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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

1.モンゴルに行くきっかけ

⑤-1 絵との対面

  平成11年10月14日。母と連れ立って絵を見に行きました。電車で奈良の西大寺まで行くと、母は「まさかこんな近くにあの絵があったなんて・・」と言いました。西大寺は母が月に1回、墨絵を習いに通っている場所だったのです。墨絵の塾から車で10分ほどの所に幹部候補生学校はありました。
  当日は幹部学校の卒業式と重なっていて、私たちが到着すると、丁度、卒業生が在校生に見送られる場面でした。正門から少し歩いて広報室まで向い、広報室長の西田さんの案内で図書室2階の展示室へ上がりました。

mong05a  展示室に入ると、その中にひときわ大きな絵が飾ってありました。まぎれもなく写真で見た絵です。思ったより大きい・・・。サイズは縦79cm、横115cm(絵の部分)ありました。mong05a2靖国神社の副製品に比べると色彩が非常に鮮やかでした。保存が悪くずいぶん痛んでいるという話しでしたが全くそうは見えませんでした(後日、五郎おじさんに聞いた話しでは、終戦直後に深澤画伯が自宅に来た時、絵を見てずいぶん色が落ちてきたので「今度、塗り直しましょう」と言われたが、その後、機会がなかったという話しです。描かれた直後はどれほど鮮やかな色彩だったのでしょうか?)
  草原の鮮やかな緑、すこしどんよりとした曇り空に燃え上がる戦闘機の黒煙と炎の赤。モデルの五郎おじさんの顔は非常に細部まで描いてありました。絵の解説には

「西原曹長 部隊長救出の図 従軍画家 深澤清画 昭和14年8月4日満蒙ノモンハン附近において西原曹長、豪胆にも敵地より松村部隊長を救出す」

  とありました。絵の片隅には、説明と同じ文章が深澤画伯によって書かれ、最後は従軍画家“深澤清”とサインが入っていました。絵は、私の2台のカメラと母のカメラ、合計3台で写真に収めました。撮影終了後、西田室長に図書館内の陳列品の説明を受け、自衛隊施設を案内してもらい、満足感一杯で自宅に戻りました。


⑤-2 我家に良く来ていた保険外交の宮本さんの不思議な話し

  絵の写真を撮った翌日、最近、ご無沙汰だった生命保険の宮本さんがひょっこり我が家にやって来ました。母が前日の話しをすると宮本さんのご主人も陸軍航空隊だったという返事。戦地での話しが非常に良く似ているので、もしかしたら同じ部隊だったかも・・ということで、その夜、母が五郎おじさんに尋ねてみると、なんと宮本さんのご主人を知っていると言う話しでした。宮本さんのご主人が健在であったならどんなに驚かれたことでしょう。私達が奈良の自衛隊を訪問した翌日に宮本さんが我家を訪れた事。これは偶然なのでしょうか?とにかくこの件では偶然めいた事が多いのです。
  その後、五郎おじさんに借りた陸軍航空隊年鑑の中に宮本さんの御主人の名前があるのを見つけました。


⑤―3 ノモンハンの夏(ビデオ)他

→ノモンハンの夏(書籍)→裏表紙の参考文献「撃墜・松村黄次郎」

mong05b  東京の私の叔父から、文藝春秋社からノモンハン事件のビデオが出ているとの知らせが入りました。題名は「ノモンハンの夏」です。早速購入しました。内容には、当時の航空隊の映像が多数あって、兵士の一人が「もしや五郎おじさんでは・・」という所まで話が盛り上がってしまいました。ビデオの内容がNHKとは一味違った内容だったので書籍の方も釣られて購入しました。

