ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
2.モンゴル・ノモンハン紀行
③平成13年8月21日(火) ウランバートルから一路スンベル村へ・・
【テレルジを出発】
4時に起床してそのままバスに乗り込み、一路ウランバートル空港へ向かう。外は相当な寒さである。朝食のお弁当にサンドイッチとミネラルウォーターをもらうがこれは飛行機の中で食べよう。
バスの窓から外を見ると、夜明け前の草原の夜空に冬の星座オリオン座がでっかく見えた。モンゴルは緯度が高いためだろう。真冬の星座が真夏に見られた。満天の星空の丁度下半分は草原であるので真っ暗である。そこに丁度、オリオンが仁王立ちしているように見えた。帰国してから知ったのだが、私のスキーの大師匠である八方尾根スキー場の佐々木徳雄氏のホームページによると、オリオン座にはよく知られている7つの星々以外にも伝説のオリオンの手の部分にあたる部分があるというのだ。全く・・・それをモンゴルに行く前に知っていたらと思うと悔やまれてならない。(ちなみにモンゴルで見るカシオペアはものすごい数の星の集団で、Wの形に見えないぐらいである。)
うとうとしながら6時半頃に空港に到着。さすがにこの時間帯では市内に人影はなかった。火力発電所の裏の道を通って来たが、発電所の煙が朝焼けの空に印象的だった。
【モンゴル国内線の搭乗荷物検査で人騒動】
いつもの事ながら手荷物検査ではズボンのベルトが引っかかる。それを見越してあらかじめブザーの鳴りそうな物は外しておくのだが、今回は日本ほどうるさくないと思ってスンベル村仕様の服装でいたのが甘かった。
モンゴルではボディタッチの検査に入る前に自主的にゲートをくぐる事ができる。スンベル仕様の装備を一個づつ外してはゲートをくぐるのだが、どうしてもブザーの音が消えない。邦裕さんも私と同じ目に遭っていた。何回もゲートをくぐっているうちに、とうとう服を脱がなければならない所まで来てしまった。そこでやっと係員が金属探知機で検査をしてくれた。しかし何がピーピー言っていたのかというと、来る時にモンゴルエアーラインの機内でもらったお絞りの内袋のアルミニウムが原因だった。そんな物を機内で渡すとは・・・あきれて物が言えなかった。邦裕さんは小銭のようだった。急いで装備を身に付けながら皆さんの所に行くと、笑いながら我々を待っていてくれた。
【国内線AH24(ロシア製)機内にて】
1年ぶりにこの飛行機に乗る。実は私はこの飛行機が大好きである。飛行中、空中にふわっと浮いたような感触。何とも言えないプロペラとエンジンの音。眠気を誘うような心地よい響きだ。(・・・と思っているのは私だけのようである)相変わらず機体は古びた感じだ。昨年はエンジンカバーに付着したオイルを発見したが、今回はエンジンのカバーにガタがあるのを発見してしまった。また、タイヤの片方がツルツルだった。
朝食にもらったお弁当を食べながら景色をながめた。チーズサンドイッチと甘くて大きなマフィンだった。朝、早い為か?もやが掛かって景色が良く見えない。離陸後数分で昨夜の宿、テレルジが見えた。アリヤワ寺のあった山の斜面(谷間の一番奥)もたぶん正解だろう。亀の岩はわからなかった。
今のうちに睡眠を取っておかないと後が苦しくなる。しかし、景色も見ていたい・・・。見る景色全てに発見があるような感じがするのだ。高度は約4000m。丁度、舞子の浜から対岸の淡路島を見た距離感と同じだ。さすがに人間は見えないがゲルやその周りに集っている羊の白い群などははっきり見える。一本道を爆走する自動車の土埃もよくわかる。昨年見た風景の記憶が所々で蘇る。ずっとこうやって見ていたい気分だった。
【スンベル村に到着】
時々うとうとした。離陸から2時間が経過している。そろそろボイル湖が見える頃だ。戦場跡を流れるハルハ河は最終的にボイル湖に流れ込む。ボイル湖は琵琶湖を横に2つ並べたぐらいの大きな湖で、丁度、ミジンコのような形をしている。昨年は機上からはっきりとその形が見えたが今年は雲に隠れて見えなかった。そうしているうちにエンジンの陰の遠くの方にスンベル村にあるハルヒンゴル戦争(日本ではノモンハン事件)の戦勝記念塔がかすかに見え始めた。下を見るとソビエト連邦崩壊後に見捨てられた大農場の跡が延々と続いている。(その広さは大まかに20平方キロ)これが見え始めると着陸はもうすぐだ。昨年は全く見捨てられた農場だったが、今年は耕作の跡が見られる。
