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ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行

2.モンゴル・ノモンハン紀行

④平成13年8月22日(水) 現地2日目、南渡し紀行

【南渡しに出発】
  朝食の際にトゥーラさんから本日の予定が決定した事を聞いた。自分の準備は出来ている。

  本日の予定は、まず昨年行った南渡し・ソ連軍渡河点付近を調べてその足で草原の向こうに見えていた山の頂上に、行けるのであれば行く。そこから北に進路を取り国境線の付近まで行ける所まで行く。更にその足で昨年のガイドのジャンッァン中佐が言っていた、草原にソ連軍の戦車が散在している場所を経由して戻ってくるというものだ。ちなみにガイドジャンッァン中佐は北の方に転勤になって司令部には居ない。草原にソ連軍の戦車が散在・・の場所が果たして他の兵士にわかるのだろうか?

  9時、皆が出発するのを見送った。さあ本隊の最後のトラックが出発するという時に忘れ物に気がついた。昨年南渡しに行った時に、有刺鉄線で行く手を何度も阻まれたので、永井団長にわざわざ頼んで有刺鉄線を切る「バン線切り」を日本から持ってきてもらっていたのだ。急遽、邦弘さんを探して宿舎に戻るが、今度は宿舎に鍵をかけられていた。鍵は先発した本隊のモンゴル人が持って行ったという事で、大急ぎで合鍵を探してもらった。バン線切りは手に入ったが、朝から大騒ぎである。

  皆が居なくなると急に静かになった。日本人は自分一人である。不安な気持ちが一瞬だけ脳裏をかすめるが、それよりも、これから始まる事に集中しなければならない。

  今年の車は白のランクルに似た感じのソ連製のジープで、ドライバーはとても若い感がする。荷物を積み込んでいると早々にトラブル発生。昼食用のお湯を入れた魔法瓶が邪魔だったので、どけようとしたらそのまま転んでカッシャーン・・・である。日本の魔法瓶とは違い、古いタイプなので仕方が無いが・・・しかし、あの位置では車が走り出したらやはり転んでいただろう。幸先が悪いというか何と言うべきか、お陰で出発が更に遅れた。

  出発直後にジープの助手席にある日よけを上げたところ、これまたガタン!という音と共に取れてしまった。ドライバーに「何やってんの!」という表情で肩を叩かれた。材質がアクリルっぽいやつだったので割れてもおかしくなかった。全く出発草々冷や汗ばかりである。

  本日のメンバーは私と通訳のトゥーラさんと旦那さん、警備隊の兵士、ドライバーの5名である。後部にイネバートル博物館長も乗っている。着いて来るのかとトゥーラさんに尋ねると、博物館までだそうだ。博物館でイネバートル氏を降ろしてチョクトン兵舎に向かった、とりあえずそこで詳しく話を決めるそうだ・・・だんだん出発が遅くなるぞ。

  チョクトン兵舎の近くに来ると、先発した皆がまだ居た。しかし、我々が300m程に近づくと出発してしまった。我々は兵舎の前に車を止めて、私の持ってきたソ連製の地図をボンネットに広げて、数名の兵士と会議である。どうやら草原に散在する戦車の残骸というのは、警備隊でも有名な話らしい。合計で5台ほどが2ヶ所に分かれてあるそうだ。予定を変更して戦車の残骸から回って行く事になった。

