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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.モンゴル・ノモンハン紀行

⑤平成13年8月23日(木) 現地3日目、最北端のホンジンガンガ

【宿舎出発】
mong35a.jpg   定時の9時に宿舎を出発した。まず、チョクトン兵舎に寄る。そこでVTR撮影をしていると、馬に引っ張られた単車がこちらにやって来るのが見えた。どうやら昨日来、チョクトン兵舎からすぐの所の道の真ん中に乗り捨ててあった単車であろう。通行が殆どないので問題は無いとは言え、道の真ん中に単車が乗り捨ててあるのは笑ってしまった。さらに馬で引かれている単車を見るのもこっけいな話だ。この地方では単車で移動するより馬の方が快適だと思うのは私だけであろうか?
  昨日、1日中乗り心地の良いジープに乗っていたからであろうか?今日はトラックの荷台でゆられるのが大変苦痛である。揺られる方向が、昨日の前後方向から、横乗りしているので横方向に変わったのが最大の原因のようだ。どのように座っても苦痛である。また、座席(木張り)も根元から割れていたので身体が安定しない。更にゆれの大きい荷台の最後尾に座っていたのも原因かもしれない。いずれにせよ、これ以上は荷台の両サイドにある座席に座っていられなかったので、荷台にクッションを敷いてそのまま座った。背もたれは慰霊道具を入れていた壊れたアタッシュケースだったが、こちらの方が安定していて楽だった。

【東部隊玉砕の地からフイ高地まで】
mong35c.jpg  チョクトン兵舎を出発して、今では殆ど枯れ河となっているホルステン河を渡ると、すぐの所にあるのが東部隊玉砕の地である。ここ本日一番目の慰霊回向を行い、そこからすぐの所にある731高地(生田大隊跡)に移動した。
  その途中で草原にフットボールのような茶色い物が落ちているのが見えた。錆びたヘルメット(鉄兜)である事がすぐにわかった。トラックに同乗していたガンバトルさんも同時に気が付いたようで私と目が合った。mong35d.jpgその直後にトラックが停止したので、ガンバトルさんと共にそれを取りに行った。それは砂山にフットボールを立てに埋めたような感じで落ちていた。昨日発見された遺骨の話もあるので、そっと持ち上げてみると、その下には何も無かった。とっさにカメラを持参せずにトラックを飛び降りたので、落ちていた状況を記録撮影する事ができなかったことを後で後悔した。
  その日本軍の鉄兜は、こめかみの部分に砲弾の破片が命中したのか?斜め方向から、いびつに貫通しており、そこから全体の2/3にかけて割れていた。内部には破片の跡はついていなかった。恐らくこれを被っていた方は即死だったであろう。落ちていた場所でその方が亡くなったのか?鉄兜は吹き飛ばされてここまで飛んできたのか?・・恐らく後者ではないかと思う。その後、この鉄兜がどういう経緯をたどったかはわからないが、私が拾い上げるまで63年間そこにあったのかもしれない。

  生田大隊からフイ高地までは相当な距離である。荷台の最後尾にでんと座って揺られていると、いつの間にか居眠りをしていた。横にいたイネバートル博物館長の息子(10歳ぐらい)も、うとうとしている。実際はうとうとできるような心地よい揺れでは無いのだが、慣れというのであろうか?こんな激しい揺れでも眠気が襲ってくるのだと感心した。

  空はノモンハン独特の空で、青空だが低い所に綿菓子のような雲の塊がいくつも並んでいる。早朝は快晴でも、日が昇り気温が上がると草原のわずかな水蒸気により雲が発生するのだ。・・・そんな独特の青空を見上げていると、いつの間にかトラックはお花畑を通過している。視界一面黄色だったりピンクだったり・・・一面に花が咲き乱れている場所が草原の所々にあるのだ。そこは通常、雨が多量に降った場合は池になるのであろう。そういう場所は乾燥期でも水分が豊富で、花々が咲きやすい環境になっているのだ。当然、63年前にもこのような場所はあったであろうから、それらが兵士の心を癒したかもしれない。

mong35h.jpg   不意にトラックのエンジン音がうなりを上げ始め、ハルハ河の流れがトラックの荷台の真後ろに見え始めた。今まで比較的低い場所を走っていたのだが、これから丘の上の大草原に向かい始めたのだ。河の向こう岸に少しだけ河川敷が見え、そこから丘になり大平原が水平線の向こうまで続いている。そこにはバインチャガンのモニュメントも見えていた。ここから見えるハルハ河は、事件当時に唯一日本軍が渡河を行い、モンゴル側に攻め込んだ場所である。攻撃は半日で頓挫したが、そこから約15km程南まで進軍したそうだ。

