ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
1. 9年ぶりに再訪するまでに・・・
①この9年間にあったこと
「とうとう帰ってきた。」平成22年8月24日、モンゴル時間の15時40分。私はハルハ河とスンベル村が一望に見渡すことのできるハマルダバ近くの丘の上に立っていた。この場所に立つのは実に9年ぶり3度目である。太陽はまだ高く、南東の方角を見ると水平線付近には、なだらかな山姿のホルト・ウーラとハルツェン・ウーラが確認できる。
何ひとつ変わっていない・・・長いブランクにもかかわらず、違和感を感じなかったのは、9年間、この風景が頭の隅に存在し続けたからだろう。
この9年間、現地への思いは募るばかりであった。不思議なことに前回の渡蒙から4年ほど過ぎた頃から、何かに追われているような、不安な気持ちが続いていた。GoogleEarthで現地の衛星画像を眺めたり、このホームページを時折更新したりすると少しだけ落ち着きが取り戻せた。あらゆる面で、残された時間が少なくなっていることを、心の深い所が直感的に感じているようだった。
前回の渡蒙の翌年、平成14年の7月に職場での移動があり、事実上、長期の休暇が取れなくなった。それに加え、平成19年からは激務の連続だった。1週間何をしていたのか・・・それどころか、午前中に起こったことすら思い出せない、そんな毎日が続いていた。
しかし、そんな職場で良かった点は、年間休日がお盆と正月、GWに偏っており、長期の休暇が取れることだった。これを利用して趣味のスキーや山登を一般サラリーマンからは想像もできないぐらい積極的におこなった。でなければ自分の生きた証が得られないような気持ちがしていた。平成14年からは毎年、お盆休暇を利用して知人とニュージーランドへスキーに行くようになった。時間を工面して英会話スクールに通ったり、国際免許を取得したり・・・。平成17年にはニュージーランド南島をレンタカーで自由に走り回るようになっていた。傍目には優雅な独身貴族である。
年間休日は少な目だったが、サラリーマンにしては充実した日々を送っているのは確かだった。仕事の実態を知らない人から見れば優雅な生活だと羨ましがられる話だろう。しかし、現実には仕事と自分との板ばさみとなり、全く息抜きが無いハードな生活に疲れが見え始めていた。
母の伯父である西原五郎と連絡を取らねば・・・と思いつつ時間だけ過ぎて行った。おまけに、この数年は手紙を書いても返事が来ない。「どうしているのだろう?病気ではないのか?」
そんな平成20年の1月頃だったろうか、父が私の運転で郷里・佐賀の親戚廻りをしたい・・・と言い出した。80歳を期に、身体が自由なうちに郷里を一通り廻っておきたい、というものだ。しかし、神戸からの道中を考えれば最低でも5日間必要になる。ところが、職場は1日の有給休暇でさえ難しい状況だった。そうなると、お盆、正月、GWの、いずれかの長期休暇を利用する他に方法は無い。検討した結果、GWが一番適当だろうという話になった。そして、この年のGW、私が予行演習と下見を兼ねて、単独で親戚廻りをすることになった。私自身、親戚との付き合いは両親任せだったので、個人的に親戚付き合いを深める狙いもあった。そして、両親には内緒だったが、こっそりと大叔父宅を訪ねてみるつもりだった。
五月晴れの日、私が大叔父宅を訪れると次男さんが応対してくれた。覚悟はしていたが、次男さんの話は悲しい内容だった。五郎大叔父はケースワーカーの方と2人3脚で熱心に奥様の介護をしていたが、昨年倒れ、その直後に奥様が亡くなった。(H19/10)その後、リハビリに取り組み歩けるようにまで回復していたが、3月に再度倒れ、完全に寝たきりの生活になってしまった。現在では東京の長男さんの所に行っており、意識も無く自分達の子供すら確認できない状態だという。
あと1年、いや2ヶ月早く来ていれば、会って話が出来たかもしれない。時既に遅しである・・・もう少し話したいこと、聞きたいことがあったにもかかわらず、仕事を理由に自分から行動しなかった報いだった。
実は20年前に似たようなことがあった。西原五郎の姉である私の祖母『タマ』が亡くなった時のことだ。祖母が入院した際、母は足しげく佐賀まで帰郷していたが、当時、私は仕事の内容が危機的で、半年間、毎日終電で帰宅しているような状態だった。休みを取って見舞いに行くことなどできない。そのうちにそのうちに・・・と思っていると半年程で祖母は逝ってしまった。物心付いた時には、既に祖父母は『タマ』だけになっていたこともあり、元気なうちに会っておくべきだったと後悔した。そして二十数年後にまた同じ過ちを繰り返してしまったのだ。