【ノ・モ・ハン村が見える場所】
  昨日、通過した道を通りながら、ホルステン河の南部を東に向けて走った。昨日、道の真ん中に放置してあった単車はそのままだった。干し草集めの為に草原が刈り取られている場所も再度通過したが、なぜか干し草が道の真ん中に置いてあった。
mong34a.jpg   ドライバーは「トラックのわだちをジープで走るので走りにくい・・・」と言っていたが、運転はとても上手だった。そうしているうちに国境線の向こうにかすかにノモンハン村(現中国領)が見える場所まで来た。丁度、昨日のニゲソリモト1本松の真北辺りだ。ホルシテン河のくぼみの向こうに平原が広がり、その向こうに国境線がある。昨年行った「田原山の見える場所」から見た国境線と同じ風景である。実は「田原山の見える・・・」からの風景をもう一度見たかったのだが、本日、本隊の行く場所なので無理であった。思いがけないチャンスにうれしくなった。
  ちなみにノモンハンという呼び名は正しくないそうだ。ノ・モ・ハンで、位の高いお坊さんのお墓のある場所という意味だそうだ。
  走りながら、私の持参した地図の題名が「総司令部」である事が話題がなった。

【ソ連軍BT-7型戦車の残骸】
mong34b.jpg   ノモンハン村が見えた場所からしばらく行くと、不意に道路の右手に黒い塊が見えた。まぎれもなくソ連軍戦車の残骸である。道路をそれて残骸に近づいた。その残骸は西に向いていた。砲塔はなく、エンジン部分にはエンジンの残骸が残っていた。何か大きなファンみたいな物が最後部にありその前にコンロッドとピストンの溶けた塊があった。どうやらピストンはアルミニウム製のようだ。どういう経緯でこのような残骸になったのか?定かではないが、とにかく何らかの高熱で剥き出しのピストンが溶解しようだ。ピストンの直径は推定で14cm。その前方に操縦室の痕跡も残っていた。想像以上に狭い操縦席だった。

  更に道を進むと道の両側に一台づつ、合計2台の残骸があった。ひとつは国境線の方向の東に向き、もうひとつは南に向いていた。
           mong34d.jpg  mong34e.jpg
  お互いの距離は300m程でだったので歩いて移動した。残骸の状態としては最初の1台目より少し落ちるが、とにかく塗装がはがれてマンホールの蓋程度に錆びているだけで、とても63年前の物とは思えない。

【謎の残骸】
mong34f.jpg   さて、そこから見える場所に何かの残骸が見えていた。ガイドの兵士は戦車ではないと言ってるが、何か鉄の塊であることは間違いない。車で近づくとそれは右ハンドルの車で西向きに放置してあった。タイヤのホイルを調べるとドイツ製だった。炎上したのか?ホイルにタイヤのワイヤーが巻きついて残っている。ホイルだけがドイツ製なのだろうか?右ハンドル車はノモンハン事件後、ソ連・モンゴルでは使用されていない。やはり日本軍と関係があるのか?最近になって捨てられた物では?という意見も出たが、そこかしこに残る小銃弾の弾痕はノモンハン事件当時の物だろう。なぞに満ちた残骸であった。

【国境警備隊の誰何(すいか)に遭う】
mong34c.jpg   その場所からしばらく進むと、急に車が道上で減速した。ふと左手を見ると馬で並走する2名の兵士が見えた。草原では馬のほうが早い。いわゆる一般旅行客の入れない国境付近なので誰何(警官で言う職務質問)である。車が停止した。背中に回していたAK47突撃銃が何時の間にか小脇に抱えられている。
   トゥーラさんが「ドアを開けておいて下さい。」と少し緊張した声で言った。それが警備隊の暗黙のサインなのか?この地方一体の習慣なのか?いずれにせよドアを開けたままにするのは「抵抗しません」の合図だそうだ。もしそれが警備隊独自のサインであれば越境して来た者はそれを知らずにドアを閉じたままであろう・・・。
   通行許可をもらっているとは言え、一般観光客の立ち入る事のできない場所で、モンゴルでも手に入らないソ連製の詳細な国境の地図を所持した日本人が、VTRカメラでや写真機で風景を撮りまくっているのである・・・どう思われるのか?気が気でない。VTR撮影をしたいシーンだったが撮影する勇気はとてもなかった。とにかく、誤解を生まないように全てをリュックサックの中にしまい込んだ。2人の兵士は走り去りながら、しばらくこちらを見ていたが、振り向かなくなった2人の後ろ姿をVTRで撮影することができた。(我ながら良くやるもんだと思った・・・)

