ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
1.モンゴルに行くきっかけ
④絵と対面するまで(絵に描かれた当時の状況)
さて、平成11年9月末に母と私のだいたいの予定が決まって、奈良の幹部学校の西田広報室長に連絡をした所、退官の準備期間で10月15日が最後であるとの事。また、偶然にも西田室長の自宅は神戸の北区で現在単身赴任中である事(週末には帰宅)、奥さんの実家が私の家から5分ほどの所である事などがわかり、これも何かの縁なので西田室長が在官中の10月14日に有休をとって絵を見に行く事になりました。神戸から来るという事で西田室長には大変親切にしていただきました。
さて、複製品に描かれている状況があまりに緊迫した状況なので、母は絵の描かれた経緯や当時の状況を、直接、五郎おじさんに尋ねてくれました。すると早速、絵の描かれた経緯を書いた手記を送ってくれる事になりました。その手記は絵を奈良航空自衛隊幹部学校に寄贈する際、学校付けのタイピストに打ってもらった貴重なものです。コピーといっても30年以上前の代物なので非常に読みにくかったのですが、手紙が到着した土曜日の昼下がり、私は食い入る様に読み入ってしまいました。そこに描かれている状況があまりにも緊迫したものだったからです。まさに九死に一生の言葉通りです。なぜ隊長が転倒している機体の尾翼の下敷きになっていたのか?本当に絵のように戦闘機は炎上していたのか?また、手記には絵に描かれた場面以外の緊迫した当時の状況も克明に書いてありました。読み終わって大きなため息が出るほどの内容でした・・・。偶然が作用しあって、本当に危機一髪のところで救助できたのだという事が文章から読み取れました。助けた本人曰く「僚機だから“隊長が落ちました・・”なんておめおめと帰って来るわけもいかないし・・勇気がどうのこうのと言うよりも、こうするしか方法がなかったんだよ」という事でしたが・・・。
(以下、原文より抜粋・編集及び現代語に変更)
松村中佐=助けられた隊長、西原曹長=母の叔父、助けた本人
<< 松村中佐 手記 >>
昭和14年8月4日。この日、戦場上空は高度4000m附近にある一連の層雲によって覆われていた。
わが戦隊は、まず雲下を飛行して敵機を探索した。戦隊といっても3個中隊編成であるべきところが、2個中隊で事件に突入、あいつぐ空中戦に損害を受けて、この日の出撃可能機数は隊長を入れてわずかに10機。もはや1個中隊の機数にすぎなかった。
この日も、わが部隊は原田部隊に引続いて制空任務についたが、その兵力は決して十分とは言えないので、わが部隊の制空時間内に敵戦闘機は間違いなく現れると、私はにらんでいた。そのため我々は、油断なく探索につとめたが、雲下には敵機を発見できなかった。そこで私は、ふと、敵戦闘機は既にこの層雲の上に来ているのではないかと考えたので部隊を率いて雲の上方にまで出て見ようと決心した。
午前8時33分、わが部隊が雲の下すれすれの高度3700mに達した時である。突然、敵機を発見した。敵はどこから来たものかわからないが、I-16、I-15の15機編隊である。(I-16=イ-16;イリューシンの略)距離500mほどで高度は敵の方がやや高い。私は、ただちに翼を振って攻撃開始を命令した。この信号を見たわが部隊の飛行機は、たちまちぱっと開いて攻撃態勢をとった。私もすかさず、先頭にあるI-16を捕捉していきなり追遮攻撃をかけた。あちらこちらに敵味方入り乱れての格闘戦である。私の僚機・西原機も、I-16を追尾している。今日の敵は大して優勢でもないから大丈夫だと思っているが、もし更に他の敵戦闘機が戦闘加入してくると面倒になるので、これらの敵をなるべく早く片づけなければならない。こう思いながら、苦戦に陥っている僚機はあるまいかと見まわした時、直下200mばかりのところを敵のI-16の6機が行き過ぎようとしているのを発見した。「よし、この敵の戦闘加入を阻止せねばならない」と私はすばやく先頭にあったI-16めがけて攻撃を加えた。
