ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
2.モンゴル・ノモンハン紀行
②平成13年8月20日(月) ウランバートルからテレルジへ・・
起床後、ホテル内のアルタイレストランで朝食。寝不足は感じられなかった。9時にフラワーホテルを出発。
【日本大使館】
日本大使館には10時20分と言ってあったので、少しだけ外で待たされた。今年は通訳のバチカ君も中に入った(大使館の中は日本なのでモンゴル人は入れない・・)今年も大使はいなかったので、№2の菊地さん(参務次官補?)と面談する。この時少しだけ寝不足が気になった。菊地さんは第1回の現地慰霊の現地に同行されたと言う事で、永井団長とは旧知の間柄であった。その後数年間、他の地域を回られて、今年モンゴルに戻られたそうだ。
【ダンバダルジャ日本人抑留者墓地】
あらかじめ日本政府の慰霊塔が建設中だと聞いていたが現地に到着してみるとビックリ!墓地は跡形も無く消えてしまい大モニュメントの建設中だった。(大林組だったと思う)完成イメージを見ると、モニュメントには埋葬されていた方の顔写真と名前が掘り込まれたプレートが並ぶようになっているらしい。遺骨は全て回収されているので問題無いと言えばそれまでだが、何も跡形も無く取り壊して全体をモニュメント(公園)にしなくても良いのではないか・・・。これまで遺族の方たちが万感の想いを胸に訪れられた場所である。こんな方法しか無かったのだろうか?
また、ノモンハン現地慰霊団及び成田山新勝寺の13年にわたる慰霊の痕跡は跡形も無くなっていた。私財を投じて建てた観音像、お地蔵様、慰霊柱は新しいモニュメントにはそぐわないと言う事で設置される事は無いだろう。日本政府が何もしなかった時に一生懸命慰霊を行っていた人たちの行為はどこかに消えてしまうのか?とは言うものの、そういう地道な活動のお陰でこのモニュメントが建設されるに至ったのだ。複雑な心境である。
さて、今年は嵐に吹かれる事も無く、無事に慰霊回向を行う事ができた。ここから見下ろすウランバートルの風景はどことなくのんびりしている。工事も中断しているのか?休息中なのか?職人達はいる事はいるのだが、何もせずに我々を眺めているだけである。
ダンバダルジャに到着した時から気になっていた「ブゥン、ブゥン」という不思議な音・・・・何かと思えば草原の上をバッタが浮遊しているのだ。その羽音が「ブゥン、ブゥン」と聞こえるのだ。しかし日本のバッタとは違い完全に空中でホバリングしている。改めて草原を見回すと蝶々の様にバッタが「ブゥン、ブゥン」とあちこちで浮いている。何とも奇妙な光景である。ダンバダルジャへの途中の風景。街道をゆく(司馬遼太郎)に出てくるツェ ベ クマさんの自宅はこの付近らしい。
【ボッフォにて昼食】
その後、時間調整でスフバートル広場を見学して、すぐ近くの科学技術省裏の「ボッフォ」で昼食。ここは昨年、得体のしれない物が出てきて抑留経験者の永井団長をして「まずい!」と言わせた店である。しかし、今回はそんな事は無かった。ただし最後に出てきた焼きそば?の麺は、延びたカップラーメンの麺その物で、食えた物ではなかった。
ここでの笑い話;私がトイレに行った時の事である。「Where is the RestRoom?」(レストルーム:トイレはどこですか?) と聞かねばならない所を、社員旅行で訪れたバリ島で英語が通じたのをいい気になって、ふと出た言葉が「Where is the RestHouse?」(レストハウスはどこですか?)だった。相手の店員はキョトンとしていた。念を押すように「RestHouse?」と聞くと更に不思議そうな表情をしてる。マネージャーらしき人物が気を利かせて場所を教えてくれた。・・・ん~レストハウスはどこですか?ここに決まってるじゃないか・・・。我ながら語学力の無さに驚いた次第である。
