ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
【 ノモンハン事件とは 】
皆さんはノモンハン事件をご存知でしょうか?
昭和14年の5月から9月にかけて 満州とモンゴルの国境地帯ノモンハン一帯で争われた日本・満州国軍 とソ連・モンゴル軍との国境紛争です。第1次・第2次ノモンハン事件に分かれています。諸説ありますが、私の認識している限りでは、事件に至る経緯は次のようなものが挙げられます。
①清朝の時代・ロシア帝政時代と,、この一帯を治める国が代わる度に
外蒙古・内蒙古の国境線の認識が変わっていた。
②そもそも国境線が曖昧であったにもかかわらず、満州国創立時に
外交努力によって国境線の確認が行われなかった。
③当時の満州国に駐留していた日本の関東軍は独走の傾向が強かった。
④モンゴル国内の親ソ派が実権を握る為、ソ連軍をモンゴルに
駐留させる口実としてノモンハン事件を利用した。
⑤現地の遊牧民にとっては国境の往来は自然な事であったが、
それに護衛兵を共なってた事でお互いに小競り合いが絶えなかった。
昨年、ノモンハン事件から60年と言う事で各メディアにとりあげられました。一般的には、日本陸軍の歩兵部隊は身を隠す事もできないモンゴルの大平原で、ソ連の大戦車部隊に火炎瓶で戦いを挑んだという事で知られていると思います。最終的に日本軍はソ連軍からの大攻勢を受け、1万8千人(諸説あり)の死者を出し部隊は壊滅いたしました。
しかし、最近の研究では、ソ連軍の死傷者も日本軍とほぼ同等(もしくはそれ以上)であったということです。結果として日本軍が大攻勢を受け、国境線が満州側に押し込まれた形になっていますが、私の感じでは、数に勝るソ連軍、補給の無い日本軍、人命無視の無謀な作戦は両者譲らず。日本軍が大攻勢を受けるまでは、どちらも譲らずの死闘を繰り返していたようです。したたかに大攻勢の準備をおこなったソ連軍が一枚上手だっのかもしれません・・。
当時、私の母の叔父は陸軍航空隊より参戦していました。航空部隊の場合は日本軍が常に優勢でした。時には日本軍10対ソ連軍60以上という空中戦が行なわれましたが、この時代、ノモンハン事件の空中戦では戦闘機の旋回性能に勝る日本軍がほとんど勝利を収めたようですが、ここでも数に勝るソ連軍が次第に優勢となり均衡状態で停戦に至ったそうです。
私の知る範囲では、陸軍航空隊が空中戦で負けたと言う話は聞いていません。事件後半、制空権が奪われていたという話しですが、部隊を温存する為に出撃回数を減らした事が原因の様です。しかし、出撃すれば少数の日本軍の方が優勢だったそうで、この状況をどう判断して良いのか私にはわかりません。これは陸上の高射砲部隊でも同じ事で、部隊としては“勝った”と言う実感しかないそうです。これは一部の部門で高利益が上がってるが、全体では赤字の会社と同じ状況かもしれません。
<<< 最近知った怖~い話し >>>
戦争中、日本軍が人命を軽視した無謀な作戦を行っていた事を、いろんな方が書かれていますが、私が最近になって知ったソ連軍の怖~い実情です(全体像と言えるかどうか?)
ソ連・モンゴル軍には別に「内務省軍」というのがあったそうで、これが前線兵士の後ろに構えていたそうです。この部隊は何をするかというと、ソ連・モンゴル軍の前線兵士を監視する役目だったそうです。監視と言えば聞こえは良いのですが、実際は逃げ帰ってくる兵士(特にモンゴル軍兵士)を攻撃したのです。前線の兵士は前も後も挟まれた感じになり、結局、前に進まざろう得なかったと言います。また、戦車の場合は乗務員が乗り込んでからハッチに鍵をかけて出られなくし、帰還しなければ開かない状況にしていた話は有名です。日本は人命無視の作戦と言われますが、ソ連は兵士(特に下級の兵士・ロシア民族以外の兵士)は家畜並みの扱いだったようです。
(追記) 「スターリングラード」(2001年)という映画の冒頭で、独軍の攻撃から退却する自軍の兵士を、赤軍部隊が銃撃するシーンが描かれています。
追記:2010/09/
最近の研究(2005~2010年)によれば、ソ連側の損害は日本の数倍(2~3倍)に及ぶことがわかってきました。これが公海上の戦いであれば完全に日本側の勝利だったと言って良いと思います。しかし、残念なことに①ソ連側の主張する国境線が現在の国境線になっている。②日本側には、連隊単位で完全に壊滅させられた部隊が存在する。③停戦時期の判断ミス。この3点を事実として受け止める必要があるのではないでしょうか?