松村戦隊長の救出に関する聞き取りは一通り片が着いていたが、一族の古い話や陸軍航空隊の創設期の貴重な話など、五郎大叔父には聞いておくべき大切な話は山ほどあった。そして一番悔やまれるのが、特攻で亡くなった大叔父の親友の名前を聞きそびれたことだ。五郎大叔父がその方と最後に会ったのは、連絡業務で着陸したとある飛行場でのこと、短い時間ではあったが近況を語り合い、その飛び立つ姿を見送ったのが最後だったそうだ。最後に「妻子をたのむ」と言い残してその方は離陸されたという。戦後、大叔父が知覧の特攻記念館を訪ねた際、その方の写真が飾ってあるのを見つけ、写真の前で男泣きに泣いたという。
その方が誰だったのか?あまりに悲しい話なので、その後、どうしても名前を聞くことができなかった。短いエピソードではあったが、大叔父からその話を聞いてから以来、私は特攻の話が身近に感じられるようになった。五郎大叔父と同期の方では?と想像してみるものの、全く手がかりは無い。知覧の特攻記念館・・・一度訪れてみる必要のある場所だ。
平成21年1月、五郎大叔父が亡くなった。予期していたことではあるが、気が付けば最後の渡蒙から8年が過ぎていた。本当にこんな毎日で良いのか?そんなある日、ふと横浜の永井団長を訪問してみようと思い立った。永井団長も相当な高齢である。会って話をするだけでいい・・・忙しい忙しいと思う前に行動しようと思った。そして平成21年11月、8年ぶりに永井団長と息子の邦裕さんに再会した。その時、来年、最後となるやもしれないノモンハン事件現地慰霊の旅に参加する決心をする。もちろんお盆と正月以外の長期休暇は取れないので、以前から考えていたことではあったが、平成22年の8月で会社を潔く退職することにした。四十代半ばにして人生最大の決断であった。
②渡航のための装備品
初めてモンゴルに行った時、私はまだ36歳だったが、海外旅行の経験は殆ど無く、唯一、会社の旅行で行ったグアムだけが海外経験といえるものだった。20代の頃は友人と車で日本各地を寝泊りしながら旅して回ったことはあったが、基本的に旅慣れていなかった。10年前、歩きのトレーニングや乗馬の練習など、いわゆる普通のツアー旅行ではありえない準備期間を経て、モンゴルという国を経験したことは、私の人生の分基点だったように思う。その後、登山やアウトドアに目覚め、9年かけていろんな経験してきた。その代表的なものが雪山での単独・山岳スキー登山であり、前述の通りニュージーランドへの個人旅行である。野外生活や異国での移動、生活、英会話など、今回の渡蒙はこの9年間の集大成となるように思えた。
そうは意気込んでみたものの、永井団長や邦弘さんの話では、この9年間で現地スンベル村はずいぶん様変わりし、時々停電はあるもののツアー旅行気分で行けるようになたという。反面、並みの46歳以上の行動力・体力を自負しているものの、激務の反動から来る鬱のようなものがあったり、老眼も少し気になり始めて急速に歳を取った感があった。海外旅行・アウトドアの経験は増えたが、体力面にいささか心配な面が出始めていた。
今回、準備した物で新たに追加された装備は特に無く、基本的に9年前の渡蒙の際と同じだった。準備に際しては自分の書いたHPを参考にしながら最終確認をした。そういう点では記録として作成したHPは正解だったと思う。準備に当り、前回の渡蒙から使っていない懐かしの物を押入れから引っ張り出したこともあったが、現地の状況により不要となった物も多数あるので少々アレンジを加えることになった。真っ先に対象から外したのはサバイバルセットと和食である。
そうしてリストに挙がった基本的な装備は、おおよそ毎年行くニュージーランドへのスキー旅行の装備から、スキー道具一式を除いたものとなった。毎年準備している物を、いつもの手順でいつものように空港宅配で送るだけだ。こうして考えると、9~10年前のモンゴル旅行が、いかにその後の私の活動の原点となっていることがわかる。
【除外した物・持って行かない物】
1.ポケットストーブ、固形燃料、食器、サバイバルポーチ、
純日本食(フリーズドライのお米、梅干、味噌汁)
2.雨具
ただし、愛用している防寒用のジャケットが登山用ゴアテックス製なので、防寒具以外に雨具を準備する必要がなかったという意味。ジャケットは寝巻きや枕としても使用。
【以前と共通の準備品】
1.カロリーメイトとスポーツドリンク