ハルハ河が見えた。昨年と同じ感動が沸き起こる。またやって来たのだ!今年は飛行機は村の上空を大きく迂回して村の山手のハマルダバの丘の裏手に北側から回りこんだ。実際はパイロットが飛行場を探しているのだが、今年もしばしの観光飛行である。空から見るスンベル村は2区画に別れている事がわかった。
また、ハマルダバの丘の裏手のソ連軍の塹壕の跡は想像以上に多いのがわかった。特に戦車を入れて隠す援体壕は本当にすごい数である。(雰囲気で千個ぐらい・・・)改めて当時のソ連軍の戦力のすごさが感じられた。
飛行機はどうやら昨年とは逆のルートで着陸したようだが、同じ場所で停止していた(理由は不明・・)ともかく遊覧飛行の後に無事、草原に着陸。熱烈な歓迎をうける。イネバートル現博物館館長、サンダグゥオチル前博物館館長もいた。さっそくウランバートルから予め陸送してきた小型バスに乗り込み、国境警備隊の司令部宿舎に入った。
【司令部で一息つく】
午前中にスンベル村に到着したのは今までに前例がないようだ。とりあえず部屋割りをして、永井団長、邦裕さん、木島副団長、ダシュナムさんと同じ部屋になった。一部、廊下で寝る人もいた。ダシュナムさんはNHKの「ノモンハン事件60年目の真実」に出演され仏教の歴史についても造詣の深い方であるが、実はダシュナムさんと隣の寝床になったお陰で、後日大きな発見があった。ダシュナムさんは寝袋持参である。
ダシュナムさんと永井団長の出会いを邦裕さんに聞いた所、次のようなものだった。13年前、慰霊団がモンゴルに来た時に日本語の出来るモンゴル人はほとんどいなかった。モンゴルでの日本語の草分け的なダシュナムさんに通訳の話が舞い込んだ。始めは通訳として慰霊団に同行していたのだが、話を聞くうちにダシュナムさんのお父さんは日本側でノモンハン事件を戦っていた事がわかった。実は御父上は満州国興安軍ウルジン司令官だった。ウルジン司令官はノモンハン事件では北部のホンジンガンカでソ連軍と戦われたそうだ。満州国創立の際にソ連の政策から逃れてブリアート族の3000の兵士を連れて日本側に付いたのである。ダシュナムさんは満州の大学で日本語の教育を受けた。ウルジン司令官は第2次大戦後、ソ連側に投降したものの粛清で銃殺、ダシュナムさんもモンゴルには帰れず奥さんと離れ離れの生活が社会主義崩壊まで続いた。ダシュナムさんの兄弟親戚それぞれがソ連・モンゴル・中国と分断された国籍を持っていると言う事だ。戦争の別の面の悲惨さを伝える話である。
追記:20110820
元々、通訳のトゥーラさんが日本への語学留学の際に成田山新勝寺の関係でホームステイをしていた。慰霊団と成田山新勝寺がモンゴルで遭遇し、現在の関係が出来た際に、通訳としてツゥーラさんに白羽の矢が立った。そのツゥーラさんの日本語の師匠がダシュナムさんだったと言う訳だ。
【司令部のトイレ】
さて、昼食を済ませて初日の慰霊回向に出発するまでに少し時間があった。テレルジの出発が朝早かったので、今のうちにトイレを済ませておく事にした。実は宿泊が司令部宿舎と聞いていたので嫌な予感があった。昨年の草むらのトイレはある面で爽快である。しかし、モンゴルでの事情を考えると人工のトイレは非常に悲惨な感じがするが、全く予想通りであった。とにかく今回は我が人生最大級のひどさである。このトイレにはベテランのモンゴル経験者もさすがに唸った。抑留経験者の永井団長、木島副団長、そして野人と呼ばれる邦裕さんらも「あれじゃ出る物もでねぇや・・!」を連発している。
そのトイレを解説すると、宿舎から少し離れた所のあるレンガ積みの建物が建っている。隙間のあるガタガタのトタンの扉を開けると、中は今にも抜けそうな木張りの床がある。そこには一部溝があり、そこから用をたすのだが、強烈なアンモニア臭という予想に反して、強烈な防腐剤の臭いで咳き込みそうだった。内壁は防腐剤かはたまた塗装なのか?石灰の様な白い粉がまだらに塗られている。これではハエも寄りつけないだろう。用をたすどころか呼吸するのがやっとだった・・・。そのせいか?数日間、便意すらもよおさなかったが、人間の順応性は恐ろしい物で、最終日には通常に快便だった。このトイレに慣れた自分が恐ろしい・・・。