【テレルジに向かう】
ウランバートルの郊外を東に向かい、観光地であるテレルジに向かう。テレルジは奇岩の多い山岳地帯を観光化した場所だ。ウランバートルに訪れた観光客は必ずと言って良い程ここに立ち寄る。ウランバートルから車で約2時間程の距離にあるので、手頃な上に感動が大きい。
道中は、通訳のバチカ君の自宅の話を聞いた。彼は28歳の若さにしてモンゴル大学の日本語学科の教授である。しかしその給料で家を買う事は出来ず、ツアーガイドの様な裏ビジネスをやる必要があるのだ。ウランバートルでは家を買う場合、まず国から家の権利を買って、その後、国に家賃を納め続けなくてはならない。家を買ったのに家賃を払うと言うのが理解しにくい所だが、あくまで権利を買うと言う事らしい。あいまいな記憶だが、日本のサラリーマンに換算すると権利金は約2千万円、家賃は5万ぐらいなると思う。また、市内の建物のほとんどは、耐震構造など全く考慮されずに造られているそうだ。日本留学中に阪神大震災に遭遇したバチカにとって心配な話である。(ただし地震の心配はほとんど無いようだ)単純にブロックを積み上げて壁を作り、そこに角材を渡して天井にするといった簡単な造りでほとんどの建物(中規模ビル)が建設されているようだ。
【亀の岩に到着】
途中で、女性刑務所、シベリア鉄道を走る列車、電波基地(現在は民間の送信所)、石炭の採掘の街、兵隊の訓練風景、などに出くわしながら「亀の岩」に到着。亀の岩はものすごく大きな岩が亀を横から見た形で横たわっている場所で、非常に有名なテレルジの観光スポットである。別名「男性の××」と呼ばれるようだが、面白い事に、近くに逆方向から見ると「女性の○○」に見える岩もあるのだ。自然界の偶然とは言え男女にペアが近くにあるのは不思議な話だ。
さて、皆で写真撮影などをしていると、ふと邦裕さんが「あれ!親父・・」と声をあげた。振り返ると永井団長が草原でうつ伏せに倒れている。団長は以前にもウランバートル空港で倒れている。高齢であるため予断の許さない体調なのだ。ビックリして駆け寄ると「草原は気持ちいいな~」である。本当に人騒がせな話である。横になるなら「ぶっ倒れた」ような格好はしてほしくないと思った。
さて、それが一段落すると今度は車の陰から子供の叫ぶ声が聞こえてきた。ドライバーのガンさんが子供の顔を覗き込んで何かしている。後続の荷物運びのトラックにガンさんの息子が乗っていたのだ。何をしているのか?添乗員の石井さんに聞くと、ハエが目に卵を産みつけたのでそれを除去しているというのだ。その話を聞いた直後に、全員の手がサングラスや眼鏡に向かって動いた事は言うまでも無い。西部のゴビ砂漠方面にはそんな話があると聞いたが、ここはテレルジである。12年間モンゴルに来ている石橋さんもこんな事に出くわしたのは初めてだそうだ。そのハエは主に家畜の目の前を飛ぶ瞬間に目に向けて卵を発射するそうだ。当然、数秒後には卵がかえって、ちいさなウジ虫が15匹ほど目の中で生息することになる。一匹づつウジ虫取り除く以外に対処法は無い。大人でも痛い話である。ガンさんの子供は泣き叫んで目を触らせようとしない。何もしなくても痛いのは当たり前だ。15分以上奮闘したが、この場所では完全にウジ虫を除去できないのでツーリストキャンプに急ぐ事になった。
途中で山の上にお釈迦様が手を合わせている横の姿に見える岩があった。道路はあちこちで崩れていて溝ができていた。
【テレルジのツーリストキャンプにて】
