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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

3.モンゴル、ノモンハン紀行

⑥(平成12年8月24日)スンベル村からウランバートルへ。

日程6日目、モンゴル第5日目

【スンベル空港】
mong16a  天候が悪化するとの予報だったので早めに出発。7時には宿舎を出た。視界は100mほどで、いつも村から見えている高台が全く見ないほどの濃霧だった。いくらなんでもこれでは離陸は無理だろうと思った。
  来た道を逆にたどりながらスンベル空港へ。つい5日前に通った道だが、今日は霧のためにどこを通っているのか全くわからない。
  濃霧の草原の中に我々を待っている飛行機が見えた。離陸より着陸の方が危険だと言う事で前日の昼には到着してたそうだ。回りには見送りの人々。南渡しへ連れていってくれたドライバーも来ていた。相変わらず無愛想で、我々に近づいて来なかったが、私と目が合った時に少しうなずいた様にも見えた。
追記;このドライバー。前夜の?灯篭流しの際にも来ていた記憶がある。橋の上に車を止めて我々を見ていた・・・というシーンが記憶にあるのだが。ちなみに、この年の灯篭流しは、流れが悪く大失敗だった。

【離陸】
  しかし、こんな天候では離陸もままならない。視界はどう見ても100m以下だ。エンジンが回り始める。とりあえず、エンジンをかけて待機なんだと思っていたら、動き出した。「・・」
  おそらく何もない草原だから離陸できるのだろう。しかし、非常に危険な行為だ・・。また、天候は悪化の一方だからこれ以上待っていてもしかたがないので出発したのかもしれない。帰りもスンベル村の空からの風景を期待していたのに、残念ながら何も見えなかった。1分ほどで雲の上に抜けるとノモンハンの周辺だけに雲がかかっていた。5分ほどで下界の雲は消え、地上の様子が見える様になった。(援体壕の様な、人型のような模様が見えた。)

【給油で着陸】
mong16b  いつもであればチョイバルサンと言う町で給油の着陸を行うそうだが、今回は少し南の町で給油の着陸をした。ここは快晴。mong16c滑走路もきちんと整備してあった。・・といってもスンベル飛行場と比較しての話しだ。広い運動場といった感じで地面には4種類ほどの草花が生えていた。


  相変わらず、空中ではプロペラ機のエンジン音が心地よい。ついうとうとしてしまった。

【ウランバートル空港】
mong16d  ウランバートルへ戻って来た。着陸直前に両脇を山にはさまれた狭い場所を飛行して滑走路に向う。もし、朝のスンベル村のような天候なら絶対に着陸できないはずだ。谷間の土地には牛が放牧されていて、馬で牛を追っている牧童が飛行機と平行に走っているのが見える。


mong16x3  アスファトの滑走路に着陸。タラップを降りた瞬間になんとも言えない虚脱感のような物を感じた。mong16x2「コンクリートの世界に帰ってきた・・」数日前に初めてウランバートルの街を見た時は、日本の神戸や大阪と比べると高層建築も少なく、のどかな感じがしたが、そんなウランバートルの街も、今日、スンベル村から帰って来ると無機質なコンクリート世界に感じられた。人がやたら多くガサガサした感じがする。不便なスンベル村の生活が急に懐かしく思えたのは私だけではなかった様だ。

【ダンバダルジャ日本人墓地】
  フラワーホテルに到着して、風呂に入り、ひげを5日ぶりに剃った。あいかわらずお湯は出にくい。そして、昼食。ビールを飲む。「たまらない・・!」現代人の生活に戻った瞬間だった。やはり、久し振りに現代人らしいことをすると、さっぱりして気持ちが良い。つい先ほどまで、コンクリート文明に違和感を感じていたのに、このざまだ・・。ついつい「両方の良い所をたして、スンベル村で電気・ガス・水道があって風呂に入れたら最高だ。」などど考えてしまう。しかし、何もない所で生活できたからこそ、価値があるのかもしれない。
  部屋に戻って一息入れたら眠ってしまった。

