ノモンハン事件現地慰霊の旅 モンゴル・ノモンハン紀行
5.後日談
①ノモンハン会で発売している地図Aの原紙をお持ちの月野木氏(参戦生存者)と手紙で連絡を取った。あいにく夏ばてが悪化されたようで病床にふけっておられるとの話。1ヶ月後に返事をもらう。私の問い合わせた内容は以下の通りであった。
1.南渡しから東方面の地図の続きをお持ちか否か?あるならコピーがほしい。
2.ホシウ廟基地およびその付近の詳細な情報がないか?
しかし、南渡し以東の部分は無く、ホシウ基地周辺の情報も無かった。ただし、私が南渡しと読んでいる場所は「ヤス渡し」という名称がついている事がわかった。これは朗報であった。東渡し。北渡し、川又渡しなどの名称はすべて関東軍が付けたものであるが、別名「ヤス渡し」という名称は、そもそもその場所に地元の渡しがあるという証明ではなかろうか?だとすれば私が現地で見つけた地元の渡しと一致するのではないだろうか?確かに手書きの簡易地図の方にはその一帯を「ヤス」と表現していた。(余談だが例えば「ナミ高地」と言う名称は773mという標高から付けた名称である。)
「ヤス」の他に「ハラ」「オカ」「ノロ」(ノロ高地の事)という地名もあり関東軍が付けた軍事上の名称とは明らかに違うものである。今後この名称が日本語から由来するものかモンゴル語から由来するものか調べて行くつもりだ。
②モンゴルから帰ってきてから2ヶ月後の10月にモンゴルの報告を兼ねて佐賀の西原五郎に会いに行った。ほぼ1年ぶりである。昨年とまったく同じパターンで行ったので今回は楽であった。西原五郎の為にモンゴルでの写真を大きく引き伸ばして、着陸地点の写真はつなぎ合わせて連続物にした。そしてその写真を見せた答えは「よくわからんな~」モンゴルまでわざわざ行ったのに、本当にずっこけそうな話である。とは言うもののこの言葉をある程度予測はしていた。かえって気を使って「こんな感じだった・・」と言われるよりましである。正直に「わからん・・」と言ってくれて良かったと思う。なにぶん当時の状況と61年経過している事を考えると無理のない話しである。ましてや空からの風景でなく陸上の風景である。逆に写真を見て何か思い出してくれないか?という気持ちの方が強かった。ただ、私が書いた見取り図を使って現場の説明をすると、確かにその場所で間違いないとの話。やはり空からのイメージの方が強いようだ。こうなったら本人に飛行機を操縦してもらって空から見てもらうしかないな・・・と思った次第である。
③帰還したホシウ廟基地の記憶。ホシウ基地は基本的に隠蔽基地であったのでほとんどその存在は知られていない。当時の資料にその記述はほとんどない。将軍廟基地の裏手の大砂丘に隠れるようにあったと言う事だ。ちなみに将軍廟飛行場は廟(寺のようなもの)のすぐ南側に滑走路があったそうだ。その将軍廟も最近の話では61年前のソ連軍の爆撃から人が寄りつかなくなり現在はただの廃虚になっているそうだ。
私の考えではホシウ廟基地と呼ばれるぐらいだから付近に廟があってホシウという名前がその付近に残っているのでは?と思う。しかし、西原五郎の話に廟は出てこない。唯一の記憶は大砂丘を越える時に枯れた木が見えたという事だけである。8/4の戦闘で戦隊長負傷以降は撤収されたようなので、ほぼ数日の使用だったようだ。西原五郎に至っては8/4の朝に1回着陸して、松村戦隊長救出の後帰還しただけで、その後は使用した事はなかったという話だ。
④アライ基地での戦闘。アライトロゴイの飛行場はアブタラ湖の北西側にあったようだ。離陸直後にアブタラ湖が左手下に見えたそうだ。そのアライトロゴイにあった前線基地でソ連機の攻撃を受け可児大尉以下数名が戦死された時の事。着陸直前に敵の来襲を受けた可児大尉はそのままフラップを下げたまま攻撃をかわしつつ離陸後左手のアブタラ湖畔に撃墜されたという事だ。アライトロゴイ基地は現在中国側のノモンハン戦争資料館がある付近のようである。
⑤(別件)西原五郎、青木飛行団長との思い出。
西原五郎は青木飛行団長の僚機(2番機)として太平洋戦争を戦った。実際、ノモンハン事件のように空中戦を交える事はなかったそうだが、実に興味深い思い出話があるようだ。中でもノモンハン事件に関係した2人の将校(植田中将?辻政信)と言葉を交わした事や、加藤隼戦闘隊で有名な加藤中佐(当時)との会話である。ある時、連絡で加藤中佐の所に行くと帰る間際に「○○さんによろしくお伝えください」と加藤中佐が言ったそうだ。まず少尉である自分に「・・・下さい」と言った事に驚いた。○○さんが加藤中佐より下の位だったので、学校か何かの先輩だったのか?と不思議に思っていると、青木飛行団長曰く「あいつはそういう男なんだよ・・・」と言ったそうである。実はその時、青木飛行団長は加藤中佐を内地勤務に就かせる事にしていたらしいが、加藤中佐は内地に戻る2日前に撃墜されてしまったと言う話である。