【司令部の洗面所】
基本的に水道が無いので1kmほど離れた村で唯一の井戸まで水を汲みに行くか、ハルハ河まで汲みに行くしかない。そのための村人の労力は計り知れない。だが、司令部には水タンクがある・・・が、洗面所まで水は来ていない。そこで洗面所では5リットルぐらいのタンクに水を運び入れ、下のレバーを押すと水がちょろちょろ出る昔日本でも便所にあったやつを利用している。この場合、洗面も歯磨きもコップ1杯水で済ます必要がある。まあそれでも十分な量だ。歯磨き粉は使用しない方が良い。というのも口をすすぐ水が少なくて済むからだ。問題は下水設備が無い事である。汚水は洗面台の下にある水受けで全て受けてそれを処分しに行く必要があるのだ。
日本ではなかなか感じる事は無いが、上下水道(特に下水)の重要性を痛感した次第である。ただし、草原であればそんな事は気にしなくても済むのだが・・・。
【司令部のきまり】
宿舎はモンゴル陸軍の守備隊司令部である。当然、それなりの決まりが存在し、我々は初日から怒られてしまった。通路以外の場所は歩かないように・・・つまり食堂などに行く時にショートカットして芝生を歩いてはいけないと言う事である。実は昨年、日本国内で似たような経験をした。西原五郎の部隊長救出の図が展示してある奈良航空自衛隊幹部候補生学校で「必ず歩道を歩いてください」と言われたのだ。まあ、軍の施設とはそういうものだろう。
【初日の慰霊回向】
現地第1日目は、チョクトン兵舎で通行許可証をもらってから、ホルステン河南部の「コブ山」、「森田部隊跡」、「ニゲソリモト1本松」、帰りがけに「ノロ高地」と言う順番だった。(ちなみに慰霊回向を行う場所のほとんどが、玉砕の地である事を記憶に留めておいて頂きたい・・)
まず最初の「コブ山」では合同慰霊祭をおこなった。昨年もそうだったが、ここでの慰霊祭で私はどうしても貰い泣きをしてしまう。永井団長の「戦友よ今年も会いに戻ってきたぞ・・・」という内容の言葉に参列者全員が涙してしまうのだ。理由が何んであれ心の底から純粋に涙がでてしまう。
さて、私は「コブ山」に到着草々トラブルに見舞われてしまった。到着直後、モンゴル軍のトラックから降りて2歩目の事である。横から「有刺鉄線に気をつけて!」と言う声が聞こえ、それを頭が理解したのと同時であった。左ふくらはぎに切り傷独特の痛みが走った・・・!目をやるとソ連軍が63年前に張り巡らせた鉄条網が脚に絡んでいた。(日本の有刺鉄線は2本の針金をよじって刺を巻き込んでいるが、ソ連軍の物はベースの針金が1本である。)
幸いズボンは破けていなかった。平然を装って写真とVTRを撮影したが、その間にふくらはぎを温かい物が伝ってきた。出血している・・・。もしかするとやばい事になりそうだ・・・。カメラを一旦トラックに戻して傷口を確認すると10cm程切れていた。傷は浅いが予想以上に出血しているのでひどく見えた。うかつだった・・・昨年の経験があったにもかかわらず、到着早々で舞い上がっていたのだろうか?そうとしか思えない。場所が場所だけに破傷風の心配もある。木島さんに報告するとすぐさま草原に横にさせられ、消毒薬と水ばんそうこう(接着剤みたいな傷口をふさぐ専用のやつ)で治療を受けた。通訳のトゥーラさんも心配して見ている。冗談でわざと痛そうな顔をして笑って見せたが内心は相当にショックだった・・・。自分も医薬品を用意してきていたが、まさか現地で使う事になるとは思いもしなかった。
【森田部隊跡】
ここに到着して私が写真を撮影していると、背後で「パーン!!」と言う音がした。不発弾(小銃弾)がてっきり破裂したものだと思い、身を低くしながら振り返ると、小型バスの後ろで土埃が舞上がっている・・・。先程の有刺鉄線の件と言い気が抜けない・・・・と思いきや、実は小型バスのバック・ファイヤーだったようだ。偶然とは言え、全くもって精神的に疲れる話である。しかし、本当の所、不発弾でなくて良かった。
【ニゲソリモト一本松】
