神戸空港を離陸した。

【羽田到着】
08:20。羽田空港に着陸。成田行きリムジンバスの出発まで30分しかない。ムービングベルトを何本も使って移動するのが苛立たしい。mong10_02bようやくリムジンバスの切符売り場に着いた時は、既に成田行き出発5分前となっていた。しかし、ここでトラブル発生!切符の自動販売機にお金を入れてボタンを押したものの肝心の切符が出てこない。とっさに『係り呼び出しボタン』を探したが、それも見当たらない。横のリムジンバスの受付は家族連れで長蛇の列である。これは困った・・・仕方が無いのでリムジンバスの乗り場まで走って行き、乗り場係りの女性が手隙の瞬間を見つけて緊急事態を継げた。あと3分ほどしかない・・・。その女性も走って受付まで走って戻り、売り場の係りに緊急事態を伝えてくれたので、何とか無事に切符を受け取って8時50分発、成田行きリムジンバスに乗れた。乗り場係りの女性の方、本当にありがとう。

【成田空港着】
10:00。成田空港第1ターミナル南ウィングに無事到着。まず、ABC宅配に頼んでおいたアタッシュケースを受け取りに行った。その際にすれ違ったスーツ姿の男性・・・エリアトラベルの石井氏か?一応、服装をチェックしておく。

11:00。定刻通り全員集合。先ほどすれ違った男性はやはり石井さんだった。永井団長や邦弘さんも成田山のメンバーと共にやってきた。今回のメンバーは、平成12、13年に一緒だった浜さんに加え、現役自衛官のSTOさん、自衛官OBのNYMさん、有志参加のOHRさん、WTNさんだった。成田山からは平野さん、鈴木さんの2名が参加。見送りには平成12年で一緒だった関川さんも来られていた。

  チェックインの後に場所を移動し、空港控え室で結団式を行う。永井団長は車椅子に乗っての移動だ。結団式は成田山の司会で進行し、永井団長の結団の言葉、各人の自己紹介及び注意事項、成田山のお守りを頂いて、滞りなく終了した。副団長はSTOさんとなった。

  空港控え室を出ると、MIATモンゴル航空の出発が遅れているというアナウンスが空港内に流れていた。

  特に用事も無かったので、そのまま出国手続きを済ませ、搭乗ゲートまで移動する。今回も土産はマイルドセブン2カートンだった。やはり平成13年の時と同様に『おまけ』が付いていたので、つい買ってしまった。今回のおまけは旅行用の多機能財布だった。

【フライト】
  搭乗ゲート前では出発までの間、永井団長やOHRさんらと話をする。初対面の方もいらっしゃったが、お互い知り得るノモンハン事件の情報を交換し合ったので、思ったほど暇を持て余すことも無く、機内に移動する時刻となった。

13:50。予定より20分遅れで離陸。私の席は44G・通路側。左横にOHRさん、その横が浜さん。通路を挟んで斜め右前が永井団長と邦弘さん。右横が成田山だった。夕食はチキンを選択。白ワインを飲む。MIATの客室乗務員は、以前はほとんどがモンゴル人だったが、今回は西洋風の顔立ちの方が多い。白系ロシア人?完全なブロンドヘアーの方に加え、タジキスタン、ウィグル系の顔立ちの方などで占められ、東洋系の客室乗務員は皆無であった。

  席が中央だったので窓からの景色はよく見えなかったが、時折、席を移動して外を見るとまだ明るく、遥か下に平原が見えた。

  平成12年、機内から窓の外に目をやると、プラネタリウムのような満天の星空。そして水平線から下半分は漆黒の闇・・・。その水平線から真ん丸い月が昇って来た。自分の視線より下から月が昇って来ることが不思議でもあり印象的だった。飛行機は深夜、ウランバートルに到着。空港周辺に明りは無く、少し寒かった。到着するとTV局の取材を受けている団体がいて大騒ぎ。そんな中、NHKに出演されていたダシュナムさんが我々の出迎えに来ていたのは本当に驚いた。

  平成13年は、飛行機の窓から中国の山東半島がはっきりと見えた。夕暮れ時にウランバートル空港に着陸。着陸の際に草原を1列に並んで走る車のヘッドライトがネックレスの様に見えたことが印象に残っている。

【ウランバートル到着】
17:30。ウランバートル・チンギスハーン国際空港に無事着陸する。着陸のショックは毎度のこと荒い・・・。今回は到着が早かったので、まだ日も高く、景色も見渡すことができる。丘の上のレーダー基地も9年前と変わらずそのままだ。空港構内はずいぶん様変わりし、当時の面影はあまり感じられない。邦弘さんも「去年とまた変わったな」と言っている。それでも国際線から入国審査までの長い廊下は当時の面影を少し残していた。

mong10_02c   ゲートを出るとすぐに現地旅行社の『YAMATOカンパニー』のメンバーが迎えに来る。社長のスレンさん、次期若社長のタイシル。ワゴンのドライバーはジャガー、マイクロバスを運転するのはドルチョさんである。おっともう一人、YAMATOカンパニーのマスコットボーイ、タイシルの甥っ子のムルンちゃんを忘れてはならない。年齢は9歳、彼は英語が堪能なので、私とは主に英語での会話となったが、おじさんと子供の会話なので英会話以前に会話になっているような、いないような不思議な感じだった。