  そこから道をそれて南東の方向に進もうとしたが、有刺鉄線に行く手を阻まれた。ここで登場するのが、先ほどの「バン線切り」である。バン線切りは大活躍したが、目的を果たす事はできなかった。切っても切っても有刺鉄線が出てくるのである。それも日本・ソ連両方の有刺鉄線が入り乱れているのだ。事件当時、敵味方の戦線が入り乱れた証拠である。本当にきりがないので、この場所を進むのは諦めて大きく迂回することになった。
   その場所から林に入ったが、それはもう日本では考えられないような場所をジープは進んだ。5m程の高さの小山が複雑に密集した場所に松の木がまばらに生えていて、道は全くない。登りきった稜線の向こうが崖になってるかもしれないのだ。よくこんな所が走れるなぁ・・とあきれて声も出ない。4WDのローギヤにしながらも、斜面の途中で数回エンストした。全てを現地のドライバーに任せているのだが、自分だったらまずやらないだろうし、やったとしても転倒の恐怖が常にあっただろう。彼はなかなかのグッド・ドライバーである。

mong34s.jpg   国境がすぐ左手に見えていた。向こうに見える砂山は中国領らしい。やはりこの付近にも塹壕の跡や有刺鉄線が残っている。「この辺りに日本人が入るのは国境線制定後、初めてだろう・・・」とガイドの兵士が言った。



mong34t.jpg   1時間ほど南東の方角に走るとだんだんと視界が開けてきた。昨年訪れた場所が近づいている。どうやら裏手の方から昨年の場所に近づいているようだ。完全に開けた場所に出ると、見覚えのある風景が遠くのほうに見えた。1年間写真で見ていた風景に1年ぶりにご対面である。そこから一旦、付近にある昨年も立ち寄った兵舎に寄るそうだ。草原には直線に道が造ってあり、非常に早くて快適だった。その道は昨年見えた遠くの山の頂上に向かって続いていた。ほぼ昨年の場所に到着すると、直線路から逸れて脇道に入った。
mong34g.jpg   脇道は相変わらずガタガタである。茂みの中を走っていると、不意に行く手をさえぎる2人の兵士の姿が見えた。一人がAK47突撃銃を横に上げて静止のポーズを取っている。車が止まり、私は自主的にドアを開けた。お役目ご苦労さん・・・という感じである。先ほどの誰何(すいか)と違い、短時間で終わった。


【兵舎にて】
  昨年も立ち寄った兵舎に着くと、すぐさま情報を集めた。昨年の約束どおり調べていてくれたのか?到着早々、飛行機の残骸がほんのすぐ近くにあるので見に行くか・・?である。私の探している機体とは関係なさそうであるが、とりあえず見てみる事にした。昨年は気がつかなかったが兵舎の入り口にはソ連軍BT戦車の砲塔がモニュメントで据え付けられていた。中を覗くと当時の面影が残っている。兵士2人が入るのがやっとの広さである。運転席といい砲塔といい、狭い場所で死の恐怖に包まれながら、日本軍と戦ったのであろう。

【航空機の残骸】
mong34h.jpg   さて、飛行機の残骸まで2名の兵士が馬で案内してくれた。馬は先に走っていってしまったが、それに車はついて行った。大変な砂地で4WDのローギヤにしても4輪が空転していた。車が止まると、斜面の下30m程の河川敷に兵士が見える。


mong34i.jpg斜面を歩いて降りると、そこにはジュラルミンでできた機体の一部分が落ちていた。大きさは縦1m横60cmぐらいだった。かすかに青い塗装が残っている。どうやらソ連軍のI-16の下部の残骸のようである。日本軍の97式戦闘機は塗装をまったくしていなかったそうだ。97式戦闘機の物ではないが貴重な遺物である。
  さて、河川敷に降りて気がついたのは、現地入りして2日目になるのに蚊を1匹も見ていない事である。特にこのような茂みのある河川敷では昨年であればものすごい数の蚊が集まっても不思議ではない。とてもラッキーな話だ。


