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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.モンゴル・ノモンハン紀行

⑦平成13年8月25日(土) ウランバートル観光・・のはずが

【その日の夕方】
  昨日の夕方にウランバートルに戻ってから、ベッドとトイレを往復する以外に全く何もできなかった。峠は越えたものの全く動く気力がなかった。
  本日はウランバートル観光の日である。しかし、半数以上が体調を崩して行けなかったそうだ。中には昨夜、お医者さんを呼んだ方もいらっしゃった。こうなると何が原因だったのか知りたくなる。私の場合、心当たりは無い。昨日の朝は快調すぎるぐらいだったので、前兆だったのかもしれないが、その前夜の食事は特に変わった物は出なかった。この時、一部の方はスンベル村で地元のツェデンバルさん(例の羊の料理を用意してくれた方)のゲルに呼ばれて、地元の馬乳酒などをご馳走になったという事である。それにしても私の原因になりそうな物は思いつかなかった。その日、ホテルでぐっすりと眠った。
  夕方に起き上がって風呂に入り、ひげを数日振りに剃った。少々日焼けの跡があり、ひげの部分だけが少し白い。
  カメラのフィルムが多数余っていたので、フラワーホテルの回りの日常風景を撮影した。

  そうしているうちに市内観光に行ってた皆が帰ってきた。今夜はお別れパーティーである。こればかりは欠席するわけには行かない。しかし、時間はまだ少しある。そうしていると内線電話が鳴った。成田山の福田さんからである「おにぎりを用意してるので食べにおいでよ。もう、涙が出るぐらいおいしいですよ」である。思わす”その涙が出るぐらいおいしい・・・”に引かれて、福田さんと間野さんの部屋に行った。

  成田山の部屋はさしずめ食料庫のようであった。ありとあらゆる物が段ボール箱いっぱいに揃っているような感じだった。「この水も日本から持参したミネラルウォーターですよ」と福田さんが言った。それでお湯を沸かしてフリーズドライのおにぎりに注ぎ、待つ事20分。梅のふりかけをまぶしてのりを巻くと、おにぎりの出来上がりである。まったく驚いてしまった。食欲そのものが無かったので、涙までは出なかったが。日本食の有難さを痛感した次第である。そう考えると、私自身はモンゴルに順応したとは言えず、モンゴルを駆け抜けたようなそんな感じがした。個人的にも民族的にも食の弱さを痛感した。しかし、体調を崩しても仕方の無いぐらいのハードスケジュールだった事も事実である。
  おにぎりの他に牛肉と蓮根の煮付けなどを頂いて腹を満たしてから、解団式・お別れパーティーに出発した。

  お別れパーティーに出発するバスの中でダシュナムさんから1冊の本を頂いた。全員がもらったようだが、1冊1冊ダシュナムさんの直筆で「謹呈、松本様。2001年8月、ダシニャム。」の文字が書かれていた。キリル文字で書かれた本はダシュナムさんの奥さんが仏教について書いた物らしい。全く読めないが非常にうれしかった。私にとっては一生の記念になるだろう。

【解団式・お別れパーティー】
  お別れパーティーは別のホテルの部屋を借り切って準備していた。一応コース料理が出てきたが全く食べる事が出来ない。全てに拒絶反応しているような感覚だ。しかし、空腹感が全く無いのだから食べようにも食べれなかった。アルコールもむろんダメで、水だけを飲んでいた。そのせいか、あまり周りの人としゃべる気分でもなく、ひとりぼんやりと過ごしていた。
  横がトゥーラさんだったので、ここぞとばかりにソ連製の地図の地名の呼び方を聞いて書き込んだ。

【その夜】
  体調が多少回復したので成田山の福田さんと間野さんの部屋で、邦弘さん、石井さんの5人で酒を飲んだ。まあ私は飲むというほどのものではなかったが・・・。成田山のお坊さんの2名がマッサージを呼ぶというのでどんなものか興味があった。しかし、話に聞くとそんなに気持ちの良さそうなものではない。モンゴル人の若い女性2名が来てベッドルームを締め切ってマッサージである。外の部屋にいる邦弘さん石井さんと私も大笑いであったが、決して怪しい物ではなかった。ただ、両名のうめき声はドア越しに聞こえてきたが・・・
  福田さんは不思議な雰囲気を持っている。モンゴル人だけにそうなのかはわからないが、言葉がわからなくてもコミュニケーションしてしまうのである。手伝いのバッツールにしてもモンゴル軍のトラックの運転手にしてもしかりである。当然、マッサージの女の子達とも旧知の友人のようである・・・。そういう点は真似できないと痛感した。
  結局、その夜も3時まで夜更かしをしてしまった・・・。これでは体調を崩しても仕方が無いのである。