  もうこの頃は、頭の中がノモンハン漬けですから一気に読破してしまいました。
  何回目に読んだ時でしょうか?その日も「ノモンハンの夏」をペラペラとめくっていました。本の最後の参考文献のページに「撃墜・松村黄次郎教学社出版」という名前を発見しました。「松村・・もしや・・!」と思い、母から五郎おじさんに尋ねてもらった所、間違いなく五郎おじさんが救出した松村中佐でした。実は五郎おじさんが送ってきてくれた手記中、松村中佐の書いた部分は中佐がノモンハン事件の空中戦について書いた著書「撃墜」の「九死に一生」の部分だったのです。急いで文藝春秋社に電子メールを送り、出版社を尋ねたところ、担当者の方が「ノモンハンの夏」の作者・半藤一利氏に直接聞いてくれました。

  「拝復 お尋ねの「撃墜」松村黄次郎 教学社でございますがこれは昭和17年刊行の本で、奥付の住居表示は現在存在しないものです。(東京の渋谷区)また、書籍協会で調べましても教学社はありますが同名の別会社と思われます。古本屋で探しても手に入るかどうか、というところかと思われます。
  半藤氏によればお尋ねの方の名は「西村」と出てくるそうです。戦前はたいそう知られた美談ということで、いろいろなものに(絵画ですとか、本ですとか)描かれた題材だと伺いました。たいそう古い本ですし、1册より持っていない資料のため半藤氏もお貸しするのにためらいがある御様子でしたが、必要部分をコピーするくらいでしたらば可能かと思います。どうしても必要でしたらば、お手数ですがもう一度御連絡をください。」

  ということでした。昭和17年の本であれば探すのは困難です。三宮の古本屋やインターネットの古本探しで探してみましたが返事はありませんでした。また、母方の親戚の話によると「撃墜」を所有していた人が数人いたのですが、本は全て行方不明。五郎おじさん自身も数冊所有していたそうですが、全て人に貸したっきり戻って来てないそうです。
  「撃墜」を読みたいという望みは絶たれたかに思えました。しかし、しばらくして五郎おじさんから「昭和17年出版の”撃墜”はないが、昭和47年に再版されたものはある。」と連絡がありました。「なんだ、あるのなら早く言ってくれょ・・・」という心境で、早速、送ってもらう事になりました。


⑤―4 撃墜・日本陸軍戦闘機隊(付・エース列伝)他

ノモンハン空戦記(ボロジェイキン・ソ連)、航空情報S39年8・9月号(特別記事;真説ノモンハン空戦録、ボロジェイキン少将に答える)

  五郎おじさんから荷物が届きました。その中には「撃墜」だけでなく「日本陸軍戦闘機隊」、「航空情報S39年8・9月」、「ノモンハン空戦記」がいっしょに入っていました。

mong05c2「撃墜」という本は、松村黄次郎中佐の第24飛行戦隊がノモンハン事件に参戦してから、松村中佐が負傷するまでを書いたものでした。あちらこちらに西原曹長の名前が出てきます。末尾の24戦隊アルバムには五郎おじさんも写っています。mong05c当然、最後の「九死に一生」の部分ではもう一人の主人公として描かれていました。また、ページの間には五郎おじさんが当時の状況を補足した貴重なメモも挿んでありました。松村中佐の文章は、所々にユーモアのセンスが感じられ、昭和17年の戦時国家の時代に書かれたものとは思えないものでした。私の印象では非常に上官として慕われた方だったのではないかと思えました。だからこそ当時従軍していた深澤清画伯や五郎おじさんと戦後も友好があったのだと思います。

追記・・
「撃墜」昭和17年版と 西原曹長部隊長救出の図が挿絵になっているページ
      mong05c3    mong05c4


mong05d2「日本陸軍戦闘機隊」は陸軍航空隊の全部隊とパイロット全員の名簿、撃墜のエースパイロット列伝が載っているものでした。mong05d五郎おじさんもエースパイロットの項で「12機撃墜のエース」として載っていました。(5機撃墜するとエースの称号が与えられる)





mong05f「ノモンハン空戦記」はソ連軍のパイロットがノモンハン事件の経験を自伝風に書いたもので、やはり「ノモンハンの夏」の参考文献になっているものですが、読んでいると始めは良いのですが、途中から昔の恋人に戦場で巡り逢って再度恋が芽生えたり、話が変な方向に行ってしまい、最後まで読みませんでした。


mong05e「航空情報S39年8・9月号」はボロジェイキンの「ノモンハン空戦記」に書かれている内容に対して、当時のパイロットが座談会をして反論したもので、松村黄次郎氏や五郎おじさん、滝山和氏(「ノモンハンの夏」のビデオでインタビュー出演)が参加されていました。