ここで私にはやらなければならないことがあった。ニゲソリモトの陣地跡にある一本松の幹の太さを測る事である。昨年参加の小田洋太郎さんに頼まれていたが、個人的にも興味のある事だった。
この1本松は63年前の戦闘の際のも目印になったそうだ。厳しい気候であるために、当時の大きさとほとんど変わらないそうだ。また地面から1mの場所を記録して遠方から1本松を撮影、木の高さを求めると、当初の予想を2m程上回るおおよそ10mある事がわかった。また、幹の下から1.5m程の所まで表皮が黒焦げになっていた。まさか63年前の先頭の跡?と思いきや、実は3年程前に大規模な山火事(草原の火事)があったそうだ。木の周囲の草は燃え尽きたようだが木は残った・・・。そして今も青々と枝を繁らせている。生命力の強さに感心するばかりだ。
【ノロ高地】
GPSのお陰でスムーズに予定が進んでいる。私は個人用にGPSを持ってきたが、別途、慰霊団としてGPSを購入する事を木島副団長に進言していた。来年からの事もあるので今回の誘導のメインは木島副団長で、私が補助を勤める。3年前には森川さんという方が全慰霊場所をGPS計測されている。しかし、昨年5月に米国国防総省よりGPS電波の劣化解除がなされており、私の昨年のデータがより正確なものとなっている。その精度は100m範囲から10m範囲に狭まっている。しかし、大まかには森川氏のデータも合っているので、昨年私が訪れていない場所もデータの中に入れてきた。これで全慰霊場所がGPSで誘導できるはずである。しかし、最後に物を言うのは人間の記憶だった。
ともかくGPSのお陰で早めに予定が終了して、最悪はカットするはずだったノロ高地にも早めに着いた。慰霊回向を済ませると、邦裕さんが何か手に持っている。旧日本軍の擲弾の弾2発だ。(てきだん;とは手榴弾を爆発力の弱い炸薬で発射する近距離用の武器)なんと、安全装置を外していない、きれいな状態で落ちていたそうである。今、安全装置を外してそのまま投げれば7~8割以上の確立で爆発するはずだ。厄介な物を拾ってきたので、邦裕さんはまた戻しに行った・・・しかし、砂丘の上に置いて来るぐらいしかできない。見えない地中に埋めるより目に付く地上に置いている方が安全である。来年もそこにあるだろう。(ノロ高地のもよう)
【灯篭流し】
GPSのお陰で予定が早めに終了したので、予定を繰り上げて灯篭流しを行う事になった。緯度が高いので9時を過ぎてやっと日暮れである。本日は壮大な夕焼けだった。日本では夕焼けの翌日の天気は季節によって快晴だったり雨だったりするので、現地の人間に聞いてみると、この地方では壮大な夕焼けの翌日は快晴だそうだ・・・。明日、別行動で南部方面に行けそうなので楽しみである。
ハルハ河に流す灯篭は強風の影響や河の流れが悪くて毎年のように全滅している。今年は地元の少年のアドバイスで別の場所で行う事になった。その場所は数年前に事情によりそこから流して唯一成功した場所だった。成功の期待が高まる。
なんと!ろうそくを灯した全ての灯篭がきれいに流れていった。全て・・・である。これには日本・モンゴル全ての関係者が驚嘆の声をあげた。ハルハ河は川幅50m程であるが、そこを100個ほどのろうそくを灯した灯篭が流れていく様は美しいの一言だった。
明日は、昨年回った南部を回る予定だ。
【現地1日目を終了して・・】
食事の後に傷の手当てをした。寝床に戻って、用意していた救急セットで消毒し、消毒液に浸したガーゼで傷口を押さえてから傷の保護テープを上から貼った。用意した物が役に立つとは日本では考えもしなかった。ある面、準備が良かったのだが、使わないに越した事は無い。緊急装備という物は常にそういう物だと実感した。この分ではサバイバルセットもあながち取り越し苦労の準備でなさそうである。
傷の治療が済むと、隣の部屋で宴会(飲み会)が始まる所だった。有志で参加の日本航空機関部の瀬戸川さんの音頭で乾杯をした。瀬戸川さんは航空関係者というだけでなく、ご自分でグライダーやパラシュート降下もされるのである。そのせいか?私の母の叔父の話(敵地に墜落し炎上した隊長機のそばに強行着陸して隊長を助けた話)に対して疑念というわけではないだろうが、航空的に非常に突っ込んだ質問をされた。その全てに私が答えると最後には笑顔で納得された感じだった。