一連の射撃を浴びせてたしかに手応えがあったはずだが敵は発火する様子もない。さては噂の通り敵は防弾タンクをつけているのか?「さらば・・」私は急旋回しながら、回避する敵機を追尾したが、この時、私は別のI-16、3機に包囲されているのを感じた。だが、かまわず、目の前の敵を照準器のなかに入れて機関銃の引き金を引く頃には、すでに私の飛行機も敵弾を受けていてガンガンと翼がなっている。しかし私はひるまなかった。多数の敵中に突込んでいながら、敵弾をあびることなく敵機を撃墜するなどという器用なことは私にはできない。「敵に皮を切らせて自分は敵の骨を砕くんだ!」と私はぐっと引き金を握り締めた。焼夷弾の曵光が敵の操縦者を包んだと思うと、操縦席の前方からぱっと火を噴いた。「これでよし」と私は機首を起こしてスロットルをいっぱいに引いたがエンジンはいうことを聞いてくれない。不調である。途端にむせるようなガソリンのにおいが鼻をついて来る。「やられたか」と座席のなかを見ると操縦席の前方からガソリンが霧のようになって噴出している。
「万事休す」である。今は戦闘離脱を決心するほかはない。手早くエンジン・スイッチを切って急旋回を行いながら、わざと機体をスピンさせ、撃墜されたと見せかけて追撃してくる敵の攻撃を回避した。
幸い敵機は攻撃を断念したので、私は簡単に戦闘圏外に離脱することができた。しばらく機首をハルハ河の方向に向けたものの、私はふと考えた。高度計は空中戦開始時の4000mからぐっと下って2000mを示している。エンジン停止後の空中滑空の距離は高度の7倍だから、約14kmだ。しかし、すでにモンゴル領に深く入っているので、このまま空中滑空を続けたとしても、かろうじてハルハ河を越られるかどうか?というところだ。敵の地上部隊は既にハルハ河を越えているので、どちらにしても敵戦線の後方でなければ、着陸できないことは明かだ。さらば次に来るのは敵線突破だ。暗闇にまぎれてならいざ知らず、白昼に敵戦線の後方に不時着して敵戦車や装甲車の目をかすめて、戦線を突破するなど不可能に近い。しかし、やれるだけはやってみなければならない。最悪の場合に陥ったならば、ただこの拳銃の最後の弾丸で自決するばかりだ。すでに可児、森本の両中隊長ら親愛なる部下の5分の4を失っていた。今、私も部下の後を追う運命に来たのだ。恐怖はなかった。
こう決心した私は、更に空中滑空を続けながら、この傷ついた飛行機が到達できる範囲で、なるべく敵戦車や装甲自動車のいない場所を探し求めるのであった。そうして、それはハルハ河とホルステン河との合流点から、少し東方の「東渡り」附近のほかにはないようだ。私はなおも滑空角度に注意しながら不時着地点付近の敵情を観察した。
その時である。なんとなく飛行機の気配を感じて後を振返ると、いつも編隊の僚機のつく位置にまぎれもない、わが部隊の標識のある飛行機がぴたりと寄り添っているではないか。よく見れば、それは私の僚機の西原機だ。西原機も私の振返ったのを認めたのか、頻りに機翼を振っている。それはあたかも「大丈夫です、部隊長殿、私がついています」と言わんばかりの心強い信号であった。これを認めた私は、何度か強くうなずき返した。「これで先ず、敵線突破の困難だけは除かれたというものだ。あとは自分が西原機の着陸に安全な場所を求めて不時着すれば良いのだ。そうすれば西原機が私を拾って帰ってくれる」そう思うと、今までひたすら最悪の場合の覚悟に冴え切っていた私の頭にじいんと熱い血がのぼるのを感じた。
しかし、ハルハ河に近づくに従って、私の飛行機はしだいに高度を失ってゆく、それでもハルハ河を越える頃には。まだ200mの高度を保つことができた。ハルハ河を越えた所は平坦な場所が少ないので、私は「東渡り」からノロ高地を包囲している敵地上部隊の方向に通じている通路・・といってもほんの草原の轍の痕跡があるばかりだが、その附近に不時着しようと決心した。幸いその近くには敵の戦車の姿も見えない。横風ではあったが、今は高度の余裕もないので「東渡」の方向から通路にそって着陸しようと左旋回を行いながらフラップを降ろした。