  現地の旅行会社、YAMATOカンパニーと言っても、永井団長、邦弘さん親子にとってはモンゴルの親戚みたいなものである。ここで永井団長、邦弘さん親子とYAMATOカンパニーの関係を書いておこう。元々は、モンゴルの国防学校で教えていたミャグマル氏と永井一家との家族的な付き合いから話は始まる。それは10年以上も前にさかのぼるようで、私も9年前の渡蒙の前後で、ミャグマル氏と永井団長が、度々、空港で出くわしていた話を聞いていた。私の認識では毎年モンゴルを訪れる永井氏と、仕事の関係で自衛隊防衛学校を頻繁に訪れるミャグマル氏が、どこかで紹介を受けた後、空港などの公共施設でも、度々、接近遭遇を繰り返したようだ。そのうち自然に連絡を取り合うようになり、ミャグマル氏の息子のタイシルが日本に留学する際に永井家が里親になった。その後、奥さんのスレンさんがウランバートルで旅行会社を設立する話が持ち上がり、邦弘さんが社名のYAMATOカンパニーの“ヤ・マ・ト”の名付け親となった。その後、ノモンハン現地慰霊のモンゴル側の手配の一切をYAMATOカンパニーが仕切るようになったのだ。

  ここで日本側の手配を仕切るART(エリアトラベル)社長の石井氏のことも書いておかなければならない。平成13年の渡航の際に旅行会社の現地添乗員として、ノモンハン事件現地慰霊にかかわるようになった氏は、その後も毎年、現地慰霊とかかわり続け、3年前に独立。現在では日本側の手配の全てを仕切るようになった。つまり、平成13年から10年連続で現地慰霊に携わっていることになる。なぜそのような経緯になったのか?詳しくは聞いていないが、私と同様に永井団長の現地への執念とも言える想いに心を動かされたのではないかと考えている。

  慌しく全員の荷物を積み終えると、マイクロバスはウランバートル市街に向けて空港道路を走り始めた。車の窓から9年ぶりのモンゴルの風景が見える。遠くにウランバートルの象徴、火力発電所が黒い煙を出している。その光景を見ると、今、自分がモンゴルに来ているという実感が、心の底からじわっと沸きあがって来る。
  途中、凱旋門のようなゲートをくぐる。9年前と変わらない。・・・とはいえ、どう考えてもウランバートルの市街地はずいぶんと広がっている。この空港道路は、空港とウランバートル市内を結ぶ唯一の道路だが、以前は大草原の一本道で周囲には何も無かった。平成12年、深夜の到着で街の明かりが全く見えなかったのは、市街地から10km以上も離れた草原のど真ん中に空港があったからだ。しかし、今では道路の北側は全て民家で埋め尽くされており、草原と言えるのは南側だけになってしまった。

  突如、マイクロバスは減速し、ウィンカーを右に出した。この先に今夜宿泊するヌフトホテルがあるのだ。このエリアは政府関係者の保養地として管理され、途中のゲートでは兵士が24時間交代で見張りに着いている。警備兵のいる鉄製のゲートをくぐると、まるで国賓になったかのような気分だ。9年前にはホテルだけしかなかったと思われるが、今では閑静な谷間の両脇に別荘が建ち並び、それは昨年にも増して増え続けているのだという。建築中の別荘も数多く見られ、モンゴルの経済成長ぶりが感じ取られた。

mong10_02d 18:40。ヌフトホテルに到着。
部屋は116号室で、現役自衛官のSTOさんと一緒だった。STOさんは5年ぶり2回目の参加だという。私の母が佐賀の目達原補給所で服を作っていたことや、五郎大叔父の関係で補給所に勤めるようになり、同僚の家族の紹介で父と結婚したことなどを話していると、ふと私の風貌を見て「同業者のようですね」と言って笑われた。それもそのはず、出発の前日に3mmのスポーツ刈りでバッチリ決めて来ていたのだから無理も無い。

19:45よりレストランで夕食。マスコットボーイのムルンちゃんも参加しての夕食会だ。皆さん、初対面とは思えないほど和気あいあいと話が弾む。途中から、昨年までガイドをしていたというモンゴル人の通称『大ちゃん』が挨拶に現れた。今は朝青龍のように太って見る影も無い?が、痩せていた頃は野球の松阪大輔にそっくりだったのだという。夕食会での盛り上がりはそのままNYMさん、WTNさんの部屋に移動して2次会となり、酒宴は夜中の1時近くまで続いた。初日の晩からこうでは、明日からが思いやられる・・・いやいや、初日からこうでなければ(笑)