3時半頃テレルジの一番奥のツーリストキャンプに到着。フレルバートルさんが昨年同様にアリヤワ寺で歓迎会をしてくれるので、娘さん達が4時に迎えにきてくれる事になっている。それまでしばし休息だ。
昨年の紀行文にも書いたがフレルバートル元中佐と永井団長との出会いは次のようなものである。13年前、初めて慰霊団がモンゴルを訪れた際のガイド役(監視役!)がフレルバートル(元)中佐だった。元共産主義国家のモスクワ留学組みバリバリのフレルバートル中佐は始めのうちは日本人に対して警戒心を抱いていたが、毎年8月にモンゴルを訪れて仲間の冥福を祈る永井団長に対して心を開くようになる。また、同じ特務機関員だったという事も気が合った原因のひとつかもしれない。
ともかく友情の芽生えた2人であるが、モンゴル軍の退役は非常に早い。若くして失業したフレルバートル中佐の、モンゴル初のアイスクリーム屋を始めたいという計画に対して永井団長は融資を申し出る。日本製の中古機械を自費購入して分解(部品扱いで関税が安くなる)、中国経由で持ち込みモンゴルで組み立てた。その大役は邦裕さんのお兄さんが引き受けた。また、モンゴルでの商業ライン、米1ドルに乗せる為に現地の食材を、某有名アイスクリームメーカーに持ち込み、味と価格との調整を図った。これらの努力で事業は成功。今ではウランバートル市内のホテルにアイスクリームを卸すまでになったのである。お互いどれだけの苦難があったのか?それだけでも1冊の本が出来上がるだろう。まさしくモンゴル版プロジェクトXである。
さて、部屋は成田山のお坊さん、鎌倉、福田、間野さんと同じだった。部屋と言うのは正確な表現ではない。このツーリストキャンプの部屋は全てゲルとなっている。ゲルに宿泊するのは初めてだったが、慣れると妙に落ち着いた。ゲル独特の雰囲気と言うのだろうか・・・全てが自然の素材で作られているから、身体が安心しているのかもしれない。
ゲルの造りを詳しく調べてみると日本建築に劣らない効率的な構造をしていた。まず木でできた格子をぐるっと囲む。丁度、蓋と底を抜いた空き缶を地面に立てるのと同じだ。そこから屋根の中心になる円形の木枠に向かって細い柱を数十本組み上げてゆく。(この組み方が実に巧妙であった)そうすると一つの構造体が出来上がり、その上にフェルトで出来た断熱の覆いを被せ、その上に雨避けの白い覆い(ゲルが白いのはこの為)を被せれば出来上がりである。暑い時は覆いのすそを捲くれば床が風通しが良くなる。まさしく生活の知恵から生まれた住居である。
4時にフレルバートルさんの娘さんが我々を迎えに来た。席が隣になったので昨年の写真を渡す事ができた。この時は英語が通じたようだ。(バートルさんの娘さんは国際線のスチュワーデス)アリヤワ寺まで15km程あるのでしばしドライブである。ほぼ1年ぶりにこの場所に戻ってきた。昨年の乗馬の際に、この風景この瞬間を忘れまいと記憶に叩き込んだ事が思い出される。あの時ほろ酔いで馬にまたがり山の斜面から見たシーンの全てが鮮明だ。ただし、本当に戻ってくるとは思わなかった。
歓迎会が始まると私は早々に喋る相手も居なくなりウォッカをちびちびとやっていた。手持ち無沙汰の私に「馬に乗りたい方は・・・」の声が聞こえた。早速、志願する。外に出ると馬が準備されていた。昨年帆走してくれたフレルバートルさんの親戚(兄弟)の人と握手をした。覚えていてくれたのだろうか?今回帆走してくれるのはモンゴル人の少年だった。私が馬に乗れる事がわかると彼は速足で馬を走らせた。昨年のように酔いが回っていない私も今回は着いて行く事ができた(と言っても手綱で引かれているのだが・・・)山の斜面にある敷地内を何周しただろうか・・・1年ぶりの乗馬で内ももの筋肉が早くも極度の筋肉痛である。鐙の長さが私の足の長さに全く合っていない。しかし、このようなチャンスはなかなか無いのでがんばった。