【南渡し(ヤス渡し)の見下ろせる場所】
mong34k.jpg   その場所を離れ、とりあえず昨年と同じルートで進む事をトゥーラさんに伝えた。GPSを見ながらドライバーに方向を指示する。ドライバーは地面の状態を見ながら少しジグザグに走るし、微妙な方向のイントネーションが伝わりにくい。
   昨年の場所から少し手前だったが、河川敷を見渡す場所に車を止めた。全員車を降りて斜面の上から河川敷を見下ろす。すると、どうであろう!河川敷から立ち上がった斜面に援体壕が並んで見えるではないか・・・。その数14個。昨年は全く気が付かなかった事である。どうやら昨年は援体壕の真上に立ちすぎて斜面の影になっていたようだ。さらに気が付いたのは、その援体壕のすぐ横に谷の様な裂け目があり、そこから車(戦車)が楽に登れそうなのである。そしてそこを真っ直ぐ進むと、昨年発見した「2つの”小松の茂る丘”に挟まれた所に援体壕がある・・」その場所に行き着くのである。斜面を河川敷まで降りて写真を撮影し、一路「小松の茂る丘・・・」に向かい、そこで昼食をとる事にした。

mong34l.jpg   しかしである・・どうも昨年の援体壕が見つからない。GPSが示しているのが着陸想定地点だったのか?小松の丘の援体壕だったのか記憶が曖昧だ・・・。そうこうしている内に一つ丘を越えてしまった。すると前方に何となく見覚えのある風景が広がり、微かに援体壕も見える。どうも天気が良すぎて援体壕がわかりにくい。援体壕のまん前で車を止めて、少し遅い昼食を食べた。サンドイッチ2つにマカロニ・サラダ、ケーキと砂糖抜きの紅茶・・・時間が許せばしばらく昼寝でもしたい気分だ。

  昼食を食べ終わると私は満腹のまま周囲を調べ始めた。太陽が雲にさえぎられ一瞬暗くなったその時、周囲にある援体壕が黒々と浮かび上がった。どうやら昨年これらを発見できたのは曇り空だったからのようだ。
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  2つの「小松が茂る丘」に挟まれた場所は、丁度馬蹄形をしており、その馬蹄のトップの部分に4・5個の援体壕があった。昨年は3つだけだと思っていたがこれは発見だった。(戦車の援体壕3つと装甲車の援体壕2つかもしれない)そして更に丘の頂上部には援体壕を囲むように塹壕が掘ってあった。ここはいわゆる馬蹄形をした陣地だったのだ。そしてその前方・・・500m程の所に小さな丘がありその前面(北側)にも塹壕があったのは昨年発見している。この付近に母の叔父である西原五郎が第24飛行戦隊長・松村黄次郎中佐を救助するために着陸したのだと確信が持てた。(ただし、救助当時に陣地が完成していたのかは不明だ)
  私が調査に没頭していると、車の方では昼食の後片付けをしてこちらに向かってくる。乗り込んで、少しだけ東に先に進んで折り返し、それから草原の向こうに見える小高い山の頂上に向かってもらうように指示した。ざっと車で周囲を観察した限りでは他に援体壕は見つからなかった。援体壕の正面に松村中佐が墜落してしまったという西原五郎の話に合致するのはやはり先ほどの場所しかなさそうだ。もう少しハルハ河の上流(東)に渡河地点があれば別だが、資料が他に無いので何ともいえない。ともかく救助直前に見えたというソ連軍部隊と援体壕は先ほどの場所だと推定するのが現状では妥当だと判断した。

