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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

3.モンゴル、ノモンハン紀行

⑤(平成12年8月23日)バインチャガン、ジューコフ司令部跡・現地第4日目

日程5日目、モンゴル4日目、現地第4日目

【スンベル村の朝】
  この日の朝、どんよりとした曇り空。天気予報の通り、だんだんと天候が悪くなってきた。いつもの茂みのトイレにしゃがんでいると、村の青年が愛馬に調教をつけているのか?歌声を草原に響かせながら、ひづめの音を立てて全力疾走している姿が見えた。その姿は人馬一体であり、どことなく気品に満ちて美しかった。

mong15a  朝の間にフリーライターの松井さんとスンベル村のはずれにあったソ連軍戦車の残骸を撮影しに行った。これはNHKの「ノモンハン事件60年目の真実」のオープニングに使われた物だ。そのシーンで説明をしていたのがサンダグゥオチル館長だ。銃弾の貫通した跡が生々しい。搭乗員がどうなったかは想像するまでもないだろう。(恐らく草原に放置されたものを射撃練習の標的にしたのでは?と考えられる。)

mong15b  道すがら村の朝の風景を撮影。やはり、フリーライターという事で松井さんは撮影の目の付け所が私とは違う。人物を撮影する時は必ず「サンバイノー」と声をかける。声をかける事で表情が良くなり良い写真になるのだそうだ。自分のように街の生活感のある部分を、ただ撮影しているのとは訳が違う。着目点に一味スパイスを加えるとでも言うべきか・・。お互いの写真観を語りながら残骸の撮影を済ませた。少し勉強させてもらったような気がする。

【戦跡バインチャガンヘ向かう】
mong15c  出発する頃には、雨。トラックの荷台も雨よけの幌が前にかぶさり前方の風景が見えない。しかたがないので、今日は後ろから撮影する事に決めた。幸い雨のため、後方からの撮影は砂埃も立たず良いかもしれない。(晴れていると砂埃がひどくて風景が見えない)
  本日の最初の目的地はバインチャガンだ。草原の1本道をひたら走るだけなのだが、その道程はそうとうな悪路らしい。覚悟はしていたが、雨で水たまりのできた道は更にすごかった。とても撮影できる状況ではない。シャッターチャンスを狙いそびれているうちに(・・というよりもカメラを構える事ができなかった)バインチャガンに着いてしまった。

mong15d  ここが日本軍歩兵 対、ソ連軍戦車部隊の戦いで有名なバインチャガンだ。ここは唯一日本軍がハルハ河を越えてモンゴル領に侵入することができた場所である。その時、ソ連軍の大戦車部隊が歩兵を伴なわずに突進してきた。その数400台以上。日本軍の歩兵は身を隠す事もできない草原で火炎瓶だけで250台近くを破壊したが、次々現れる戦車に戦線を後退せざろう得なかった、と言われている。
  ただし、この話しは少々オーバーなようだ。当時、戦った方の話しを聞くと、時速30km程突進してくる大戦車部隊を発見したのは30分前。充分に準備万端を整えて、1000mまで近づいた戦車を速射砲で攻撃し、それをすり抜けてきた戦車だけ火炎瓶で攻撃したという話しだ。歩兵を伴わず、戦車だけで突進してきたので戦車に近づく事は容易で、空冷ガソリンエンジンであったため火炎瓶で簡単に燃え上がったそうだ。さらに付け加えるとソ連軍戦車は走りながら射撃したので、こちらには全く当たらなかったそうだ。(私が走るトラックからカメラを構える事ができなかった事からもうなずける話しだ)
  しかし、最終的には数に押され、弾薬の補給も無く、幹部将校等、多数の犠牲者を出して後退した事は事実である。戦いとはそういうものなのだろう。

  しかし、このように、実際にここで戦った永井団長から説明を聞いても、毎回の如くこんな美しい大平原で大規模な戦闘があったとは想像できなかった。ここで、当時、戦闘に参加され、昨年慰霊団に参加された山中さん手記を引用する。これは山中さんが慰霊中に、ふとその時の様子を回想された場面である。

mong15e  「眼前に広がる大草原の中に一際青黒く色の変わっている草の生えた塹壕跡が延々と長く走っているのが見えてきました。そしてここがあの戦場かと思った途端に、60年前の7月3日から5日までの激戦の光景が戦車のキャタペラの轟音と砲弾の炸裂音に彼我の手榴弾の爆発音に加えてソ連軍のウラーウラーと叫ぶ突撃の声などが走馬灯の如く甦り、一時呆然としていた。」
  恐らく現地を訪れた事により、山中さんの脳裏にフラッシュバック的に当時の状況が浮かんだのだろう。

