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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.モンゴル・ノモンハン紀行

⑥平成13年8月24日(金) 現地4日目、最終日

バインチャガン、イフブルハン。そしてウランバートルへ移動。

【バインチャガンに出発】
mong36j.jpg   本日も快晴である。とても体調が良い。朝にはお腹が減っていて朝食が待ち遠しいぐらいだった。
  予定通り9時にバインチャガンに向けて出発した。右手に戦勝記念塔(高さ約50m)を見ながらハマルダバの丘のガタゴト道を登る。上に出るとそこは水平線の向こうまでただひたすら大平原である。とにかくまっ平らな平原なのである・・・。

mong36a.jpg   道は1本道だが、地質のせいか?雨が降ると極度にぬかるんでしまう。ここ数日間、雨は振っていないので、トラックも快適に走っている。村の中で一度トラックが寄り道?したので小型バスの2台が先に言ってしまった。追いつく為かどうかわからないが、直線の部分では荷台にいるのが苦痛なぐらいに飛ばしている   一体何キロ出しているのだろうか?目測で70~80km/hは出していたようだ。これだけのスピードで風に吹かれると言うのは日本ではバイク以外に考えられない。全く、後ろに乗っている人間たちの事を考えているのか?と思わずにいられない。最高速度がいくら出ていたのか、GPSの最大移動速度の機能を使って見てみると105km/hである。皆に言うと「エーッ」と驚きの声である。自分でも、いくら何んでもそんな事は無いだろう・・と思っていると、ふとテレルジに行った時から最大移動速度をクリアーしてない事を思い出した。舗装道路では100km/hぐらい出していただろう・・・。まったくそそっかしいにも程がある、と自分で思った。ただし、帰国後によく思い出してみるとテレルジに行く時にGPSなんか使用していないのである。もしかすると本当に105km/h出していたかもしれない。全く・・・。

  大平原なので出発してからすぐにバインチャガンの近くにある高さ10mぐらいの塔が見た。しかし、なかなか近づいてこない・・・とは言う物の、運転手が無謀にも?飛ばしてくれたので1時間半のドライブ予定が1時間でバインチャガンに着いてしまった。前の車もよっぽど飛ばしていたのだなと思った。
  到着直前に1本道でジープとすれ違った。どちらも高速で1本道を飛ばしている。こういう場合はどちらが先に道を譲るのだろう・・・と素朴な疑問がわきあがった。50m程の距離になった時にジープの方が避けた。お互い向こうが避けるだろうと思っていて、草原の1本道で正面衝突!何て事もありえるのだろう。

mong36b.jpg    バインチャガンに到着してトラックを降りた。その時、何となく身体が重い事に気がついた。朝の快調さとはうって変わって・・である。いやな予感がした。トラックに乗っている間に体調の変化に気がつかなかった。

mong36i.jpg   写真撮影、VTR撮影を手早くすませる。すれ違ったジープの連れのもう1台のジープだろう。行きずりのモンゴル人6・7名が慰霊法要に参加してお祈りをしてくれた。モンゴルはソ連支配下の社会主義国家の時代にはほとんどの寺院は破壊され僧侶のほとんどが粛清によって殺害された歴史がある。宗教と言う物に対して、うといというのが我々の認識であったが、このように祈りを捧げてくれた事はうれしい事だ。ハルハ河の向こうには昨日我々が登った坂が見えた。

【安達大隊跡】
mong36c.jpg   バインチャガンから見えている場所に最後の慰霊回向場所の安達大隊跡がある。昨年は邦裕さんと2人で歩いて移動したが今年はトラックに乗った。木島副団長だけが歩いていた。到着した時には何となく体調が悪くなっていた。気分が悪いと言うわけではないが・・・何となく身体が重く胸の辺りがもやもやする。ほんとうにもやもや・・・という感じだった。400m程離れた所に何かが見えていたのでそこまで走っていった。残骸ではなかったが何か井戸のポンプを据え付けたような場所だった。そこでVTRを置いて回して自分の姿を撮影した。唯一自分の姿である。走って皆の所に戻ると既に慰霊回向は終了していて、時間も早いのでイフブルハンに向かう事になった。