⑤―5 絵が描かれた経緯を「撃墜」から抜粋

mong05g  「撃墜」の中には、当時、ノモンハンに従軍していた深澤清画伯が出てきます。ある日、松村中佐は本部基地で野口大佐(第11飛行戦隊長)と一緒に、深澤画伯の立てたお茶をごちそうになります。(撃墜の挿絵より)その夜、松村中佐は深澤画伯と枕を並べて床に就き、お互いを語り合ったということです。出撃の朝、まだ夜が明ける前に松村中佐は深澤画伯を起こさない様にそっと起きたのですが、深澤画伯は松村中佐を見送りに起きて来ました。
  そして、その日の午前中、松村中佐は負傷。五郎おじさんの話では、五郎おじさんが救助後に本部基地へ報告に行った際、深澤画伯が「松村さんが負傷したと聞きましたが、どんな状況だったのですか?あなたの戦隊でだれか知っている人はいませんか?」と聞いてきたのだそうです。そこで五郎おじさんは「自分が助けました。」という事を告げ、当時の状況を深澤画伯に話したという事です。

  その後、松村中佐は長期間入院し、その間に「撃墜」を書き上げました。退院後は陸軍明野飛行学校の校長に就任。五郎おじさんはというと、南方の戦場で青木飛行団長の僚機ばかりをやらされたそうです。松村中佐が「私を助けた西原だけは死ぬような事がない様にたのむ・・」と強く働きかけたといいます。(僚機は戦いに参加できない・・・)
  一方、南方戦線にいた五郎おじさんの所に、深澤画伯の描いた絵が完成したという松村中佐の知らせが来たのは、数年後の事だったそうです。絵は一旦、佐賀県の五郎叔父さんの実家を経て(この時、小学生だった母や叔父が見たようだ)、太平洋戦争中は北茂安小学校にの講堂に展示されたそうです。終戦時、米軍からの押収を恐れた当時の広尾校長(真珠湾攻撃時に戦死した九名の一人、広尾大尉の父)が自宅の倉庫に絵を隠し、昭和22年に南方からの復員した五郎おじさんに返却、しばらくは西原家に落ち着いたそうです。その後、五郎おじさんが自衛隊を退官する際、幹部候補生学校に寄贈。現在に至ります。

追記:2010/11/17
  本日、奈良基地にお邪魔した際に、絵の由来に関する経緯を教えて頂いた。話によると昭和36年秋に松村氏の起案にて絵を幹部候補生学校に寄贈する話が進められたとの事。上の記述は親戚縁者から伝え聞いた話ではあるが、西原五郎退官時の昭和40年ではなくそれ以前の昭和36年直後に幹部候補生学校への寄贈が行われたのが正しいようだ。(寄贈が4年後の退官時まで延びたという事はないであろう。母の話によると、絵が娯楽室に展示されていた時期がある様で、それを西原が「そんな場所に展示するべき絵ではない」と怒ったというから、それは在官中の話だったのかもしれない。)
  寄贈の際の松村氏の手紙には以下のような文面があった「これで油絵の執筆者で今は亡き従軍画家の霊も、地下で光栄に感激しておりましょう。また戦後は塵にまみれていたのを自宅に引き取って保管に興じていた西原五郎氏も大いに満足でありましょうし、更には記念すべき事件を描かれた油絵が私蔵されてしまうことなく再び陽の目を見る事に至った事を、私も歓喜しております。」とあった。
  こうして考えると私がこの一件を追いかけ続け、HP等にしているもの何か大きな流れの一部のような気がしてならない。なお、万が一にもと思い、記載されていた住所に手紙を書いて見たが、宛名不明で戻ってきた。いつの日か松村氏のご遺族の方と連絡が取れれば・・と思う。