下痢の際の水分・栄養補給用に、カロリーメイト(ブロック)4箱とスポーツドリンク粉末(1リットル用)4袋を用意した。
2.アルミの水筒
さすがにミネラルウォーターで歯磨きをするのは抵抗がある。そこで、飲み水以外の生活用水を入れるために使用。煮沸したお湯を入れ、冷まして使う。
生活用水は主として歯磨き、たらいに水を溜めてタオルで体を拭く、携帯用ウオッシュレット等に使用。
3.マスク
現地では空気が非常に乾燥しており、寝る時に使用する。保湿が目的なので、インフルエンザ流行などで使用する不織繊維タイプよりも、従来の綿布タイプが良い。顔が汚れているので替えは多めに。
4.虫除けスプレー、蚊取り線香
蚊は少なくなったと聞いているが、ハルハ河での蚊の発生状況は現地に行かなければわからないのも事実。念のために準備した。
雨の少ない年は蚊が少ないとされ、この10年ほどは降水量も少なく、蚊の発生は少ないようだ。私の経験では、虫除けスプレーも蚊取り線香も非常に効果があり、日本の蚊よりも良く効く傾向にあった。
5.ビニールの地図入れと方位磁石
10年前に購入し現地で使った想い出の品。9年間、全く使っていなかったので痛みも無くそのまま使えた。
6.帽子、バンダナ
日除け、日焼け防止、頭髪の汚れ防止。現地は土埃が凄い上に風呂に入れない。頭の汚れを防止するためにも何か被っていた方が良い。これまで渡蒙で使用した懐かしの黄色のバンダナは、この10年間で縮んでしまったのか、後ろで結ぶことができなくなっていた。代わりに普段から登山で愛用しているツバ付ハットを現地で使用した。ハットタイプの帽子は現地の強烈な直射日光(空気が澄んでいるので)を遮り日焼け防止に役立つが、風が強いので飛ばされないよう十分に注意する必要がある。バンダナの場合、日光を遮ることができないのが難点。
7.靴は予備を含め2足
海外では日本とは違い、1日のうちで靴を履いて過ごす時間が長い。そのため靴を一旦濡らしてしまうと乾くまでの間、非常に不快な状態を強いられることになる。そのため私は海外に行く際、必ず予備の靴を用意している。移動中の普段履きと、慰霊中に使用する皮製の軽登山靴(ビブラムソール)を準備。これは乗馬の際にも重宝する優れもので、平成14年のニュージーランド旅行より愛用している。現地は砂地なのでハイカットが望ましい。
8.たらい
たらいは現地で身体を拭く際に使うが、浴槽の無いホテルでのシャワーの際にも重宝する。
9.ヘッドライト
両手が自由に使えるので重宝する。夜間、トイレに行く際に特に便利。また、場合によっては停電した際に使用。
10.トイレットペーパー 2ロール
もしも下痢に見舞われたら一気に消し飛んでしまうため、多めに準備。
11.ウエットティッシュ
厚手のタイプが良い。現地では顔や手を洗ったりする機会が極端に少なくなるので必需品と言っても過言ではない。(ただし、それで死ぬことはない・・・笑)
【買い直し品】
1.サングラス
現地では走り回ることも多いのでスポーツタイプを準備。日光、土埃、虫などから目を保護するため。
2.皮手袋
手の保護と汚れ防止。現地では日本のように頻繁に手を洗うことができない。日本ではあまり意識しないが、入浴で手の汚れはずいぶんと落ちているようだ。軍手だと細かい土汚れが通過してしまうので、皮製がベスト。安いゴルフ用の皮手袋を左右準備した。薄手でカメラの操作も楽だった。
【追加品】
1.小型の双眼鏡。
以前、土産用に購入したタバコに“おまけ”として付いていたおもちゃの双眼鏡が非常に重宝した。そこで今回は山岳用の小型双眼鏡を持参。普段、山では使うことが無いのだが、今回は非常に役に立った。
2.電動シェーバー
私は普段の旅行では、軽量化のため3枚刃の安全剃刀を持って行く主義なのだが、現地では水がふんだんには使えないので、これまでヒゲは伸ばしっぱなしだった。今回、現地では電気が使えるというので電動シェーバーが出番となった。
【進化した物】
基本的な装備品に大きな違いはないものの、この9年間で高度に進化したのが、カメラやGPSなどの電子機器であろう。これらの技術革新は凄まじく、特に2007年以降は爆発に近い感がある。ASA100のフィルム使う一眼レフカメラの出番はなく、重いムービーカメラも必要なくなった。代わりに、予備も含めた2台のデジタルカメラが今回の相棒である。
今回、持参するデジタルカメラは、写真撮影とハイビジョン動画の撮影が可能である。つまりカメラとビデオが一体となっており、1台で2役をこなすことができる優れものだ。
