title

ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

3.モンゴル、ノモンハン紀行

③(平成12年8月21日)現地第2日目、川又砂丘~国境線~747高地

日程3日目、モンゴル2日目、現地第2日目

【スンベル村の朝】
mong13a  第2日目の朝。ここでひとつ気がかりな事あった。トイレ(大)である。「そこらの茂みでしたらいいんだよ」と言われていたが、何と言っても博物館の周辺である。「そこらって、どこらへん?ほんまにいいんかな?」と思わずにいられない。早朝6時、とりあえず博物館横の草むらに行ってみた。草原の朝はすがすがしく、汚い博物館内のトイレよりより爽快だ。腰の丈ほどの草を踏みしめて自分の座る場所を作り、しゃがみ込めば何の問題も無い。それから4日間、その茂みが私のトイレになった。

【2日目の慰霊に出発】
mong13b  出発予定の9時。しかし、なかなか出発できない。永井団長が村長に会いに行って戻って来た。そうしているうちに昼近くになってしまった。原因は人事異動で12年来の友人である村長が変わってしまったので、新村長が我々にいちゃもんをつけているらしい。ハルハ河大橋を直すための寄付をしなければ、馬頭観音像(軍馬の為の観音様)を建てる許可が下りないのだ。(ハルハ河大橋は橋脚が傾き、いつ落ちてもおかしくない状況である)無論、個人的なものも要求しているようだ。また、警察も全員のパスポートを集めて持って来いなどと言っているらしい。やっかいな話しである。案内してくれる博物館のサンダグゥオチル館長も直前に館長を首になったそうだ。守備隊のオットー中佐といい、移動で担当がかわると何が起こるかわからない。問題は未解決のまま、予定から遅れる事約2時間、ようやく出発した。

mong13c  ハルハ河大橋の上では、馬の大群に遭遇。クラクションを鳴らしても動こうとしない。前の車から人が降りて追い払っている。mong13dそうしているうちに、宿舎から馬に乗って追いかけてきた子供達に追いつかれた。一人が馬から下りて何か言ってる。どうやら「乗ってみるか?」と言ってるようだ。ありがたい話しだが、今は乗るわけにはいかないので断った。
(橋の写真;路面の茶色は全て馬糞の乾いた物)

mong13e  行程2日目はまず、チョクトン兵舎で永井団長親子の旧友、オットー中佐に会った。特に邦裕さんとは兄弟のようだ。言葉は通じないが何かしら感じるものがあるのだと言う。ここからチョクトン兵舎の隊長も我々に同行することになった。 (写真;記念写真を撮るフリーライターの松井氏)

ホルステン河を渡って川又砂丘へ。ホルステン河は兵舎のすぐ裏を流れている河だ。河と言っても今年は干ばつのため流れは小川程度になっている。兵舎の人間はここから水を汲んでいるという話しだ。芝生のような丈の短い草が生え、そこに小川が流れており、その向こうに林になっている。その風景はなんとなくヨーロッパの田園地帯を連想させるものだった。橋のないホルステン河をトラックで渡る。単純な事だが日本では絶対体験できない事だった。

【草原での昼食】
mong13f  午前中に東部隊玉砕の地で慰霊回向を済ませ、744高地を探すがなかなか見つからない。菊型砂丘近くの慰霊碑で慰霊回向を済ませた所で昼になったので、mong13g草原にトラックを止め昼食だ。天気も良く日本に比べて空気も乾燥しているので、ほんとうに爽やかだ。それになんと言っても空気がうまい。遥か遠くにはスンベル村の戦勝記念塔が見えている。そんな大平原で食べる昼食は格別た。ご遺族の方には申し訳ないが、慰霊が目的で来ている事を忘れてしまうほどだった。黒パンのサンドイッチ(サラミ、きゅうり、チーズ)、マカロニサラダ、紅茶といったメニューは口に合ってうまかった。なんとなく秋晴れの遠足を連想させるひとときであった。

【昼からの慰霊回向】
mong13h  先に伊勢・森川大隊の慰霊回向を済ませ、更に744高地を探すが、なぜか、たどり着いたのは733バルシャガル西高地だった。その付近には丸いくぼ地に花が咲き乱れる場所が数ヶ所あった。雨が降ると池になるのだろう。水分が多いためmong13iそこだけ花が群生している。見たこともない高山植物の花々。花が好きな母のために数枚写真を撮った。61年前のこの季節、兵士にこれらの花を見るゆとりがあっただろうか?逆にこれらの草花が兵士の心を癒したのかもしれない。これらの花に囲まれていると、ここが戦場であったとは想像できなかった。
mong13j  744高地は相変わらず見つからなかった。とにかく慰霊碑の場所を見つけるのに時間がかかっている。ノモンハン会の地図を頼りに探しているのだが、もともと複数の地図を張り合わた地図で、特にバルシャガル高地一帯は地図と地図のつなぎ目を更に違う地図でつなぎ合わせるという状態なので方向の判別が難しいのである。

