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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

3.モンゴル、ノモンハン紀行

⑧(平成12年8月26日)モンゴル最終日~帰国へ

日程8日目、モンゴル第6日目

国立羊毛工場、テレルジ、お別れパーティー、ウランバートル空港

【羊毛工場】
mong18a  本日は雨。ホテルの窓から見る風景もどんよりと重々しく見える。
昨日、工場長が居なかったので再度訪問。しかし、朝早かったので我々が到着した時に工場長は自宅を出たところだったとか・・。

  この場所は「暁の拝礼」(暁に祈る?吉村隊事件)という物語の舞台になった場所だそうだ。当時、抑留された日本人の中に共産主義に感化され看守側と癒着して権力を傘に着る人間がいて、それが戦争中の上官をいびるという事がよくあったらしい。その日の気温は-40℃。「暁に拝礼しておけ」と命令された一人の元将校・・。一人屋外に放置され、暁に拝礼したまま凍死したという壮絶な物語である。
  記憶が定かではないが「人間の条件」という古い日本映画の抑留のシーンでこの話は盛り込まれていたような気がする。話のこの部分が実話かどうか確認できていないが、物語のモデルになった方の墓石が、この敷地内のどこかにあるそうだ。そして昨年、その方の甥子さんが慰霊に訪れたということである。
  工場長が敷地内の一角に場所を設けてくれていたので、我々はそこで慰霊を済ませた。
(追記)
  【吉村隊事件】:太平洋戦争終了後のモンゴル抑留での事件である。国立羊毛工場には吉村曹長の率いる隊と、元将校が率いる隊が作業に当たっていた。その元将校が他の地区に移動させられるや否や、吉村曹長は羊毛工場での日本人抑留者の実権を握り、モンゴル政府の公認で中佐にまで昇進する。工場のノルマを達成する為に吉村隊長は数々の刑罰を抑留者に対して行った。その中で残虐を極めたのが「暁に祈る」という歌を題材に吉村隊長が考案した「真冬の夜に屋外に縛りつけ放置する」という刑罰であった。それによる死者があったのかどうか?は不明である。また、反乱分子を押さえ込む為にスパイや内部告発も積極的に行ったそうだ。その為、他の地区の抑留部隊との交流もなくなり、次第に孤立化していったそうである。
(追記2)
  羊毛工場の一角にささやかな慰霊碑がある満軍・大石寅雄少校(中国語の少佐)が「人間の条件」のモデルになっていたというのは、私の当時の勘違いだった。その後、「人間の条件」を見て確認ができた。吉村事件の代表的な被害者が大石少校で、それが映画のワンシーンに採用されたと勘違いしていた。(ただし、映画内には事件を髣髴とさせるシーンは存在する。)
  平成12年当時は、「暁に祈る事件」が長期的に行われていた事を知らず、1事件=1死亡者=大石少校だと思い込んでいたのだ。正確には大石寅雄少校は吉村隊に収容され、トゥーラ河を渡って先の石切場での重労働により衰弱、石切労働の帰り道で力尽き亡くなられたという。実際、ダンバダルジャの墓地には大石少校の遺骨は無く、甥の大石英夫氏は遺骨埋葬場所を求め、毎年の様に羊毛工場を訪れておられるとの事だ。

  工場を出る時、門(鉄のゲート)が自動扉になっていたのでびっくり…「中で誰かが動かしてるんだよ」「いやちがう」などと大騒ぎである。門の上にセンサーがあったので間違いなく自動だろう。しかし「門だけ最新でもなぁ」と思わずにいられなかった。

【テレルジ(観光地)】
mong18b  雨の振る中テレルジへ、途中で雨のため道が急に濁流になっている個所があった。mong18fモンゴルでは雨が降ると草原が急に川になる。帰りが心配になった。雨は相変わらず降り止む気配がない。乗馬ができるかどうか心配だ。


mong18c  途中、木でできた橋を渡ると風景は一変し、カナディアンロッキーのような高原の風景になった。どう考えても草原の国モンゴルとは趣の異なる風景だ。奇岩の多い、実に奇妙な風景である。





mong18d  現地ではフレルバートルさんが出迎えてくれた。雨がひどく、途中からバスがスリップして動かなくなったので、分かれてバートルさんの4WDで上の寺まで上がった。ここでもフレルバートル家のもてなしを受けた。

  早速、暖かい乳茶を頂く。スキーウェアーを着ていたが、雨で気温が低く、ずぶ濡れ状態だったので、ほっと一息だ。上着を乾かしてもらう間は半そでポロシャツ1枚である。寒さのあまり、今までさけて通っていたウォッカを早く飲みたいと思った。

  ウォッカを飲みほすとモンゴル人は喜ぶ。無愛想だった若いバスの運転手も大笑いだ。どうやら、我々が”しかめっ面”で飲み干す表情が面白いらしい。やたら飲め飲めとすすめてくる。近くにハンダさんがいることもあって、その言葉が日本語訳になって伝わってくる。結局3杯ほどを一気飲みをした。横を見ると添乗員の横関さんが、口に含んだウォッカを飲んだ振りをして器に戻していた。じっと見ていると、やけくそになって飲み干していた。もう、みんなめちゃくちゃだ。
mong18g  宴の最後に水の入った器にヤギの肉を入れ焼けた石を入れる単純な料理が出てきた。食べる前に調理に使った石を皆に配る。これを握っていると健康になれるとか・・あちらこちらで「熱ちち・・!」と声が上がる。私は、手が冷えていたので「たいしたことないですよ」なんて言ってたが、石は熱くなかなか冷えない。そのうち、みんなと同じように「あちあち・・」と石をもて遊ぶようになってしまった。
  わざわざ子やぎを1匹ばらした最高のもてなしだったが、大歓迎で腹がパンクしそうだ。これ以上食えない・・と思ったが、口にしてみると予想以上においしい。手掴みで肉に食らいついた。脂身は除いたが、焼けた石を入れるだけの単純な料理とは思えない味だ。もっとたくさん回ってくると思っていたが、小さな塊を2つ食べただけで終わってしまった。