  私の後ろ(車の前)では邦裕さんがおしゃべりをしている。慰霊団に参加ている石橋さんの話をしているようだ。石橋さんの旦那さんは新婚生活もそこそこに戦場に駆り出され、この地で戦死された。以前、邦裕さんに「主人とは3回しかしとらんとよ・・・」と話されたそうである。3回の真偽はともかく、新婚生活がいかに短かったかを物語る話である。その後、太平洋戦争の戦中戦後を生き抜き、娘さんを育て上げられた石橋さんの苦労は、私のような戦後育ちの独身者には想像ができない。

  また、これは別の時に邦裕さんから聞いた話だが、参加者の浜さんは幼い時にお兄さんと遊んでいて顔に大怪我をしたそうである。お兄さんはその事を大変気にしていて「俺が戦死したらその保障金で治療を受けるように・・・」と言い残して戦場に向かったそうだ。そしてノモンハンで戦死された・・浜さんはお兄さんの遺言通り、そのお金で東京の病院で手術を受けられたそうである。
  このように慰霊団の参加者(遺族の方)には我々の想像もつかない想いで63年間を生きて来られた方がいらっしゃるのである。

【フイ高地】
mong35i.jpg   フイ高地は昨年別行動をした日の予定だったので、今回が初めてだった。噂通りあちらこちらに小銃弾がごろごろ転がっている。その数の多さに驚いた。
  ここで正午となったので昼食を取った。相変わらず食後の甘い物と紅茶(砂糖抜き)がうまい。
  昼食を済ますと周辺を調査した。まず、慰霊塔にある銃痕、これは現地の守備隊が悪戯で標的にしたのであろう。銃痕の直径は7.5mmで守備隊の使用しているカラシニコフ・AK47突撃銃の口径とほぼ一致した。

  慰霊塔から北に100m程行くとソ連軍の使用していた装甲車の残骸がバラバラの状態で散らばっている。周りには当時ソ連軍が使用していたサブマシンガン(通称マンドリン)の弾装がいくつも落ちていた。マンドリンの弾装は一見するとお菓子のゴーフルの缶のような大きさでフイ高地のいたる所に落ちていた。中には未使用の弾丸が入ったままで非常に危険である。

  そこから東に2~300mぐらいの所に何かの残骸のような物が見えた。歩いてそこまで行ったのだが、大変厄介だった。途中、不発弾などの得体の知れない物が無数に落ちていて、さっさと歩けないのである。やっとの思いでたどり着くと、そこにはBT戦車の側面の一部がポツンと落ちていた。なぜに一部分だけがここに落ちているのか?私には全く理解できなかったが、その周辺にも理解できない物体がいくつも落ちていた。その原型は、鉛筆が入るぐらいの太さのアルミのパイプで長さが5cmぐらいの物である。それのひしゃげた物が数百個かたまって落ちていた。その一つを持ち帰って永井団長に聞いてみたが、全くわからないそうだ。ノモンハン事件当時の物かどうかも定かではない。何しろゴミ捨て場のような感じで銃弾や薬きょうが落ちているような場所である。もしかするとかき集めた残骸などを集積した場所だったのかもしれない。いずれにせよ、ここは得体の知れない危険な物が散乱して「100m全力疾走せよ・・・」と命令されても足が前に出ない場所であった。

【ホンジンガンカ】
mong35j.jpg   フイ高地から北に上がるとホンジンガンカがある。ここは戦場跡としては最北端になる。100mほど行った所に干渉帯の柵が見えており、そのはるか向こうには中国側の監視等や村の建物のような物も見える。 同行したモンゴル人にとっても興味のある場所なのだろう。あちこちで記念撮影をする姿が見られた。




【ノモンハン桜】
mong35l.jpg   この周辺の水気の多い場所には通称ノモンハン桜が生えている。桜といっても桜の花に似た高さ30cmぐらいの小さな1年草の植物なのだが、花を咲かせている様は、まさしく満開の桜の木のミニチュアである。日本人として、この桜の木のミニチュアに望郷の念を感じずにはいられない代物であった。



【738高地および金井塚大隊跡】
mong35m.jpg   最北端のホンジンガンカから南に戻り、738高地と金井塚大隊跡に向う。この道筋は国境線の干渉帯に沿って走るようなものなので、ひたすら中国側が見えている。遠くに見える監視塔がなんともいえない雰囲気をかもし出している。昨日来、国境線めぐりをやっているようだ。大まかであるが、ノモンハン戦争で制定された国境線の2/3を昨日から見て回った事になる。


mong35n.jpg金井塚大隊跡は前方を3ヶ所の湿地帯で守られた丘だったので全滅を免れたそうだ。確かに丘の斜面は前方が崖状になり、そこから3方向が湿地帯(今年は雨が少なかったので草地)となっている。確かにこれではソ連軍の戦車も近寄る事はできなかっただろう。