【ハルツェン・ウーラ】
mong34n.jpg   一路、草原を真っ直ぐ進んで遠くに見えている山の頂上に向かう。昨年感じていたよりも地図上では距離が近い。山の名前は「ハルツェン山」(ハァルツァン・ウ-ル:はげ山)である。
   しばらく走ると車のフロントガラスいっぱいに山が見え始めた。ハルツェン・ウーラは高さは約120m、直径が2km程のなだらかな紡錘形をしており、草原の真ん中にポツンとたたずんでいる感じである。
mong34o.jpg   車で頂上まで上がると、そこから見える風景は実に壮大であった!東に5km程平原が続き、その先は興安嶺山脈の端っこになっており中国領である。草原に一つだけおわんを伏せたような小さな丘がポツンと見える。南にも5km程平原が続き、我々の来た小松林の茂る丘がハルハ河沿いに見える。この何処かに63年前、西原五郎が着陸したのだろう。
   小松林沿いを一段下がるとそこにはハルハ河の河川敷が1km程続くが、ハルハ河は茂みに隠れて見えない。西にも5km程平原が続き、そこから先は潅木の茂る場所と草原が入り乱れている。その先に東渡し(ソ連軍渡河点)ノロ高地、ホルステン河・・・という風に中北部のノモンハン事件の戦場が続いているが、ここから詳細は見えない。北にも5km程平原がありその先に潅木の茂る場所と草原が入り乱れる場所がありその先にホルト・ウーラがある。

mong34p.jpgこの山の頂上は地図上では真の国境線になっている。その先は中国領で垣間見る事はできない。西原五郎が帰還したホシウ廟基地までどのような風景が続いたのか?想像するしかない。そのホルト・ウーラの山裾で何かがキラッと反射した。どうやら人がいるようだ。我々を監視しているのだろうか?山頂から見ると草原を南東方向に1本の線が走っている。道の様な感じもするが何か良くわからない。ガイドの兵士に尋ねると干渉帯だそうだ。となると我々は干渉帯を既に越えている事になる・・・大丈夫なのか?ここで中国側の兵士に誰何されたらどうなるのだろう??総司令部と題された詳細な国境線の地図、カメラ、VTR・・・これがスパイでなくて何になるのだろう。

【国境線200mの位置】
mong34u.jpg   ハルツェン・ウーラの頂上から更に進むと途中でノロ鹿が走り去るのが見えた。こういうものを見ると自然に包まれている実感がしてくる。ふいに車が止まった。下りて説明を受ける。「この先200mが国境線です」全くの草原で目標になるものは何も無い。はるか向こうのホルト・ウーラの付近に遊牧民のゲルが2つみえる。私はガイドの兵士に「干渉帯ではなく真の国境線ですか?」尋ねた。兵士は「その通りです」と答えた。兵士の話ではハルツェン・ウーラとホルト・ウーラの間にある2本の木の付近まで中国領が押し込んで来ているそうだ。

 干渉帯などの柵も無く国境の監視はどうしているのか?と尋ねると、向こうに見える2つのゲルに人が住んでいて事実上住人の彼らが監視役だということだ。しかし、真の国境線まで200mとは・・・日本では全く考えられない状況である。貴重な体験を通り越して恐ろしさを感じるぐらいだ。ただし、ガイドの兵士の表情に緊張感は無い。まあ観光コースの一つの様なものかもしれない。(ただし、この一帯は特別な許可が無ければモンゴル人でさえ入る事のできない地区である)

  日本に帰国後、GPSの移動履歴(ログ)を地図上に落としてみた所、我々の行った場所は国境線から2kmの距離であった。これは干渉帯の距離と同じである。ただし、このハルツェン・ウーラ付近の国境線は非常にあいまいで中国側が相当押し込んできているという話だ。事実、2本の木の位置を地図上で考慮すると我々は国境線まで200mどころか国境線上かもしくは国境線を越えていたかもしれない。旅行初日に私の計画を邦弘さんに話した時に「国境線が曖昧だからこの山も中国領かもしれないから行けないかもしれないよ」と言われた事を考慮すると、やはり真の国境線だったのだろう。