【安達大隊戦闘の塹壕跡】
  そこから安達大隊跡までは700m程なので邦裕さんと歩いて行く事にした。しかし、歩きながら少し後悔。雨で濡れた草原のせいでズボンの裾と靴がずぶぬれになってしまったのだ。何事も現地で経験してみなければわからない事ばかりだ。
  安達大隊跡には塹壕の跡がはっきりと残っていた。バインチャガンから走ってきた挙げ句に塹壕の跡を駆け回って撮影し、もうへとへとだった。塹壕跡の周辺を走り回るのは、有刺鉄線があるかもしれないので危険だ。草に隠れる様に有刺鉄線が張ってあり、つまずいて転んだ先にも有刺鉄線が張ってあるのだ。しかし、時間が無いのでそんな事にかまってられなかった。後から考えると運が良かったのだと思う。
  慰霊が終了してを出発する直前、バインチャガンでGPS計測をするのを忘れていた事に気がついた。帰りに立ち寄る事で話しがつき、指示を出すために団長の乗っている小型バスに乗り換えた。
追記;この時、通訳のハンダさんが随分、蚊に刺されてムヒを塗っていた。永井団長はハンダさんに日本に来て見合いをするように薦めていた(半分、冗談)彼女はその後1~2年、永井邸にホームステイし、東京大学に通ったとの話である。

【イフブルハンスーム??】
mong15f  バインチャガン山からサンダグゥオチル館長の案内でイフブルハンへ行く事になった。ここは、ハルハ河沿いの斜面、300~400m四方を囲ってその中に仰向けの仏像が作られている。大きさは100mほどあり迫力があった。ノモンハン事件当時は粛清のため破壊されていた様だ。その横に警備隊の宿舎があり、我々が着くと兵士や子供達が物珍しそうな顔で出てきた。

mong15g  小雨が降っているがお参りの為に車から降りる。門をくぐって斜面を上がり、仏像の頭の部分をぐるっと回ってお参り終了。その時、警備兵が見なれない食べ物を持ってきた。見たところお煎餅の様だが、口にしてみると硬くて妙な食感だ。正体はカチカチに乾燥させたチーズだった。それでヨーグルトをすくって食べるのである。そのヨーグルトも酢のようにすっぱい。
  ヨーグルトと言えば皆は、昨日チョクトン兵舎で出されたヨーグルトで下痢をしていた。私は別行動だったので大丈夫だったが、ヨーグルトへの警戒心は強く、食べ終わってからも変な気分だった。横を見ると成田山の小川さんも泣きそうな顔で口だけ動かしている。それを持ってきた若い兵士は、売れ行きの悪さに怪訝そうな表情。恐らく彼らにとっては最高のご馳走に違いないのだから・・

  雨も小降りなのでここで昼食を食べる事になった。先ほどの乾燥チーズの為に食欲が起きない。しかし、全てを平らげ黒パンサンドイッチはお代わりをした。昼食後に、警備隊の馬に乗せてもらう機会があったが、観光の馬とは違うので、乗る勇気が出なかった。
  また、若い15~6才の兵士が銃剣を抜いて見せてくれた。どこの国の製造なのかわからなかったが、実際に見た銃剣は”なた”の様で非常に大きかった。

【バインチャガンに戻る】
mong15h  GPS計測を忘れていたバインチャガン戻ってもらう。その頃は雨。計測を終了し、そこから見えているバインチャガン・オボへ。オボとは小石を積み上げて作ったケルンのような物で、モンゴルでは信仰の対象となるものである。バインチャガン・オボは戦闘で破壊されたため現在ではBT-7戦車を利用した戦勝記念のオブジェが建てられている。その戦車を撮影した時はどしゃ降りの雨だった。