【755高地】
mong35p.jpg   昨日、5名の日本軍兵士の遺体が見つかった755高地へ行く途中は援体壕の跡が多数あった。とにかくこの周辺の丘の斜面は援体壕(つまり戦車をいれた戦車壕)だらけであった。とにかくその数に圧倒された。他にも歩兵塹壕の跡もたくさんあり、日本ソ連が入り乱れて戦った事をしのばせる光景だ。755高地ではコンクリート標柱はあるものの慰霊塔は姿を消しているそうだ。

  本日はGPSのお陰で予定も早く進み、もう一度慰霊塔をを探してみるそうだ。5名の遺体が見つかった場所は、コンクリート標柱の場所から500mほど離れた向かい側の丘の斜面に見えていた。mong35q.jpg遺骨は日本とモンゴルの国家間の協定で持ち出し禁止となっている。正式な遺骨収拾がなされない限り仮埋葬した場所に埋もれたままである。その場所がわかりやすいように婆搭を5本立てているのがカメラの望遠レンズで良く見えた。丘に囲まれた場所には日本軍の陣地の跡が鮮明で、周辺のあらゆる丘の影には砲座用の塹壕が残っていた。

  しかし、戦場跡という事を考慮しなければ、本当に美しい草原の風景が広がっている。個人的にはただ水平線が一直線あるだけの、だだっ広い草原よりは、緩やかな起伏が連なる波状の草原の方が逆に遠近感が感じられて好きだ。


【川又付近の飛行機の残骸】
  昨年から気になっている事が一つあった。戦場跡の何処かで、銀色の飛行機の残骸を見たという事だ。それが何処であったのか?今では謎である。私はそれが川又付近だと思っていた。755高地からの帰りにホルステン河とハルハ河の合流点の川又を通過するので、チョクトン兵舎出発の時と同様に、帰りも注意深く周囲に目を配っていた。しかし、昨年気が付いた赤錆びた自動車の残骸はあったが銀色に輝く戦闘機の後部(胴体から垂直尾翼)は見つからなかった。

  そもそも、それを発見した時はソ連軍のI-16(イ-16)だと思っていたのだが、西原五郎から「空中戦は主に川又上空が多かった」「97式戦闘機は塗装を一切しておらず、銀色をしていた」という話を聞き、97戦の可能性も否定できず要調査だと思っていた。ただし、63年も経てば塗装は剥がれ落ちているし、きちんと垂直尾翼が立っていたので引き込み足のI-16が胴体着陸したものなのかもしれない。(97戦の場合は足が出っ放しだったので、墜落後に転覆する場合が多かった)昨年は時間もなく、止まってくれと言えなかったのが心残りだ。もしかしたら南渡し方面に行く時に見たのかな?とも思うが、南渡し方面では飛行機の残骸には敏感なので、必ず調査しただろう。いずれにせよ、幻か私の妄想か何かわからないが、私の脳裏に蘇るあの銀色の機体・・・もう一度お目にかかりたいものだ。

  2009.10.05追記:最近まで銀色の機体は私の錯覚ではないかと思っていたが、ふと、この様な点に気が付いた。「銀色の機体の写真を撮りたいから車を止めて欲しかったが、時間が無かったので言えなかった。言いかけたが、また機会があるだろうと思い、我慢した。」という記憶である。

【お別れパーティー】
  今夜はスンベル最後の夜なので、兵舎のビリヤード場(・・という話)でお別れパーティーとなった。同席したのは添乗員の石井さんと日本航空の瀬戸川さんである。旅行添乗員としてモンゴルの北、南、西を征服されている石井さんも少しお疲れのようだ。さすがの強者・石井さんもスンベル村での生活は過酷だったのだろうか?酒を飲みながら石井さんの体験談の凄いのを聞いた。