フラップをおろし終わった途端にパッという音がしたと思うと、座内席は一瞬のうちに真赤な炎に包まれてしまった。噴出していたガソリンにとうとう引火したのだ。高度は100m、落下傘降下するには300mの高度が必要だ。「また、やったな」心の中では自分はこうさけんだ。私には空中火災は始めてではなかった。
それは4年前、内地で新しい戦闘機の審査に従事していた時の出来事である。その時もやはり着陸直前の旋回中に漏洩していたガソリンに引火したのだ。私は手や顔面にふきつける炎の熱さに耐えかねて思わず、落下傘降下のために座席ベルトを外した。そして、いざ降下しようと真下を見ると高度はせいぜい100m程だった。落下傘降下をしたならば完全に開くまでに私の身体は地面に打ちつけられて終るだろう。たとえ足や顔は焼けただれても、飛行場に着陸するより外に方法はないのだ。私は皮手袋をはめた左手で顔を蓋い、ふきつける高熱のガソリンの炎にあぶられながら、平常の通り飛行場に着陸した。着地後、しばらく滑走して、転覆の危険なしと認めた時、機外に飛び出した。飛行機は炎上したけれども、私は顔面に軽い負傷を負っただけけで助かったのであった。
とっさに4年前の冒険を思い出した私は、下半身にふきつける熱い炎に耐えかねて両足を方向ペダルから離して座席の近くに縮めながらも、落下傘脱出をしようなどとは思ってみなかった。たとえ、両手両足は焼け焦げようとも、このまま火達磨となって着陸するより仕方はないものと覚悟を決めた。しかし、紅蓮の炎に包まれて操縦桿を握る右の手は焼け焦げるように熱い。耐えるつもりであったが、それでも2度だけ、私は手を離した。するとその度に、飛行機はがくっと機首を下げ墜落状態になろうとする。私は慌てて、灼熱した操縦桿を握りしめ、炎のなかで必死の操縦を続けた。もちろん、この間にも着陸後の脱出を考えて座席ベルトをはずすことは忘れなかった。地面に近づくに従って、接地姿勢をとるため操縦桿を引いた。そうして機首を起こして、速度が低下してくると、今まで下半身をおおっていた炎は、私の上体までも包んでしまった。
着陸操作のため、懸命に凝視していた地面は炎にさえぎられて見えなくなり、私はその中で窒息しそうになった。炎の熱さと息苦しさで、無我夢中ながらも、私は微かに車輪の接地した衝撃を感じた。同時に座席に立ち上がって、翼の上に飛び出すと、プロペラにも叩かれず、尾翼にも衝突しないように斜前方、翼の前をめがけて身を投げた。
この日の正午すぎ、私は傷ついた身体を基地飛行場の病院の一室に横えていた。ハルハ河畔に負傷してから3時間後の事である。病院に収容されるとすぐに、軍医の診察を受け、焼けただれた顔面や両手、両足に対する手当をしてもらった。それが済むと私は烈しい痛みに襲われながらも、急を聞いて駆けつけた部隊本部の真島准尉に、午前の戦闘状況をたずねた。聞けば、私が敵弾を受けて戦場を離脱した頃から、敵機の数はしだいに増加して、遂にはI-15、I-16合わせて約60機にも及んだため、わが部隊は相当な苦戦に陥ったということだ。しかし敵に与えた損害は、撃墜7機にすぎなかったけれども、わが方には私が負傷したほかには損害はなかったという。これを聞いて私も安心した。
ここで私は、意識不明のまま前線飛行場から病院に収容されたので、今後の事に関して何も部隊に命令していないことに気がついた。そこで、私の入院中、田代隊長が部隊の指揮を取るように真島准尉に言い付けた。真島准尉がこの命令伝達の処置を部隊と取り終るのを待ちかねて私は重ねて真島准尉に訊ねた。「自分が負傷してから病院に送られるまでの経過について聞いていないか?」「まだ、前線飛行場から詳しい報告はきておりません。しかし、部隊長殿を護送してきた衛生曹長からあらましのことは聞きました。」真島准尉はこう答えて、彼の聞き得たことを、ぽつぽつ次のように話すのであった。