  気が付くとダンバダルジャに出発の時刻である。大急ぎで靴を履いて玄関へ行くと、既にバスには全員がそろっていた。
  30分ほど走ると郊外の丘の斜面にあるダンバダルジャ日本人墓地へ到着。ここは抑留で亡くなられた方の墓地である。バスを降りると皆が口々に「橋が無い」と言い出した。手前の小川にかかっていた2mほどの橋が落ちているのだ。さらに墓地に近づくと「壊されている!」「なくなっている!」という言葉が皆の口から出てきた。
  昨年、ノモンハン事件60周年にともなって整備されていたのに、1年たってみると入り口モニュメントの鏡の部分は全て小石で割られ、その中にあった菩薩像(インドからわざわざ取り寄せた)がない。台座のレンガは剥がされ瓦礫が散乱している。墓地の門は破壊され、入り口に建っていた3mほどのステンレスの慰霊碑も根元から切断されていた。
mong16x1破壊と盗難の限りをつくされた日本人墓地に一同しばし呆然となる。通訳のハンダさんの前にもかかわらず「モンゴル人ってのはこれだからたちが悪い」などど、自然と言葉が口をついて出てくる。それも無理のない惨状だった。気を取り直して慰霊を済ませて記念撮影をしようと並んだ瞬間、嵐が訪れた。いきなりの嵐に全員急いでバスにかけ込んだ。「きっとこれはこの墓地に眠る方の悲しみの嵐なんだ」とみんな思わずにいられなかった。

【レストラン(ボッフォ・デートの意)】
mong16e  トゥーラさんが気を利かせてディナーっぽい夕食の店に案内してくれた。雰囲気は良く、別部屋ではピアノとバイオリンの生演奏をしている。ナイフとフォークを両脇から使って行く高級感のある例のやつだ。しかし、1食目に出てきたものはえたいの知れな紫色のもの。抑留経験のある永井団長もさすがに「ホテルの食堂の方が良い・・」を連発している。その後、食べれるものが出てきたのだがあまりにも最初の印象がきつくて何を食べたのか覚えていない。店の名前は日本語で言うと"デート"。店の中にはカップルが3組来ている。「初デートでこの味では・・」と思わずにはいられない。トゥーラさんも、気を利かせすぎた・・という感じだった。

【フレルバートル家】
mong16f  夕食の後、永井団長と家族の付き合いのフレルバートルさんのお宅に呼ばれた。モンゴルの民家におじゃまする機会はツアーではまずないだろう。日本で言うと県住のような感じだ。階段はどういうわけか低い。建物に入ったとたん羊の肉の匂いがした。(これが合わない人がいる)  玄関でフレルバートルさんの親戚その他12・3名で出迎えを受ける。

  フレルバートル家はモンゴルでもかなりの上流家庭だと思う。上の娘さんはモンゴル航空のスチュワーデスで関空にはしょっちゅう来ているらしい。フレルバートルさんと永井団長は、慰霊団初期の頃の監視役兼ガイドとして知り合ったそうだが、お互い特務機間の将校ということで気が合ったのだろう。フレルバートルさんが退役後(モンゴル軍の退役は早い)、永井団長が融資してモンゴルで初めてのアイスクリーム屋さんを始めたのだ。
  当初、問題も多く、商業ラインの1ドルに乗せる為に、現地の食材をわざわざ森永食品で試験させたという話しである。また、中古の機械を分解し中国経由で輸入、モンゴルで組み立てるという荒業を邦裕さんの兄さんがやったそうだ。言葉もわからず1ヶ月間の悪戦苦闘の日々の結果、現在ではウランバートル市のホテルにアイスクリームを卸すまでになったそうである。
  これこそ市民レベルの交流の見本だ。

mong16g  夕食後だったので皆、飲み食いができない。「なぜ食べてくれないのか?」と奥さんに言われるしまつ。モンゴルでは飲み食いが豪快な人ほど好かれそうだ。
  帰る間際、全員が土産を頂いた。ほんとうに大歓迎である。添乗員の横関支店長はカーペットを頂いていた「これ持って帰るのが大変だから交換してよ・・」と言われた。「何てしつれいな・・・」と思いながらも、幅30長さ1m程の分厚いカーペットと、私の頂いた馬頭琴のミニチュアを交換した。(私的には儲けた気分だった)
  ほとんど何も手をつける事ができずに退散である。モンゴル的には無愛想極まりないがしかたがなかった。