【モンゴル馬の乗馬】
mong18i  食事が終わってから、待ちに待ったモンゴル馬の乗馬だ。帰りの時間が気になったが、わざわざ乗馬教室に通ったので乗馬をせずには帰国できない・・。モンゴル行きのもう一つの目的と言っても過言ではなかった。
mong18j  モンゴル馬はサラブレッドより小さく、まるでポニーの様だ。私の乗った馬の鞍は木でできたモンゴル式のものだった。引き馬の状態で山の斜面を走る。軽速歩はピッチが小さくテンポが速い。盆休みの集中トレーニングの甲斐があって問題無く走れた。私が乗れることがわかったのか、引いてくれる人(後日写真で判明したがバートルさんの親戚の人だった)も走り出した。酔いでほてった顔に雨上がりの風が心地よい。3分程であったが、乗りこなせた事でとりあえず満足。無事、目的を果たす事ができた。

mong18l  乗り終わってから、裏にあったゲルへ。皆が来ないので入りにくい。帰ろうとするとロシア系の若者が、「どうしてこないのですか?」と日本語で話しかけてきた。「馬乳酒が飲めないので・・」というと「すすめませんので入ってください・・」と言う。
  ゲルの中には2家族ほど、10人ほどの人がいた。テーブルの上にはご馳走が並べられている。モンゴル銀行の方たちだった。こうやって休みの間に町からやってきて自然を体験するそうだ。しばらく懇談して記念写真を撮影し、ウォッカを1杯だけ頂いて「みんなが待っているので・・」といって退出する。もう少し話ししたかった気持ち半分、もう一度だけ馬に乗りたかった気持ち半分である。
追記;その後、このモンゴル銀行の方とは少々やりとりがあった。頂いた名刺のアドレスからe-mailを送り、住所を教えてもらって写真を送付した。日本語が堪能なので、その後も度々日本に留学されていた様であるが、遠方であり再会することはなかった。

mong18k  もう一度馬に乗る。ほとんどの人がバスに戻っていたが、酔いもあって強引に頼んだ。今度は馬で平走してくれた。走れる事がわかっているのでスピードがだんだん上がった。最後は速歩になってしまった。正反動ができないので最後は満足いかなかったが、乗馬クラブの様に囲まれた所をぐるぐる走るわけではなく、自然の中を走るので満足感があった。短時間の乗馬であったが、このような山の斜面は車やバイクより馬が適していると感じた。
  雨上がりの山の斜面を馬で走る爽快感は、オフピステでのフリースキーに似ているかもしれない。

【ゲルレストラン・お別れパーティー】
  昼間、テレルジで飲まされたせいで食欲がない。やはりモンゴルでは大食いの方が良い。
mong18m  フラワーホテルの前で島田さんと知り合いになったモンゴル人女性が、おじいさんを連れてやって来た。この人は元モンゴル軍の兵士(タンクの機関兵と言ってた)だったそうだ。島田さんが女性に頼み込んで、おじいさんをお別れパーティーに招待したのだ。mong18nそして61年前、敵として戦った永井団長・小林さんとの握手。感動的なシーンだ。機嫌が良いのか団長、そして小林さんも歌う。
追記;この方はバインチャガンの慰霊塔に戦車を押し上げた際の一員だったと言っていた。

  最後のダシュヌマさんの奥さんのスピーチまたしても涙が出る。「私は今とても感動しています・・」こんな調子で始まるスピーチに、なぜかこちらが感動してしまう。その事をフリーライターの松井さんに言うと「私もそうなんですよ・・」と言って奥さんの所に行き「彼が話しを聞くと涙が出るといってますよ」と言った。私は「理由は良くわからないんですよ・・」と涙をこらえながら答えた。その後、松井さんの目にも涙が滲んでいた。(ダシュナムさん夫妻、フレルバートルさん夫妻)

  ゲルレストランを出て一旦フラワーホテルへ。レストランとホテルは道をはさんで300mほどだった。

  夜道を空港へ向かう。来た時と同じくバスの窓からは何も見えない。荷物はトゥーラさんたちの手で空港に届けられていた。

  空港は、スンベル村へ行った時とは別の場所かと思うほど人が多かった。ほとんどが帰国の日本人である。
  搭乗手続きを済ませ、見送りに別れを告げる。通訳のトゥーラさんとハンダさん以外は全く日本語が通じない。しかし、そんな事はあまり問題にならなかった。(トゥーラさんの息子にだけ英語で別れを言った。)
  この時、私が言った別れの言葉は「また来年も会いましょう」だった。決まり文句ではなく、本心からそう思っていた。
  来る時は1回限りと思っていたが、2日目の夕方には既に「来年も・・」との思いが頭の中によぎり、フレルバートルさんやダシュナムさんのお宅に招待された時には「来年も来る」という気持ちは確固たるものになっていた。今、この別れは来年再会するための約束を告げる場になっていた。悲しみは全く無かった。

  搭乗まで待合室ロビーでしばらく待つ、その間、食べ過ぎで気分が悪い。
  離陸・・。あいかわらず食べ過ぎで気分が悪い。

  中途半端な時間に機内食。胃もたれの状態だ。のどが乾いた。気がついたら眠っていた。