接地後、私が飛び出すと同時に私の飛行機は転覆し、私は尾翼の下敷となって意識を失っていたらしい。西原機は私が着陸すると引続いて着陸。すぐさま座席から飛び降りた西原曹長は、すでに燃料タンクに火が点いて炎々と燃えさかっている私の飛行機の側にかけつけた。そして弾倉に残っていた機関銃弾が高熱のため、自爆して飛び交う中で、私を尾翼の下から引きずり出し、自分の飛行機の側に運ぶとすぐ、手早く胴体の下面から座席後方に押し込んだ。
かくて炎を望んで襲来する敵戦車が現場に到着する寸前、敵弾をあびながらも敏速に離陸して、一路、前線飛行場に向ったが、タンクをやられていたために、ガソリンは切れ、友軍の戦線内に不時着したというのであった。
かくて、23年間のパイロット生活に終止符は打たれた。飛行時間は5000時間になっていた。 (終)
<< 西原曹長 手記 >>
前方、高度差約400mの所をI-16、6機がハンダガヤ方向(東)から西に向って私と松村中佐機の真下を行き過ぎようとしていた。この時、私は上方より攻撃してくるI-16、4機と交戦していた。私が上方の敵の最後の1機の攻撃を回避していると、下方で敵を追撃していた松村中佐機が、敵が火を吹くと同時に左キリモミに入るのを目撃した。この時の高度約4000m、モンゴル領内に20km程入った地点であった。
うっかりしていた訳ではなかったが、上方の敵4機の攻撃に対処するのに精一杯で、かけがえのない隊長機を墜落させた・・と一瞬の後悔の念が胸中を走った。私は夢中で急降下をして、キリモミ中の松村機を追いかけた。ずっと高度を落しスピンを止めて、国境方向に向う松村機を追いかける私に、後方よりI-16、4機が交互に攻撃して来た。私はこれに反撃を加えたが撃墜するまでには至らなかった。しかし、この4機が国境線近くになった時、攻撃を断念し戦闘圏に引き返してくれたのは、今考えると私達が九死に一生を得た最大の原因であったと思う。
私は敵の追撃がないのを確認し、急いで隊長機の右後方、2番機の位置に従いて見て驚いた。隊長機のプロペラは空転しているに過ぎなく、また両翼からは2本の白いガソリンが太く尾を引いていた。この時、高度は5~600mであったので、私は夢中で下方を指して松村中佐に着陸を促したが、中佐は身動きひとつせず前方を見据えたままであった。(後でわかった事だが、ガソリンのに匂いにむせながら着陸する場所を探していた時であった)
間もなく傷付いた松村中佐機と私の2機は、高度約200mでハルハ河の南渡河点(南渡し)のソ連・モンゴル両軍の戦車やトラックの大部隊が集結している上空をヨタヨタと飛んでいった。渡河を終った戦車・トラックの上空、呆然??と我々を見上げている濃緑の軍服姿の敵兵が見えていたがなす術はなかった。そして、松村中佐が、この前方の開けている草原に降りるつもりらしい事が、慌てている私に解った頃には、高度は100mとなかった。
その時、突然、松村中佐機は急激に機首を下げ、左へ約45度方向を変え、小松の林がある砂丘の前の平地に向って着陸姿勢に入って行った。フラップを下げ右側に従いていた私は、この時、隊長機の後方に着陸するため右急旋回を打った。その旋回中、大きく尾翼を起こし紅蓮の炎に包まれながら転覆する松村中佐機が視界をかすめ、私に決定的な第二の後悔の念を与えた。
草原の上を360度旋回して、燃え盛る松村機の左側前方、約20mの所に着陸した私は、直ちに右側に飛び出して脱出口の蓋を落した。(幸運にも、私の飛行機の脱出口のハンドルの覆は、壊れてなくなっていた)私は、着陸時に松村中佐が右水平尾翼の所に落下傘ベルトの背中を見せて倒れているのを発見していたので、松村中佐は火災の座席からはい出して来たのだと思っていた。そして、直ちに尾翼に向って走り出した。