山の斜面を駆け上がる場所では「チョッ!、チョッ!」と声をかけて蹴りを入れると馬は全力で疾走する。最大速度ではないが、ここまで乗れる日本人にモンゴルの少年も満足げ?であった。その少年、私の顔を見ながら何か言葉を繰り返している。何となく真似しながらそれが彼の名前だとわかった。私も「マツモト!」と返す。彼の名前は残念ながらすぐに忘れてしまった。モンゴル語の発音なので記憶の中に入ってこないのだ。また彼は自分の馬と私の馬を交互に指差しながら「○×ッェンマル、△×ッァンマル」と言った。どうやら馬の名前のようである。・・・ンマルだったので・・・丸という日本の名前のようで覚えている事ができた。
また、成田山の間野さんが乗ってトボトボ歩き出した時に私が「チョッ!」と言ったら少年は笑っていた。(全力疾走の掛け声だからである。ちなみに私が馬にまたがって歩き出した時にも回りのモンゴル人が「チョッ!」と笑いながら言ってた。)
追記;勝手な行動をしたので永井団長に少し怒られた。
そうこうしているうちに宴会が終わって皆が出てきた。(軽めの歓迎で早めに終了したようだ)寺の表で記念撮影大会が始まった。何人かは斜面の更に上の建築中のお寺の本堂を見に行って「脚がパンパンだ!」と言っている。
何となく100m程下に止めてあるバスの所に戻る雰囲気になってきた。私は少年にこっそりと、車の所まで馬で行くというゼスチャーをした。斜面を歩く手間を省きながら最後の乗馬を楽しんで、少年に礼を言って別れた。
ツーリストキャンプに戻るとまず食堂で夕食をとって、それからシャワーを浴びた。これから数日間、風呂には入れないので最後のシャワーを浴びておく必要がある。しかし、そのシャワールーム、ある欠点があった。男女別れて2個づつシャワーがあると聞いていたが、中に入ると、どう考えても更衣室は男女一緒である。更に入り口に鍵はあるのだがシャワーの所には鍵が無く、結局男女で別れて入れる物ではなく、同姓同士で4人使用する他に方法はなさそうである。私は一人だったので、他のツアーの客は外で待つしかないのである。
食事の時にガンさんの息子を見かけたが、相変わらず目が痛そうな感じだった。ウジ虫は除去できたかもしれないが、強引な方法で除去したので角膜などに傷がついていなければ良いのだが・・・少し心配だ。
ゲルに戻ると中央にあるストーブに明々と薪がくべられていた。私のベッドは放射熱で暑過ぎるぐらいで、アタッシュケースも柔らかくなっていた。さて、キャンプ管理者からの話によると就寝中は鍵をかけないでくれとの事である。早朝は冷え込むので、なんと、夜中に薪をくべに来てくれると言う話だった。熱すぎたり寒すぎたりで寝れなさそうな気配である。
外ではツーリストキャンプの宿泊者の為にキャンプファイヤーが焚かれ、大音響で洋楽が流れている。しばらく寝れそうに無い。ゲルの外に出ると素晴らしい星空だった。関空の免税店でマイルドセブンのおまけにもらった双眼鏡で星空を見ると、とてもよく見えた。日本ではわからないが、カシオペアの星座は無数の星の集りだった。人工衛星や流れ星も頻繁に見えた。一人で星空を見上げていると、大型の野良犬が2匹よってきて足元で眠っていた。ここには野良犬が10匹以上いる様だ。夕食の時にも犬同士で争う声が聞こえていたので、人間の横にいると安心するのだろう。
明日の起床は4時、出発は4時半だ。明日の服装に準備を整えて就寝した。乗馬のお陰で内ももが極度の筋肉痛だ。
【おまけ】
このままスンベル村に行かずにここで数日過ごしても良いな・・・と思った。