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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

3.モンゴル、ノモンハン紀行

②(平成12年8月20日)ウランバートルからスンベル村へ・現地第1日目

日程2日目、モンゴル第1日目、現地第1日目

【空港まで向かう道中】
  快晴。本日はウランバートルからスンベル村へ飛行機で移動。はじめて太陽の光の下でウランバートルの街を見た。日本に比べると、まず緑が少なく、街全体が茶色がかった感じがする。道沿いのモニュメントの上にはソ連のT37/85型の戦車が飾ってあった。街の建築物は、まれに近代的な建物もあるが、ほとんどが古びていて廃墟も多い。
  道は舗装が悪くガタガタで、信号が少なく運転がめちゃくちゃ荒い。クラクションは鳴らしまくるし、対向車が来ても平気で追い越しをかけてくる。日本だったら刺されかねない話しだが、やはりそこはモンゴル人気質なのだろう、あまりカリカリしていない感じだ。
  走ってる車はほとんど外車のようだ。ベンツやBMWも走っているが、パジェロやデリカの三菱系が多かった。他にはトヨタのランクルやサーフ等の4WD系が目についた。モンゴルの人は4WDが好きなんだな・・というより4WDじゃないと走れないのだろう。新車も走っているが、ほとんどの車はどこかしらへこんでいて、日本だととっくに廃車になっているような車も目に付く。路肩でボンネットを空けて整備している光景も多く目にする。車検制度はあるのかな?と考えずにはいられなかった。
  普通のバス以外にトローリー・バスも走っている。その横にはSHARPの文字。日本の製品の看板も多い。携帯電話の看板が多く目に付いた。mong12x2この国でも携帯電話が普及しつつあるのだろう。

  昨夜はわからなかったが、空港周辺の風景は阿蘇の草千里を連想させるものだった。どおりで真っ暗なはずだ。周辺の草原には、いたる所に牛がいる。「成田空港の回りが田んぼなのと同じだな。牛か野菜かの違いで・・」とだれかが言う。振り返るとウランバートルの象徴、火力発電所が見えた。

【ウランバートル国際空港】
  本日は日曜である為、空港もガランとしていた。売店も閉まっていてだれもいない。検査の係員もいないためチャーター便の出発がずいぶん遅れた。飛行機は50人乗りぐらいの双発のプロペラ機。それもかなりのオンボロだ。オイルか何かが漏れ出しているのかエンジンのカバーがひどく汚れている。「大丈夫だろうか・・」 しかし、プロペラ機はエンジンが停止しても滑空できるのだから、あまり考えない事にした。

【スンベル村へ離陸】
mong12a  予定を2時間ほど過ぎた2:00頃、飛行機はウランバートル国際空港を離陸した。はじめてのプロペラ機の印象は「エンジン音がうるさい」だった。ちょうど古い扇風機を全開で回しているような音だ。しかし、そのプロペラのリズムに慣れると想像以上に安定して快適だった。
  窓から見える異国の風景に目が離せない。ウランバートルの周辺は山が多く丘陵地と言う感だ。チョイバルサンと言う都市を過ぎたあたりから草原となり、スンベル村のあるホロンバイル高原では完全に平地となってる。目測で3000~4000mの高度を快適に飛行機は飛んでいる。下を見ると草原の所々に丸くて白い点が見える。遊牧民のゲルだ。その周辺は人が住んでいる為、明らかに黒っぽい色をしている。人間は環境を汚す生き物であると言う言葉を思い出した。
mong12x3  しかし、どこまでも緑のじゅうたんが続いている。雲の影の部分はだけが深緑色だ。そのじゅうたんの中に茶色の線が数本束になって走っている。車の通る道路だ。なぜ数本の束になっているのか?その後、スンベル村で過ごした経験から想像すると、車が数台で走る場合、土ぼこりが激しいので後続の車両は必ず前の車と違うラインを走るので複数のラインがつくのだろう。