【イフブルハン】
  イフブルハンに行く途中、トラックの荷台は大笑いだった。通訳のバチカが大阪外国語大学留学中に何処に住んでいたか?と言う話になり、彼は「大阪の千里中央」と言いたかったのだが、モンゴル語の「り」は「ドゥリ」の発音に近い発音がある為、「センドゥリ中央」と言ったのである。仕方が無いとはいえ、モンゴル大学の日本語教授が真顔で「セン○リ・・・」と言うのだから、我々日本人の男性は大爆笑であった。本人のプライドを傷つけた部分はあるかもしれないが・・危ない言葉の間違いは、このような気さくなメンバーといる時に訂正できて良かったのではないだろうか。

mong36e.jpg   安達大隊跡から20分ほど走ると、斜面に仰向けの形で巨大な仏像が造られているイフブルハンがある。社会主義時代には粛清により破壊されていたそうだが、今では再建されている。とは言うものの、仏像の色とりどりの部分は今では塗料のような物で塗られているが、建立当時は本物の岩を使って鮮やかな色彩を表現していたそうだ。入り口の左側にあるマニ車から回してゆく。回る度に悟りの境地が近くなるそうだ。
mong36f.jpg   色とりどりの仏像の中に彩色を施していない石彫りの像がいくつかあった。草原の雰囲気に合っているような気がしたので写真撮影した。個人的に良い写真が撮れたと思っている。





【ハルハ河の河原で昼食】
mong36g.jpg   時間も良いのですぐ側のハルハ河の河原で昼食を取る事になった。遠くから見ると先ほどのイフブルハンは、大きな曼荼羅絵が斜面に描かれている状態になっている。その脇を、丘の上の草原から馬の大群が土煙を上げて降りてくるのが見えた。優に200匹はいるだろう。最後尾には牧童も付いている。

mong36h.jpg   昼食の準備が整った頃には既に気分は下降線で食欲も無くなっていた。とは言うものの「悪い!」という所まで行っていない。しかし、それでも食事を腹の中に入れた。この時、話をしていると体調を崩している人が他に数名いる事が初めてわかった。数名、トイレットペーパーを手にして遠くの草むらの方に歩いて行く。それを見て不安な気分が更に加速した。既に生のハムやきゅうり等を胃が受け付けなくなり始めている。とは言うものの相変わらず食後のケーキと紅茶を2杯はやめられなかった。

   周囲の風景を見ると、緑の草原にこの地方独特の青空である。ハルハ河の流れも穏やかである。しかし、足元を見ると馬糞があちこちに山のように落ちていて、鳥の屍骸の羽が散らばっている。その横には何かの動物の骨がデンと座っている。疲れていたが衛生上食事の皿を地面に置く事はできなかったので完全な立ち食いだった。成田山の福田さんも草むらの向こうから戻ってきて地面を見た瞬間に「ウッ」と言って目をそむけたままどこかに行ってしまった。全く、足元を見ていると食欲の沸く光景ではなく、今の自分の内臓の状態をそのまま表しているかのようだった。
そこから大急ぎで警備隊司令部に戻った。

【司令部宿舎に戻る】
  宿舎に戻り飛行機に積む荷物の整理が始まった。荷物が全てトラックに積み込まれれば出発である。それを待っていると瀬戸川さんが
  「村の外れの戦車の残骸のある場所に案内してほしい」と言うのである。車の手配と木島副団長の許可は得ているそうだ。ただし、永井団長には言ってないようで、後で怒られるのを覚悟で大急ぎで出発する。通訳は居ないがドライバーは少し英語がわかるようなので英語で指示を出す。とは言うものの「Right」「Left」「Over There」の3つだけであったが・・・。

  3分ほどで村はずれの残骸に到着して瀬戸川さんの記念撮影に付き合う。この際、この残骸(BT5型:初期日本軍に良くやられたタイプ)の鋼板の厚さを測ってみた。なんと予想に反してたった15mmの厚さだった。意外な発見である。無事15分ほどで無断?別行動は無事終了した。もし車のトラブルや怪我でもあったらどうなっていたか・・・。