加えて、撮影枚数も飛躍的に増えている。撮影サイズ・記憶媒体の容量にもよるが、JPEG画像で2000枚以上、ハイビジョン映像で2時間以上という驚異的な性能である。この能力にはカメラの性能もさることながら、記憶媒体であるクラス6のSDHCカードの影響が大きい。テープなどの稼動部分が不要となるため構造がシンプルとなり、故障の頻度も激減。モーターが不要となり軽量化、果てはバッテリーの持ち具合にまで影響している。この先、10年後がどうなっているのか?GPSで衛星画像を見ながらナビゲーションし、撮影した写真をそのままWeb上の記憶領域に格納できる日も近いのではないだろうか。
1.デジカメ
Panasonic製 DMC-TZ10
撮影ポイントの緯経度がわかるGPS機能付。風景をワイドに撮影できる広角25mm、遠景は光学12倍ズーム。ハイビジョンでの動画撮影可能。主に旅行全般のスナップと遠景の撮影に使用。
Panasonic製 DMC-TF1
-3m防水、耐ショック機能付、風景をワイドに撮影できる広角28mm、ハイビジョン動画撮影可能。特徴としてバッテリーの持ちが良い。主に砂埃の多い戦場跡での撮影に使用。普段は山岳スキーで使用している。
上記、共に3~4万円程度で購入できる。10年前のビデオカメラの売値が12~15万程度だったことを考えると、コストパフォーマンスの変化も凄い。
ビデオカメラには少々思い出がある。平成13年、南渡しの調査から戻った時だ。我々は宿舎の鍵を持っておらず、本隊が戻って来るまでの間、ガイドのツゥーラさん達と一緒に、兵舎の食堂でお茶を飲みながら撮影したビデオを見ていた。それを見たモンゴルの人達はビデオの鮮明な画像に見入ってしまい、口々に「これは凄い!日本ではいくらで売っているのだ!」を連発していた。当時のビデオはSONYハンディカムDCR-TRV20だった。購入価格は13万ぐらいだったと思う。
ともかくも、経済成長の著しいモンゴルで、お金を稼いでこのようなビデオカメラを購入したい!というモンゴル人の気概のようなものを強く感じた。(なお、このDCR-TRV20は今でも時々使用している。現在のハイビジョンで撮影した画像のような鮮明さは無いものの、非常に美しい自然な映像が気に入っている。)
2.GPS
GARMIN社製 eTrex Venture HC
高感度受信チップを採用しており、室内でも窓際であれば衛星信号を受信できる優れものである。モンゴルの平原ではGPS信号の受信には最良の環境ではあるものの、過去、移動する車内では信号の受信状態が悪くなることが多々あった。今回、高感度受信チップによりこの問題も解消すると思われる。
GARMIN社製 foretrex 101
現地での破損、データの損失に対処するためバックアップとして準備。小型軽量で、本来は腕時計の様に手首に取り付けるタイプだが、高感度受信チップではないので、車に乗る際は窓側になるよう、ウェストバッグの肩紐に取り付けられるよう工夫した。
この2台のGPSには、過去に計測した現地の位置データをアップロードし、ナビゲーションできるようにした。
【その他】
1.地図
持参する地図はGARMAP2というソフトを使用して過去の計測データを地図データに反映させ、A4サイズで印刷。予備を含め数枚準備した。
地図データは、平成12年の渡蒙の際に、岐阜市立図書館から入手したソ連製衛星地図がベースになっている。複数に分かれていた地図をパソコンにスキャンし、戦場跡付近を1枚に合成した。(現在は入手不可との噂)
2.カメラバッグなど
前回の渡蒙の際はカメラを首からぶら下げ、フィルム・GPSを素早く取り出せるように登山用のベストを着用していたが、今回は登山用具メーカーの“モンベル”の肩紐付きのウェストバックを胸の前で装着し、デジカメ2台、GPS、予備のバッテリー、メモ帳を入れた。(foretrex 101は信号受信が良くなるよう、肩紐に取り付けた。)
3.手荷物用バッグ
同時に行動の際に、地図、ミネラルウォーター、お菓子などを入れるために20リットルほどのリュックサックを別途準備した。
③荷造り
アタッシュケースとは別に、1日分の着替えと生活必需品、カメラ、パスポート、$US、トラベラーズチケット等の貴重品関係を含めた荷物に分けて荷造りし、出発の1週間前には、ABC空港宅配でアタッシュケースだけを先に空港宅配で成田に郵送した。また、持ち物リストを作成しておき、成田に送った荷物の中に忘れ物があるのか無いのか?はっきりわかるようにしておいた。
これらの準備以外にも会社の仕事の引継ぎや退職の手続きを済ませ、後は出発の日を待つのみとなった。