【帰途に着く】
  ハルツェン・ウーラからの帰り道は、緊張が解れたのか?本当に突然、眠気が襲ってきた。車が揺れているのか?うとうとして自分が揺れているのか?よくわからない。後ろに座っていたトゥーラさんと旦那さんも、うとうとしていた。

  来る時に立ち寄った警備隊兵舎でガイドの兵士を降ろした。お土産に関空で買ったタバコ1カートンを渡した。いつもそうなのだがモンゴルの人はこういう時、決まって申し訳なさそうな顔をする。日本人と同様な遠慮の心があるようである。タバコは通訳のバチカの話のよると日本製の物が最高という事らしいので、ガイドの兵士にも喜んでもらえただろう。本来なら行く前に渡しておけばサービスもぐっと上がるようである。今回は写真やVTR撮影に追われたので記念撮影もしなかったし、ガイドの兵士の名前も聞いていなかった・・・。次回、会うことがあればサービスしてくれるだろう。

【東渡し・ソ連軍渡河点】
mong34q.jpg   最後にもう一つだけやる事があった。それは昨年のある発見によるものである。旧関東軍の地図に記載されていた東渡しのある地形の部分に、戦車を入れる援体壕の跡が3つあったのだ。そこは、土手から河川敷に向かって小さな岬が飛び出しているような地形になっており、地図上で少し奇妙な印象を受けた場所だ。それが地図上のそこなのか?断定はできないのだが肉眼で同じような場所を認識したのでぜひとも今年はそれを写真撮影し、GPSで位置決定したかった。
   また、東渡しの北岸は、河川敷がなく、いきなり林になっている。また、その状況も旧関東軍の地図をして「戦車の通行困難」となっている。この場所は砂地の小山が入り組んだ地形をしておりジープですら走行が困難だった。その場所をぜひともVTR撮影したかったのだ。東渡しはソ連軍の渡河点としては非常にポピュラーな場所である。資料的にも価値のある物になるだろう。

mong34r.jpg   さて、問題の場所に近づいて砂地の林をVTR撮影する事ができたが、問題の岬の部分が見つからなかった・・・と、ドライバーが急に運転を止めた。なんと目的の場所が土手の上から見えているではないか。事前に、撮影したい場所があと1ヶ所だけ残っている事を伝えてはいたのだが、以心伝心というのだろうか?本日、私が戦跡(特に援体壕)を撮影しまくっていたので、直感が働いたのだろうか?おかげで行過ぎることなく無事撮影する事ができた。

【司令部宿舎に帰着】
  東渡しを過ぎれば、後は昨年同様、ハルハ河大橋めがけて河川敷を横切って走ればスンベル村である。明るいうちに帰着できたが今回はハードスケジュールだった。とても疲れた・・・。司令部宿舎に戻ったが、本隊はまだ戻ってきていなかった。鍵がないので食堂でしばらく休ませてもらう事になった。トゥーラさんの会社のスタッフにお茶を入れてもらい、VTRに付属の液晶画面で本日撮影した映像を皆で見た。
  その時、いろんな人から私のVTR(SONYハンディカムTRV20)の値段や性能についての細かな質問が出た。近年モンゴルも電化が著しいので、日本製の電化製品は非常に興味の対象のようだ。なんとなく「いつかは購入するぞ・・・」というような意思のようなものが言葉の中に感じられた。

【本隊が帰ってきて・・・】
  そうしているうちに、中部地区を慰霊回向していた本隊が帰ってきた。宿舎の鍵を開けようとすると開かない様で、モンゴル人がバールでこじ開けている。聞くところによると鍵が錠前の中で折れてしまい、ダメになってしまったようだ。全くドタバタの連続である

  さて部屋に戻り、私が調査報告をしようとすると「いやー今日は大変だったよ・・・」と先に言われてしまった。なんと、五体もの遺体が丘の斜面に折り重なって発見されたというのだ。何となく全員が遺体を発見したというショックで疲れきっている感じだ。自分の成果はひとまず置いて話を聞いた。

