ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
2.モンゴル・ノモンハン紀行
⑧平成13年8月26日(日) 帰国
【フラワーホテル出発】
10時にフラワーホテルを出発した。見送りに来ていたダシュナムさんに別れを言う。「来年は無理だと思いますが、また必ず来ますので・・・」と言うと、ダシュナムさんはゆっくりと微笑みながらうなずいて「この歳の老人はわからないですよ」と言った。また数年後に会える事を祈るばかりである。
朝のウランバートルの街をバスは行く。メインストリートを過ぎてから、ふとVTRのテープがずいぶん余っていた事を思い出して車中から風景の撮影を開始した。時刻と日差しと車の方向が良いので窓越しにきれいに撮影できた。メインストリートを撮影できなかった事を後悔した。またの機会を作るしかないな・・・しかし、数年後のウランバートルの風景は変わってしまってるかもしれない。
しかし、今走っている空港への裏通りの道は普段利用するコースではない。今年、トゥーラ河に架かる橋が壊れた為、走っているそうだ。ある面では貴重な映像が撮れたのかもしれない。
【ウランバートル国際空港】
慌しく出国の準備を済ませる。石井さんが「バチカから用紙(空港使用料)を受け取って中に入ったらそれが最後になります。」と言う。これが最後の別れと言うやつだ。一緒に鉄兜を拾ったガンバトルさんには英語で別れを、トゥーラさんには「また必ず来ます」、手伝いのバッツールには「今度会うまでに日本語勉強してね」そして最後の「もうかりまっか」「ぼちぼちでんなー」を交わした。(ウランバートル国際空港)
搭乗通路で我々の後ろにいた男性の客が連れのおばさん達に「ノモンハン事件ってのはさぁ・・・」と知ったかぶりをしている。どうやら我々が付けている”ノモンハン現地慰霊団”の名札を見てその話題になったようだ。なんだか我々の認識と少し違う事を言っている。するとおばさんの一人が「パールハーバーと同じじゃん・・」(当時公開の映画”パールハーバー”の影響?)おいおい・・どこがパールハーバーと同じなんだ。よっぽど「ノモンハン事件にお詳しいですね。私にも教えてくださいよ」なんて言おうと思った。私は名札は付けていなかったので・・・。
座席に座ると左横は木島副団長、通路をはさんで右横が永井団長である。ふと見ると団長が前の座席の背もたれに頭をつけて居眠りしている。またしても、倒れているのか居眠りなのか紛らわしい格好である。息をしているのかどうかもわからない・・・。木島さんに「団長は息をしてますかねー」と聞くと「ほっときゃいいよ」という答えであった。いやいや全く・・・
機内では木島さんが航空地図を広げていた。娘さんか?誰かの旦那さんがパイロットで、その人がくれたのだそうだ。航空地図は始めてみる物だったので興味がわいた。モンゴルの東から日本上空までをカバーする地図で、複雑な線と文字が入り乱れていた。よく見ると航路とその方位が細かく記載されており、これを瞬時にパイロットが読むのだなと思った。
【関西国際空港】
飛行時間は4時間若で関西国際空港に到着。偏西風の影響か?帰路はとても早かった。昨年は深夜0時ぐらいに出発して6時に関空に到着したはずだから、どうなっているのか?よくわからない。とにかく早く帰れて良かった。
今年は関空到着後の別れの挨拶でグッと来る事は無かった。みんなそそくさと帰っていった。唯一、成田山の真野さんが名残惜しそうな感じであった。
私としては、「まあ、来年は行かなくても関空まで見送りに来るさ・・・」そんな心境である。ノモンハン桜も税関で没収されなかったし良かった良かった。
【帰宅中、最後のトラブル】
明るいうちに帰宅できたが、実は最後の最後でトラブルに見舞われた。JR舞子で乗り換え、山陽電車西舞子駅で電車を下りて階段を上がっている時であった。私の古傷の故障個所である、左足の太ももの付根(股関節)がグキッといったのである。そこからは道路をアタッシュケースを転がして移動するだけなので、大きな問題にはならなかったが、その後数日間痛みがあった。
【帰宅後】
帰宅して実家に顔を出すと、丁度夕食の準備中であった。やっと帰ってきた・・・という実感はあまりしなかった。あのような体調であったにもかかわらず、夕食はすんなりと腹の中に入っていった。その事を素直に素晴らしいとは思えなかった。どちらかと言うとモンゴルに適応できなかった事を改めて認識させられてしまったからかもしれない。モンゴルと日本の違いを突きつけられたような感覚であった。