草は深く膝を没する程の高さであったし、燃え盛る松村機からは、銃弾が炸裂しながら四方八方に飛散し白煙と共に草原の草を空中に舞い上らせていた。しかし、その時はそんなものに構っている暇はなかった。駆け寄り、落下傘ベルトの背中を握り尾翼の下から引きずり出し、抱きかかえる余裕などはなく、火がついて燃えている飛行服の足、手、焼けただれた顔で「貴様は誰だ!」と絶叫する松村中佐を後向きに中腰で引きずりながら20m走った。(この間、1、2分位だろうか?幾秒だったろうか?。無意識で解らない。むろん敵の銃弾が飛んでいたとは一寸も知らなかった。)胴体下の脱出口の入口に中佐の頭を突っ込み、私の両腕と頭を中佐の腰の下に入れて持ち上げると、中佐の頭部を尾翼の方に向けて簡単に機体の中に入れることができた。
私は急いで脱出口を閉め、座席に飛び乗ってみて驚いた。私の飛行機は無残にも傷だらけとなっていた。風防の左側半分は吹き飛び計器板さえ左半分はなかった。加えて座席の中にはガソリンがジャブジャブと流れ出していた。(※)
「これはスロットルを入れたら必ず火が着くに違いない。よし、これで火達磨になって転がり果てれば2人とも捕虜になる気使いは先ずない。」一安心したような気がして、いきなりエンジンを全開にしたが、火が着くどころか草原をなびかせ、飛行機はためらいながらも浮き上ったではないか・・。
今の今まで「火達磨になってしまえば捕まる心配はない」などと、たかをくくっていたくせに、無事、飛び上ったとなると急に火災を起すのではないかと気が気ではなく、高く飛び上る勇気はとてもなかった。また高く飛んで敵に見つけられては、それこそお陀仏に決っていた。
(※追記2018/06/20)胴体内タンク50L、翼内タンク70L×4ということが判明した。また、胴体内タンクは、一旦、翼内タンクに落ちる構造の様で、予備タンクというよりは、真っ先に空になるタンクと見て良いようだ。(OH-1テストパイロットの菱川さん情報から推察による。)
草原の上を超低空で飛行し、機体を見まわしてみると翼と言わず胴体と言わず穴だらけで翼内タンクからは白くガソリンが噴き出しているし、両翼端にはガソリンの霧が真白く尾を引いているではないか。(救助に降りて行った時よりも、この瞬間の方が実に恐怖その物の時間であった。また帰還後に調べたところ、私の飛行機は、大は10cmの穴から小は小銃弾の穴まで50個余りの穴が空いていた。)なおも草原を超低空で北に進路を取り、黒煙を天に立ち上らせて燃える松村機、その周囲に集まる敵戦車を後ろに見ながら、ホシウ廟(ビョウ)飛行場へただひたすらに飛び続けた。
振り返って薄暗い胴体の中をのぞくと、操縦ワイヤーが幾重にも通っているその下の床に、長く横たわった松村中佐は、右手の飛行服の袖がくすぶって焼けている所を無気力、力なげにもみ消していた。その右手の飛行手袋はスルメをこがしたように黒く、そして指は細く焼きついていて痛々しい限りであった。
約20分の後、飛行場の幕舎(テント)が見え始めた頃、燃料計はゼロを指し、ガソリンはほとんどなかった。そのまま幕舎に向って直進着陸した。そして幕舎の手前50m位でエンジンはストップし滑走は止った。指揮所の前に立ち上って、私の無法な着陸ぶりを見て叱鳴っている中隊長、田代大尉の声を聞く余裕もなく、飛び降りざま脱出口を開けた。そこからだらりと焼けただれた2本の足が出て来た時、いぶかしげな顔をして私を見つめていた整備兵が印象的であった。そして駆けつけた軍医に中佐を渡してからも、数十分前の死地での興奮はなかなか静めることができなかった。
追記:2011/06/
ウィキペデイア(ロシア語・中文)の「ノモンハン事件」の項では、第24戦隊の写真が引用されています。
前列右より西原曹長(雑誌を読んでいる)、石沢軍曹、後藤曹長、斉藤(千)曹長(運転席)、吉良伍長、佐藤伍長(後列荷台)、となっている。
この時、大叔父は、わざと雑誌を読むポーズを取っていたという。