  靴の先だけが焼け残っていたという話から、5名が一気に火炎放射器でやられたようだ。靴の中には小指の骨も残っており、他には財布の中から満国銭(満州のお金)が出てきたそうだ。永井団長の話で、モンゴルに来る直前に、ある亡くなった将兵の姉という方から慰霊を頼まれていたそうだ。その部隊がいたのがどうやら遺体が見つかった場所の周辺のようである。その亡くなった方は砲兵部隊の電気関係の将校だったようだ。実は、発見された遺品の中に電池とおぼしき物があり、それは一般の将兵が持ち歩くものではないのだ・・・。周辺を調査すれば認識票なども発見されるであろうから、遺体の身元も判明するだろう。もしかすると、もしかする・・である。偶然とは言え不思議な話である。

【スンベル博物館にて祝賀会】
  夕食は、昨年宿泊したスンベル博物館で、イネバートル博物館長の主催の祝賀会となっていたので、小型バスに乗り込んで博物館に向かった。1年ぶりに博物館に入り、2階のホールで慰霊回向を行ってから席についた。メインディッシュは羊料理(ホルホッグ)である。調理法はいたって簡単で、子羊の肉をブッタ切って、農場で牛乳を入れるようなアルミの容器に水と共に入れ、焼けた石を放り込む。ただそれだけである。場合によっては塩・玉ねぎ等を入れるそうだが、単純な割には肉の旨みが強烈で、信じられないほどおいしい料理である。他に出てきた物は、乾燥チーズ、普通のチーズ、バターと生クリームのあいのこのようなものであった。(ただし、発酵物は手を付けなかった)

これらの料理を用意してくれたのは永井団長と旧知のツェデンバルさんである。平成10年ぐらいにこの辺りで大火事がありその方の羊や馬もやられてしまったらしいが、世話好きの永井団長はこの方に慰霊団からカンパを募って融資したそうである。この方の旦那さんは数年前に亡くなったそうであるが、旦那さんは馬の飼育に関しては国から表彰される程の腕前だったそうだ。邦裕さんは記念品に、旦那さんが使用していた「馬の汗落とし」(馬の調教の後に馬の汗を拭ってやる為のワイパーのような物)をもらっていた。青のベールと共にもらったその「馬の汗落とし」は大変貴重な物で、縁起をかついでいろんな人が欲しがっていたそうだ。それを邦裕さんにあげたという事は、とりも直さず永井家とスンベル村の人々との友好の深さを物語る話である。その「馬の汗落とし」はモンゴルにはない竹を材料に作ってあり、ペーパーナイフのような形状の柄の部分に施された細かな彫り物は、それだけでも十分に価値のあるものだとわかる。ちなみに青のベールは青空をあらわし、最高の贈り物である事を意味しているそうだ。私は、記念に小さなウサギの置物を頂いた(現在自宅の玄関に置いている)
(追記)
  サンダグゥオチル前館長が、馬の汗取りと牛1頭を交換してくれと言って来たそうだ。

  私はお土産として、ビニール袋に乾燥チーズを貰って帰ることにした。と言っても自分が食べるわけではない。日本に持ち帰って会社の皆に食べさせるつもりだった。カチカチの岩のように乾燥していてほのかに酸っぱい匂いがする。作る過程において発酵しているようだ。かけらを1個食べるだけで私ならお腹を下すであろう。もちろん会社の皆も同様だろうが、まず食べれる人はいないと思うのでその心配は無い。後日、日本でビニール袋を開けて見ると、乾燥して長期保存できるはずのチーズが、日本の湿気のためであろうか?少し水分を帯びていて青カビが生えていた。これでは食べさせる事はできない・・・その土地特有の食べ物は、その土地に合ったようにできているのだ。残念であったが、日本とモンゴルの気候の違いを感じさせる出来事であった。

【1日を終わって】
  とにかくいろんな事があった。