【スンベル空港】
  トラックは荷物でいっぱいだったので小型バスに乗り込みスンベル空港まで出発した。スンベル村の風景を見ながら少々名残惜しい気持ちになった。次この風景を見るのはいつだろうか?次回はあるのだろうか?などと思いながら、小柄バスは数日前に下りてきた丘の道をガタゴトと上がって行く。

mong36k.jpg   草原の空港に飛行機はまだ来ていなかった。VTRを準備して飛行機が来るのをまった。予定ではあと15分ぐらいで到着するだろう。このようなこの地方独特の青空・・・快晴ではあるが、どら焼きのような雲の塊がいくつもいくつも浮かんでいる。63年前の事件当時、この空の雲の陰からソ連軍のI-16戦闘機が襲来したのだ。地上の監視兵は気を抜く暇がなかったそうだ。どうしても、このような空で飛行機を見つける事がやってみたかった。サングラスをかけてパーキングの看板の日陰に入って飛行機の来る方を凝視していた。

  このパーキングの看板だが、草原の飛行場には全く不似合いな代物である。それも日本の物と同じく青字に白で「P」と描いているのである。なぜ英語のPなのかよくわからない・・・。もっとも、目標物が無いので、どこに車を止めて良いのやらわからない・・・という理由もあるだろう。間違って滑走路に車を止めていたら、それこそ飛行機が着陸できない可能性だってある・・・とは言うものの、肝心の滑走路がどこなのか全く見分けがつかない。こう見えても滑走路として土の下に石を敷き詰めて雨が降ってもぬかるまないようにしてあるのだそうだ。しかし、我々の眼にはただの草原である。目標になるのは吹流しの付いた柱だけであるが、今はその吹流しもない。毎回、来た時にパイロットが滑走路を探して村の上空を旋回するのもうなずける話だ。

  元航空自衛隊の木島さんは「風向はどちらかな??」と言って枯れ草をパラパラとやった。着陸の際に風向は非常に重要である。しかし、その目安となる吹流しは無い。誰かが冗談で「来年は鯉のぼりを持ってきて付けてやろう」といった。

【飛行機が来た・・・?】
  しかし、肝心の飛行機が来ないのである・・・。じっと空を見て立ち尽くしている私を見て「松本君それじゃ日時計になっちゃうよ~!」と邦弘さんが言ったので、パーキングの看板の影にあわせて動くまねをしたら皆笑っていた。周りを見ると皆トラックや小型バスの日陰に入って草原に寝転がっておしゃべりをしている。本当にのどかな風景である・・・。ここに来て順調すぎるぐらいに予定が消化できたのが停滞してしまった。しかし、元来モンゴルに来て時間を意識するのはナンセンスな話かもしれない。「郷に入っては郷に従え・・」のことわざの通りである。しかし、それでも私は空を見つめる事をやめなかった。空中浮遊のバッタはここでも「ブゥン、ブゥン」と音を立てて飛んでいる。今年は蚊を1匹も見なかったが、草原のいたる所でバッタが空中浮遊している姿を見る事ができた。

mong36l.jpg   水平線の少し上に微かに黒い点が見えた。ハッとしてとっさにVTRカメラを構えたがどうやら動きからして鳥のようである。「期待させるなよ~」と誰かに冷やかされた。慰霊塔を見つけるのはモンゴル人に負けてばかりだったが、飛行機は俺が1番に見つけてやる・・・。そうしているうちに1時間半が過ぎた。先ほど邦裕さんに答えて冗談で動いた位置まで影が動いてしまった。結果として、私はパーキングの看板の影に合わせて日時計のように動いていた。
  そうしているうちに水平線の少し上の辺りに黒っぽい影が見えた。鳥と違って一定のスピードで水平に動いている。先ほどの例があるのでVTRは直ぐに構えなかったが、どうやら飛行機のようである。モンゴル人より先に見つける事ができた。そうしているうちに皆も飛行機に気がつき始め、私はVTRカメラを構えた。

mong36m.jpg    飛行機の姿が大きく見えてきた。・・・とそのまま滑走路に着陸のようだ。撮影しながら「どの辺りで着陸するのか?それにしては低いな・・・」と思っていると、飛行機が草原に消えてしまった。墜落ではないが、どうやら滑走路は緩い丘のようになっているようである。スピードを殺すのに相当の距離が必要なのだ。一度消えた飛行機の姿がプロペラの大音響と共に現れた。エンジンブレーキをかけるのかもしれない。飛行時とは違うグワーンという独特の音である。こちらに向かってくる飛行機は迫力があった。