石井さんの体験談。
  それはある登山家のパーティーに添乗員として同行した時の事だそうだ。石井さん自身は登山経験は無いものの、モンゴルの国境付近の未踏峰のある地点まで同行したそうだ。(これだけでも凄いが・・・)その時天候が悪化して迎えのヘリコプターが着陸できずに戻ってしまい、山に閉じ込められてしまった。燃料も無く、あるものを全て燃やし、最後の食料が尽きた時にやっと迎えのヘリが来たそうだ。しかし、大問題はこれからだった。その山は未踏峰という事でモンゴル軍の管理下に置かれていたのだが、まずそこに立ち入った事、ヘリを2回飛行させた事で、?百万円近い罰金を請求されたそうだ。そんな物払えるはずもないので、警備隊長にモンゴルウォッカをガンガン飲ませて泣き落としにかかった。そのパーティーの隊長は登山家として日本国内でも少々有名な方だそうで、その方が山登りを志すきっかけになったのがこの山だった事。この山に登る事が一生の夢だったという事を、一晩かけて切々と訴えた所、明け方に警備隊長がポロポロと涙を流し始めた。「私もこの山が好きで警備隊に志願した。あなたたちの気持ちはとても良くわかる・・・」と言ったそうだ。そして「今日から私が率先してガイド役を務めます」と言ってくれたのだそうだ。それから方々を案内してもらい、最後に「罰金は??」と聞いたら、笑いながら「そんなものはよい」と言ってくれたそうだ。

【ダシュナムさんと話す】
  寝床が横だったダシュナムさんに、ひょんなことから地図の地名のモンゴル読みを聞くことができた。単なる読み方だけではなく、その言葉に意味や歴史までもが出てくるので貴重な話だった。
  その中でも非常に興味をそそられたのが、西原五郎帰還地点のホシウ廟についてであった。
  私は、現在のMoc-cyмэ(モッス廟)が当時のホシウ廟ではないかと考えている。ダシュナムさんの話では、そもそも「ホシウ(旗公暑)」とは内蒙古を大きく3つに分けた地域の一つであり、一地名ではないそうだ。日本に例えるならばホシウ廟は「近畿地区役場」とでも言えるのではないだろうか。また、現在のモッス廟のモッスとは何かの略語であり、地図上でもその文字だけがゴシック体で書かれている。それはスンベル村がXamap-Дaбa(ハマルダバ)とゴシック体で記載されているのと同じである。スンベル村は一帯の中心地である。

  これらの点から、全くのこじつけ的ではあるが、現在のMoc-cyмэ(モッス廟)がホシウ廟だと言うのが私の仮説である。当然の事ながら、簡易地図に記載されているホシウ廟とモッス廟の位置は、地図の記載方法により正確に断定はできないが同じ場所である。ただし、飛行場はその周辺の何処にあったのか全く情報が無い。ホシウ廟基地と言うぐらいだから、近くに廟があったのかもしれないが、将軍廟基地の飛行場のように廟の真ん前に飛行場があったのかどうか?   確認のしようがない。飛行場はモッス廟付近の砂丘に囲まれた2km四方の場所のどこかにあったと想像される。そこは将軍廟から10~12kmの距離にあり、飛行機であれば5分弱の距離に当たり、西原五郎の証言とも合致する。(参考:救助後に約45~50kmを15分~20分ほどで帰還している。)

  また、ダシュナムさんの話では将軍廟の北側にある砂丘の名をTaxи-yлa(タヒ・ウーラ)だと教えてくれた。意味は「痩せ馬の山」である。西原五郎の話から、将軍廟裏手の大砂丘があった事や、帰還直前に砂丘を越えた時に枯れ木1本あるのが見えた事から、いかにもその周辺が痩せた馬の背中のように荒涼としていた事が想像できるのである。

  (PS.後日、「タヒ」と言うのはモンゴルに生息する最古の種類の野生馬であることがわかった。ダシュナムさんの言わんとしたのが「やせうま」なのか「やせいのうま」なのか悩む所である。)

  また、話が弾んだ為か?ダシュナムさんからウォッカを頂いた。飲んだとたん咳き込んでしまうほど強烈で、聞く所によると60度もあるそうだ・・・。鼻と目を繋ぐ線からアルコールが上がってきて涙が出る程であったが、貴重な物を飲ませて頂いた?と感謝している。

【1日を終わって】
  GPSの利用で予定を順調に消化する事ができた。天候も良く、何より蚊が一匹もいなかった事が良かった。

  成田山の間野さんが、手伝いのバッツール君に「儲かりまっか?」「ぼちぼちでんなぁ~」の大阪弁を教えないといけない・・・と真剣な顔で言うものだから、私も真面目に大阪でのコミュニケーションの取り方を教えたのである。お陰で最終日にはバッツールに「儲かりまっか?」と聞くと、きっちりと「ぼちぼちでんなぁ~」と返すようになった。ちなみに日本の大阪地方の「How do you do?」「 I’m Fine!」であるという事はきっちりと理解させたつもりである。今後バッツールが大阪からの旅行客の相手をする時には、大変重宝すること請け合いである。