【スンベル村近づく】
mong12b  出発から2時間ほど過ぎた時、遠くに湖が見えてきた。とっさに“ボイル湖”だという予感がした。しかし、この角度からでは湖の形もよくわからない。時間的にはボイル湖付近を飛行してもおかしくはない。近づくに従いミジンコのような形をした湖の特徴がわかるようになってきた。間違いなくボイル湖だ、琵琶湖を2つ並べたぐらいの非常に大きな湖だが、この高さからでも地図で見た通りの形が判別できた。ボイル湖が見えればスンベル村もあと少しだ。ボイル湖の見え方から察すると、タムスクの上空やハルハ王府跡の上空を飛んでいると思われる。五郎おじさんが見た風景と同じ風景を見ているのだ。「とうとう来た!」という実感が沸いてきた。

mong12c  ボイル湖が見えた直後から、飛行機は高度を下げて行く。すると、ソ連軍の基地の跡だろうか?草原にいろんな模様が見えてきた。非常に広範囲に塹壕や戦車の隠蔽壕の跡らしきものが点在している。61年前の戦争の痕跡はこんなにはっきり残っているのだ。

mong12d  そうしているうちに、前方に河川らしきものが見えてきた。ハルハ河だ。テレビやビデオで見た場所にとうとうやってきたのだ。映像で見た通りの風景が窓の下に広がっている。川幅も想像した通りだ。河の両岸が一段高くなって草原に続いている。

mong12e  ハルハ河が大きく見えた頃、飛行機はスンベル村の上空で大きく旋回した。どうやら飛行場が見つからないらしい。飛行場といっても草原なのでパイロットも探すのに一苦労だ。しばしの遊覧飛行のお陰で、ノモンハン事件の戦勝記念塔やハルハ河大橋、そして私の目的地の一つである“東渡し”が見えた。上空から見る限り”東渡し”は非常にスンベル村から近く、平地も少なそうな感じを受けた。なんと言っても1年間地図で見つづけた場所である。上空から探すのはたやすいことだった。

【スンベル空港着陸、スンベル村(現地第1日目)】
mong12f  だんだんと草原の草がはっきりと見える高度になってきた。しかし、草の大きさがわからないので距離感がつかめない。そう思ってると予想より早いタイミングで着地。ショックは少なかった。タラップを降りて関係者の出迎えを受ける。大歓迎だ・・。周囲を見渡すと膝丈の草が地平線の彼方まで広がっている。すこし向こうに農場の跡らしきものが見える。ここは飛行場と言っても草原に吹き流しが1本立っているだけで、あとは滑走路を示す小さな杭が並んでいるだけだ。現地モンゴル軍のトラックと小型のバス(ウランバートルから陸送してきた)に分かれて乗り込んだ。
mong12g  ガタガタ道を下って行くと15分ほどでスンベル村に到着。村の入り口にはNHKの放送で撮影に使われた戦車の残骸があった。mong12x1村はコンクリートの建物が多いが、ほとんどが廃墟のようだ。10年ほど前までは、人口3万人程の立派な都市だったそうだが、ソ連崩壊後は政策が変わり人口が激減。現在では2千人程が電気・ガス・水道・電話の無い不自由な生活をしている。宿舎であるスンベル博物館に到着。ここも廃墟だ。物珍しそうに子供達が集まってきた。建物に入るが電気がないので真っ暗だ。
mong12h  私の部屋は永井団長親子と小島副団長、今井さんと同じだった。雑魚寝の部屋に馬や羊の毛だらけの汚いカーペットが敷いてあり馬糞にまみれた靴底の土足のまま入る。そこに布団を敷いて寝るのだが、その布団も何かの毛が沢山ついていた。唯一の慰めはシーツがきれいだった事と、永井団長が「抑留の時よりましだな」と言った事だ。
  手早く荷物の整理を完了。夕暮れが近いが、今後の予定も詰まっているので、回れる所は今日中に出来るだけ回っておく事になった。