【ウランバートル到着】
mong36n.jpg   帰りの飛行機の中では皆疲れのためにぐっすりと眠っていた。私も例外ではない。行きと同様に機内食でサンドイッチが出た。体調が悪かったが、食べてしまう事はできた。そして気が付くと眠っていた。
  ちなみに、機内の窓際でGPSが使用できた。標高(高度ではない)は3800m~4600mを指していたので、高度は4000m程だったと思われる。上空から微かに車が判別できる距離である。速度は446km/hだった。
  目が覚めたのはウランバートルに近づいてからだった。スンベル村の晴天が嘘のようにこちらでは雨が降っている。嵐の雨雲を避けて飛行機が迂回しているのがわかる。真横の雨雲からは稲光が見えた。
  そうしていると・・・である。完全にお腹の調子が悪くなっているのに気が付いた。トイレを我慢できないと言う感じでもないが、完全にお腹を壊した状態になっていた。先ほどのサンドイッチで追い討ちをかけたような感じだった。
  ウランバートルは雨上がりで少し肌寒かった。体調が悪いせいか?見る物全てに違和感を感じがした。こうなると完全にモンゴル拒絶症である。早くバスを降りたいと思っても、夕方の渋滞に巻き込まれている。辛い時間だった。こんな時こそ禅の境地を試す時だと思い、身体の感覚から意識を離すように心がけてみると少しは楽になった。

【フラワーホテル到着】
  ホテルの到着して、あまりに気分が悪かったので、とりあえずチェックインの手続きの間にトイレに入ってみた。なんと驚いた事に腸はもとより胃の付近りぐらいまでの全ての食物がするすると出てしまった。こんなにひどい状態だったのか?!と驚くばかりであった。特に驚いたのは最後の方に出た便が先ほどの機内食のハンバーガーの匂いがした事だ。こんな経験は初めてだった。
  先にキーを預かり部屋に入ると、またトイレに行きたくなった。いったいどうなってしまったんだ?・・・それからほぼ20時間ほどベッドとトイレを往復する事意外に何もできなかった。
  当然、昨年のようにスンベルから戻ってシャワーを浴びてビールを飲む・・・なんて事はもってのほかだった。

【下痢に苦しむ】
  腹痛はさほどでもなかったが、胸の辺りがむかむかして寒気がした。関節の節々が妙に痛く、風邪の時のようだった。定期的にトイレに行きたくなり水のような便が出たが、何時間たっても食物の破片のような物が混ざっていた。逆に「いつになったら全て出てしまうのかな?」と疑問に思ったりもした。当然、トイレットペーパーは矢のような速さでなくなっていった。
  脱水症状寸前だという事が、小便の色でわかった。水分を取る事を意識的に心がけたが、ミネラルウォーターはトイレットペーパー以上の速さでなくなった。仕方が無いので水道水を沸かして、それを冷ましたものを飲んだ。
  同室の邦弘さんも似たような症状で、更には他にも同じような症状の方が数名いるようだ。おかげであちこちでトイレットペーパー不足が発生しているようだ。その夜、フレルバートルさんの家で歓迎会があったのだが、残念ながら私は行く事ができなかった。

  全く動けない状態が数時間続いた。寝たままの体勢で目覚めた事も何回もあった。ここにきて、ふとサバイバル・ポーチにスポーツドリンクの粉末タイプの物を用意していた事を思い出した。お陰でそれを水に溶かして飲むと脱水症状は少し改善された。それと同時に、ザバス・エナジータブ(商品名)というブドウ糖の錠剤を持って来なかった事を後悔した。自宅に置いてある分が数が少なかったので、飴で代用したのだ。確かに慰霊中にエネルギー補給で何度も飴を食べたが、やはり体調を崩した時は食べやすいタブレットの方が良かった。それでも無理をして飴を10個程強引に食べた。トイレットペーパーは残りあとわずかになっていた。

  そのうち、私が体調を崩している事を聞きつけて、いろんな人が差し入れをしてくれた。浜さんからはフリーズドライのおかゆ(梅)、成田山の鎌倉さんからは、トイレットペーパー2巻きと下痢用の抗生物質などである。その抗生物質は成田山の過去の慰霊経験から、処方箋が無ければ売ってくれない医薬品を用意しているのだそうだ。それが効いた・・・。お陰で熱も下がり定期的に行っていたトイレの数も減った。

  気が付くと夜明けだった。