【ジューコフ指揮所跡】
mong15i  そこから雨の中を1時間ほど走り、スンベル村西側の高台(ハマルダバの丘)にあるジューコフ司令部の跡へ行った。ここはNHKの放送や「ノモンハンの夏」のビデオで登場していたので見なれた場所である。映像で見た風景がそのままにあった(丘の向こうに見えているのが戦勝記念塔)
  司令部跡は数年前までは木枠で再現してあったそうだが、つい最近コンクリート製に改造された様である。しかし、一部には土嚢を積んだだけの状態で洞穴の様に掘ってある個所が残っており、当時の状況を今に伝えている。
mong15j  そこから200mほど西に歩くと、さらに塹壕の跡や戦車隠蔽壕が多数残っていた。それらを撮影して柵(なぜか有刺鉄線)をすり抜け、次はスンベル・オボーの方へカメラを手に走った。オボーは近くに見えている様でちょっと遠かった・・。朝から走りっぱなしだ。草原の雨つゆで靴もズボンの裾もずぶ濡れである。せっかくスンベル・オボーまで走ったが見渡せる物も無く、集合の合図もかかっているので、また走って戻った。とにかく今日は走りずくめだ。雨で湿気があるのでとにかく暑い・・そこから全員でスンベル・オボーに行って記念撮影をした。

【戦勝記念塔】
mong15k  司令部跡の高台から坂道を下っていくと、スンベル村が見渡せる場所にハルハ河大戦争・戦勝記念塔がある。銅製で高さは50m強。モンゴルではノモンハン事件の事を「ハルハ河大戦争」と呼んで学校の歴史の授業で必ず習うそうだmong011
あいにくの雨で風景を見渡す事ができなかったが、おそらく「ノモンハンの夏」のビデオで登場するパノラマ映像はここから撮影したのだろう。晴れていればノモンハン一帯が全てが見渡せる絶景のポイントだ。近くに司令部が置かれたのも無理はない。ちなみにモンゴル軍のレーダー施設(トラック)も、この近辺にあった。

【宿舎に戻って・・】
  宿舎にもどって濡れた靴を乾かす。洗濯しなければ替えの靴下もない。しかし、靴はなかなか乾かなかった。
  今夜はお別れパーティーだ。南渡しへ付いて来てくれたジャンツァン中佐も来るそうだ。ジープの運転手も来るかもしれない。モンゴルでは歓迎のウォッカの一気飲みが恒例だ。今夜は飲まされる覚悟を決めた。

mong15l  夕食までの間に、通訳のハンダさんについて来てもらって、博物館2階の展示室を回った。解説はサンダグゥオチル館長。「19xx年、日本、ドイツ、イタリアは世界征服の野望に燃えて・・」で始まった解説は、日本人の立場では腹立たしい表現もあったが、モンゴル側の立場からの解説は、実に興味深かった。(当時の状況を説明した作戦図?)
  また、展示物の機関銃なども、弾を込めれば撃てる状態のままで、自由に触れる場所に置いてあるのもモンゴルらしいと思った。(当然、弾などはなく、拳銃・小銃等の小物は陳列ケースの中)

【お別れパーティー】
  日本・モンゴル・慰霊団の旗を並べ、モンゴル側が来るのを待ったが、なかなか来ないので先に始める。
  30分ほど遅れてモンゴル側も到着。現在の村長、前の村長と奥さん、国境警備隊の司令官、サンダグゥオチル館長や慰霊団のトラックの運転手などの関係者。そして、私と南渡しにいったジャンツァン中佐も出席してくれた。残念ながらドライバーは来ていなかった。

  最初の挨拶が終わって、現村長が永井団長に握手を求めようとした時、団長はわざと耳が遠いふりをして一瞬握手を拒んだ。さすがは元ハルピン特務機間(スパイ)の将校だ。ボケもうまい。意地汚い現村長に一発かましてやった感じだ。今回の件について、永井団長と大の仲良しの前村長(現、国民議会議員)からも、ずいぶん言われたようで、終始ふてくされた表情だった。
  司令官は、さすが軍人と言う感じで威厳に満ちていた。しかし、我々のトランシーバーを進呈すると上機嫌だったそうだ(私にはそうは見えなかったが・・・)

  今夜のメインディッシュはピロシキのような物(ただしピロシキ自体をよく知らない・・)だった。まだまだ後に続いて料理があると思っていたので食べるタイミングを逃がしてしまい、冷めてしまった。そのうち昼の乾燥チーズとヨーグルトのせいか、少しだけお腹が痛くなってきたので、結局メインディッシュを食べそこねてしまった。

  モンゴルではお客さんが来ると、歓迎の意味をこめて歌を唄う。もちろんカラオケなど無いのでアカペラ・肉声だ。ジャンツァン中佐もカチューシャを唄った。日本でいくらカラオケが上手でもモンゴルではそうはいかない。残念ながらアカペラで唄えて、この場に合った歌を私は知らなかった。
  中佐と二人で松井さんに写真を撮ってもらう。来年も会おうと約束した。