【国境線付近】
mong13k  バルシャガル西からずいぶん長く走った。途中、監視塔や池(一瞬ウヅル水かと思われた)を通過して、レミゾフ高地を一瞬発見したのだが行き過ぎてしまい、先に田原山を望む位置に行く事になった。GPSで確認すると国境線まで1.6kmほどの場所である。カメラのレンズを望遠に変えて、五郎おじさんがいたアライ基地のあるアライトロゴイ方向にレンズを向けた。1kmほど先に干渉帯があるのか、白い杭が並んでいるのが見える。その遥か先に中国側の監視塔が小さく見えている。緊張感のある風景だ。距離的にアライトロゴイは見えそうもないが、国境線ということで、とりあえず写真に収めた。
  mong13l田原山を望む位置もなかなか見つからない。その途中、チョクトン将軍記念碑に立ち寄った。ここには慰霊団が建てたお地蔵さんと記念碑があったのだがチョクトン碑が建立された時に破壊されてしまったのだ。なんといってもここはモンゴルである。モンゴルの英雄の碑の横に日本の慰霊塔があるのが気に食わなかったのかもしれない。
  田原山を望む位置に到着するとそこは今まで見た中で一番開けた場所で、完全に360度水平線であった。この先に田原山があると説明されたがよくわからない。5kmほど先にある茂みが、中国側のノモンハンであると言う事はわかった。ここでも方位磁石でアライトロゴイ方向を確認してレンズを向け写真を撮った。

  一人トラックの荷台に残って風景を撮影していると急にトラックが今までにないスピードで走り出した。しがみついても振り落とされそうな揺れである。恐らく私が乗っている事を知らなかったのだろう。人を乗せていない時はこのスピードで走るのかと思わずにいられなかった。(乗せている時はゆっくり走ってくれていたのである。あれで・・)何の為に走り出したのかというと、初め私には見えなかったのだが500mほど先に馬に乗った国境警備隊の兵士が2人いたのである。我々に同行していた隊長が報告を求めに行った様だ。一方、兵士の方はなぜ隊長がここにいるのか?といった感じで少し緊張気である。ソ連製のAK-47型突撃銃を肩にかけている。モンゴル語で「異常ないか?!」「??部隊???、報告します。現在国境線に異常ありません!」とでもいうような会話がされたようだった。じっと見るのもはばかられる雰囲気である。写真に納めたかったのだが隊長の真剣な目が怖かったのでやめた。(彼らにとっては仕事中だし、余計な事をしてフィルム没収だけは避けたい)しかし、貴重な場面を見させてもらった。

【野戦重砲砲座】
mong13m  次ぎの慰霊場所は野戦重砲砲座跡だ。ここは慰霊団に参加している小林さんの戦った場所である。・・と言っても小林さんは監視係だったので、mong13nこの場所から少し離れた別の場所で敵の方向や距離を測定していたという事だ。そのため敵の集中砲撃を受けずに助かった言う話しである。しかし、本隊と離れているのでそれなりの危険もあったようだ。(写真右;同地点より北を望む)


【本日最後の慰霊回行、伊勢・山県部隊】
mong004  次ぎに行ったのは、伊勢・山県部隊長自決の場所である。進行方向に今までに見たこともない、奇妙な風景が見えてきた。直径50mぐらいのお椀を伏せたような小山が、狭い範囲に5~6個密集しているのだ。思わずこれが菊型砂丘だなと思ったのだが間違いだった。その小山の一群を過ぎた場所、ホルステン河を見下ろす丘の斜面に慰霊碑が立っていた。mong13oここは平原とは違い、ホルステン河によってできた幅7~800mほどの谷間になっている。今まで慰霊してきた地区と違って地質の水分が多いのか?濃緑の鮮やかな場所だ。説明では通称マンドリンと呼ばれるマシンガンを手に、真紅の赤軍旗を掲げたソ連兵が向こう岸の稜線から大挙して押し寄せてきたそうだ。なぜかここだけは戦闘場面が想像できた。
  寂しいまでに美しいと言うのだろうか?夕闇がせまってきたこの一帯は不思議な風景だった。(写真は戦場一帯の地質)

mong13x1  この日予定はこれで終了。早めに宿舎に戻る事ができた。帰ってから地図にGPSの測定値を記入するのが日課になった。

  夕食の終わりにタビックスの横浜支店長・横関さんに「なんで参加することになったの?」と聞かれいきさつを話す。横関さんもこのツアーの印象を語ってくれた。6年ほど前から、毎年主催させてもらってるが、今までの添乗員生活の中でもワースト1のツアーだそうだ。南方の慰霊ツアーもやったが、南方では宿舎まで戻ってくるとそこはリゾートだったりするそうだが、ここは違う・・でもこれが終わらないと1年が終わった気がしない、という事だ。添乗員自身が生きる為に必死になって他人の世話ができないツアーなんて・・しかし、横関さんもこのツアーにはまってしまってる感じを受けた。