【最初の慰霊回向】
  まず、ハルハ河大橋を渡るとコンクリートの道が500mほど続く。舗装道路はそこまでで、その後は土埃が激しく舞い上がる草原の道が延々と続く。その土埃のため、後続の車両は真後ろを走る事ができない。まずチョクトン兵舎に立ち寄り、現地慰霊の許可をもらう。永井団長・邦裕さんと旧知のオットー中佐はもうすぐ転勤という事で、村にはいるが本日は不在のため会えなかった。兵舎からはコマツ台地が296度の方向に見え、ビデオに写っていた遠くの三角形の山(国境線)が104度の方向に見えた。
mong12i  日本では想像できない荒れ道を軍のトラックは進んだ。最後尾のトラックの受ける土埃は想像を絶する。
  道(と言っても轍の跡がある程度)から草原に入ると更に激しくトラックはゆれた。日本車であれば一発でシャーシがやられてしまう揺れだ。一見、平坦そうに見える草原だが強烈にバウンドする。走行スピードはGPSの表示で、道で最高30km/h、草原では最高20km/hであった。成田山の松岡さんも何とも言えない苦悶の表情だ。(4WD愛好家にはたまらない話しだろう)
mong12j  まず、西ニゲソリモト(コブ山)で合同慰霊祭(五郎おじさんに頼まれていた)の後、ニゲソリモト1本松を探したがなかなか見つからない。ニゲソリモト1本松はくぼ地に1本の松の木が生えているので、そう呼ばれるようになった。その1本松も厳しい気候のため61年前の大きさとさほど変わっていないという話だ。ようやく見つかって慰霊回向を済ませると、辺りは真っ暗に包まれていた。

【慰霊の帰り道】
  暗闇は国境警備隊の兵士でさえも道に迷わすようだ。GPSがスンベル村とは違う方向を示している。
  途中、暗闇で馬に乗った一人の警備兵に遭遇。さらに草原の所々に車のヘッドライトらしき明かりが見える。(ここは戦場跡である。ヘッドライトかそれとも・・?)こんな大草原の暗闇で人間に会うとかえって不気味な感じがする。
  日が暮れると急激に気温が下がる。昼は10月上旬、夜は11月下旬の感じだ。トラックの荷台は吹きっさらしなので、直接夜風が当たるので更に寒い。こんな時間になるとは予想してなかったのでジャンパーは持参していなかった。後悔しても始まらないのでトラックの排気管の近くに身を寄せて我慢した。また、前走の小型バス2台の巻き上げる土ぼこりは、日本の常識では考えられないほど激しく、これでカメラがやられるのも無理はないと感じた。事前に聞いていたのでカメラは必ずビニール袋に入れていたのだが、それでも心配になるほどの土ぼこりであった。事実、帰国後にカメラの電池カバーを外して見ると、中にきな粉の様な土埃が付着していた。

【宿舎に到着】
mong12k  1時間ほどしてハルハ河大橋が見えやっと一安心。宿舎に戻って首に巻いていたタオルをはずしたら、タオルのしわの形に赤い土ぼこりの跡がついていた。少し離れた所にある井戸に行って日本の真冬並みの冷たさの水で顔を洗った。8月とは思えないほどの冷たさだ。物珍しそうに子供達がついてくる。戻ると自家発電の明かりが宿舎(博物館)に灯っていた。電気がないので5年前に日本から発電機を持ってきたという話しだ。(しかし、ガソリンが不足)
  夕食は日本の牛肉の缶詰に手打ちのうどんを入れたようなスープ。「日本からわざわざ缶詰を持ってくるなんて気が利いてるな~これなら食事も安心だ」と思ってると、通訳のハンダさんに「モンゴルの料理の味はどうですか?」と聞かれた。「モンゴル料理なんてまだ食ってないぞ」と思ったら、これがモンゴルの伝統的な料理なんだそうだ。・・これなら食事も安心だ。
  食事をしながら、永井団長とサンダグゥオチル館長で”南渡し”行きの計画を練る。車の手配は難しそうだ。しかし、なんとかなりそうな雰囲気である。ダメだった時の心構えだけはしておくことにした。
  夕食後、持参して行った旧ソ連製の地図にGPSで計測した数値を記入していった。スンベル空港、博物館、そしてハルハ河大橋・・ぴたりと河の上になった。この地図は非常に正確だ!これなら間違いなく自分を南渡しに導いてくれるだろう。一安心だ。
  午後11時。ガソリンが切れて発電機の音が止まり真っ暗になった。日本では考えられない静けさだ・・不思議なほどぐっすり眠れた。